⑤ 伏せしまなこを――1
翌週、高緒は塾へは来なかった。電話をしても、「何でもない」とか、「家の用事」だとか繰り返すだけで、詳しい話をしようとはしなかった。そしてある日を境に電話まで繋がらなくなった。朱莉は倫子の教室へ行き、高緒の様子を尋ねたが、彼女もまた困惑しており、ちょっと落ち込んでいるみたいで家族とも顔を合わせない、スマホは風呂に落としてしまい、新しいのはまだ買っていないらしい、との事だった。
仲間内で高緒の家へ行こうかとの案も出たが、それを倫子に告げると、姉はこの頃部屋に閉じ籠りっぱなしで自分にも会ってくれない、だから少しの間そっとしておいてあげて欲しいと止められた。
米彦はその週、ずっと不機嫌で常に苛立ち、和也とも碌に口を利こうとはしなかった。塾が終わるとすぐに帰宅し、友人達と駅前広間で時間潰しをすることもなくなった。その間、紗仲も姿を現さず、一度誰かがデートかとからかったが、
「あんな奴、二度と見たくない」
と吐き捨てた。
八重もまた、駅前広場で喋っていても、どこかそわそわとして、座るや否や帰る機会を
光琉もこの集まりには参加しなくなっていた。あの日、朱莉に最後の告白をした。朱莉は、まるで映画みたい、彼の熱烈なファンはこういうのを嬉しがるんだろうな、と思いつつ、それとなく断った。
そうして駅前広場で会話をするのは和也と朱莉の二人だけとなり、友人達が一斉に消えて、笑っていてもどこか白々とした空気が流れているのを否めなくなった。
ある日、二人が話していると、倫子が近くを通り掛かった。朱莉は手を振り、仲間に入れようとしたのだが、姉に買い物を頼まれているし、熱っぽいからと断られ、高緒の名前が出れば引き留められず、夏風邪をひくなんて馬鹿なんだ、とからかう事すら出来なくて、結局お
何となく気まずい雰囲気の中で、ひとまずの話題を変えるべく、朱莉はぽつりと呟いた。
「綾幡くん、紗仲ちゃんと別れちゃったのかな」
「さあ」
「どうしたんだろうね。お似合いの、というか、しっくり来るカップルだったのに」
「まあ、結局、馬が合わなかったんだろう」
「そうなのかな。ただ喧嘩しただけじゃないの」
「どうなんだろうな」
「やり直せるなら、やり直した方が絶対にいいよね」
「そうなんだろうな」
「やっぱりさ、こういう愛する人に出会うっていうのは、運命だと思うし」
「お、おお」
同学年の可愛い女の子の口から、愛する人だとか、運命だとか、そんな言葉が出て来て、和也は赤面した。
◆◆◆◆◆◆◆◆
そんなロマンチックな台詞に曳かれたのでもないだろうが、刺々しい米彦の態度に業を煮やした和也は翌朝彼に話し掛けた。幼少期からの親友であればこそ、そんな様子に我慢がならなかった。
米彦は無視を決め込もうとしたのだが、余りのしつこさに振り向いた。
「何だよ」
「何だよじゃないだろう、お前、紗仲さんと何かあったのか」
和也は友人に、紗仲との
米彦は満面さっと赤くなり、
「何もねえよ」
「何もねえわけないだろう、俺は、お前との付き合いは長いが、そんな態度をしているところ、これまで一度も見たことないぞ」
「そうか、良かったな」
鼻を鳴らして前を向く。これで話を切り上げるつもりだった。
「良かないだろうよ、一体どうしたんだ」
「言いたかねえよ」
「言いたくないが、何かはあったんだな」
「うるさい! 黙ってろ」
「喧嘩でもしたのか」
「喧嘩じゃねえよ、絶交だ。もう二度と会わない、会いたくもない。あれの事なんか二度と口にするな。思い出したくもない」
「それは、どうしてだ」
「あいつが、
「自分の思った通りの女じゃなかったから、失望したか」
上目遣いでじっと睨み、
「和也よ、知らないからって適当なこと言うなよ。お前だって、あいつを知れば同じようになるだろうぜ」
その様子を観察しながら、顎を撫で、
「……なるほど。それで、喧嘩の理由は完全に彼女にあると思っているわけだ」
「喧嘩?」口の端が引き攣る。「まあ、いい。それでいい。原因は向こうだ」
「それで、謝ったのか」
「謝ってどうにかなるもんじゃない! あいつは、根本的に」
「彼女じゃなくて、お前がだ」
「何」
「お前のその様子じゃあ、最後に別れた時、彼女を罵ったりもしただろう。それについては謝ったのか」
「何を」
「お前が彼女を批難しているのは、彼女が非道い人だからだろう? 罵ることは非道いことじゃないのか」
「お前さ、時と場合というものがあるだろう。罵ったって当然だ。お前だって、絶対に――」
「今」と
これは詭弁のようなものだ。和也ははっきりと認識していた。
「だから、あいつは――」
しかし和也は敢えて続けた。
「彼女がどんな人かはどうでもいい、状況だって問題じゃない、罵倒という行いが、良いものか、悪いものか、それだけを聞いているんだ」
「それは」
「それについて、お前は謝ったのか」
「だから!」
「それなら! 彼女を許さなくてもいいが、その罵った事についてだけは謝った方がいいだろうよ。その後、その他がどうとかは、俺の知った事じゃない。だがな、彼女を非道いと批難するなら、お前は自分のした非道いものについては謝るのが筋じゃないか? なるほど彼女は悪人だろう、だけど今はお前にも、悪い所がある。だから、彼女を批難したいのなら、せめて自分は綺麗になってからだろうよ」
和也はどんな屁理屈を展開しようとも、必ずや米彦を紗仲に会わせるつもりでいた。それが彼のためになる。そう信じていた。友人のためならば無茶な言い分でも筋を通させる、その腹
「偉そうに……。関係のないお前がとやかく言う問題じゃない」
「……だがな、――」
「だがじゃない!」
「関係のない俺が言おうが、関係のある誰かが言おうが、言葉というものは話す人によって判断されるものじゃないだろう。誰が言おうが、内容が同じならば同じはずだ」
「何も知らない癖に」
「何も知らなくても言葉は同じだ。まあ、いい。とにかく忠告はしたし、お前は聞いた。それからどうするのかは、お前の勝手だ」
言うことは言った。これで彼は動くはずだ。たとえ動かなくとも、折を見てせっつく。何度でも繰り返してやる。米彦と紗仲は良い関係を築いているべきなのだ。それは友人の幸せに、絶対に必要なものだ。
米彦は机に突っ伏し、動かなくなったかに見えた。そして、
「ああ、分かったよ! 謝ればいいんだろ、謝れば! だがな、俺はあいつを許さねえぞ!」
「ああ、そうか。勝手にすればいいだろ。許すも許さないもお前のことだ、俺じゃない。お前と紗仲さんのことは、俺には関係ないからな」
自分に出来ることはした。後は二人が上手く行くことを祈るだけだ。和也は、彼にも似合わず淡々と講義の準備を始めた。
「クソッ」
米彦は席を蹴り、見るからに苛立ちながら教室を出て行った。
果たして和也の言葉が彼にどれほどの影響を与えたのかは分からない。それを肯定し、そのまま受け取ったのかも知れないが、あるいは全く聞いていなかったのかも知れない。おそらくは後者だろう。だが、一つ確実なことは、米彦は紗仲に会いに行くための理由付けをこれで得られた。
怒り、苛立ち、焦り、悲しみ、それらが心を支配していなければ、きっと彼はこの時に自分の本心を見出せたはずである。
いや、見出していなくとも、現に今、彼は彼女の山へと向かっている。それで充分だった。たとえ彼が自らの真情に気付いていなくとも、彼は彼女に会いに行く。
◆◆◆◆◆◆◆◆
草はらは少し丈を伸ばしていた。所々に植えられた梅は、季節外れの花を大部分枯らし、黒ずんでいるものもあった。しかしそれが米彦にとっては何であろう。何も見てはいなかったのだから。
真夏日であった。良く晴れていた。草葉は香り高い、空は青い、影を落とす飛ぶ鳥は鳶であった。落つる声に面を上げた。青空に塗られたような白雲が浮かんでいた。米彦の胸中には何があったか。想い人その人の面影のみであった。
雲の絶え間に覗いて見える我が姫君の
いつしか洞窟の前まで辿り着いていた。暫し躊躇ったが、意を決し、踏み入った。
中は冷やりとして薄暗く、ぽっかりとしていた。慣れない目では闇の他には見えないが、人の気配がないのは分かった。それであるから安心し、
「紗仲?」
と呼んだ。
返事はない。
もう少し大きな声で呼んでみた。
やはりない。
ようやく目が慣れ、ものの輪郭が見えるようになったが、やはり誰もいなかった。以前紗仲が天井から下ろした寝台はなかったが、床には様々な形のものが散らばっていた。金床、鉄板、
それらを踏まないように避けながら奥まで進み、床几の前に腰を下ろした。と、すぐ脇に紗仲が製作したのであろう、湾曲した鉄の棒が落ちていた。取り上げてみると、――彼は名称を知らなかったが、どういうものかは直ぐに分かった――、ショーテルだった。忌まわしく、力任せに放り投げた。それはブーメランのように回転して飛び、壁に突き刺さった。その見事な投擲に気付きもせず、頭を抱えた。
誰かに危害を加えることを目的として製作された武器を目にして、もはや
自分とは違うのだ、別の世界の存在なのだ、米彦の頭蓋にそうした言葉が反響した。
「クソッ」
何に対するもどかしさか、彼自身には分からず、床几を叩いた。拳に柔らかいものが触れた。
いぶかしみ、暗がりに見えるライターを取り、燭台を灯した。それは文鎮で押さえられた紙束だった。何かの文字が書かれていた。明るくなって、文目が分かった。
――これが紗仲の字。
ちょっとした知識に感動を覚える。
――だから何だというんだ!
言い聞かせ、松葉を
言葉の意味を読み取れるかどうかは問題ではなかった。ただ彼女の書いた文字が並んでいる、それだけが彼にとって特別な意味を持っていた。
漢字ばかりの中に平仮名で書かれたものが一枚だけあった。こればかりは彼にも読めた。それには一言、
「さようなら」と書かれていた。
胸を突かれた。
――これが紗仲の決別だった。
これが、つまり――、
彼女は別れに納得したのだ。……俺は、彼女にとって、もう何者でもない。
米彦はそれと知った。
当たり前だ。俺から彼女にそう告げたのだ。
それが答えだった。
唇を噛んだ。しかし涙は流さない。これが俺の望んだ、彼女に求めた、決着だった。
今ではそれとはっきりと分かった。
もはや――、両人共に、それで良いと結論したのだ。
思い通りではないか、何が悲しいのか。なぜ体が動かないのか。床几に突き立てた両手が、どうして離れないのか。
紙の真ん中に雫が落ちた。一瞬、それは涙かと思った。しかし違った。それは唇が切れて零れた一滴の血であった。
そうだ、俺は泣かない。当然だ。涙のわけがない。自分から別れを告げたのだから。
しんと鳴る静寂、壁面に響く。
握り締めた掌に、文鎮の角が突き刺さった。
◆◆◆◆◆◆◆◆
ざ、
と足音が一つ聞こえた。
米彦は思わず振り返る。
眩しい白光を背負った影が、一つ浮かび上がっていた。
「紗仲」
髪の長い、なよなよとした線の、小柄な少女のものだった。
彼女は驚きに足を止めていた。額に手を当てて、鼻をすすった。米彦を確認したのだろう、おずおずと彼に歩み寄って来た。
米彦もまた、それと知らずに文鎮をポケットに詰め込んで、這うようにして彼女に近付く。これまでの気勢はなかった。ただ彼女に会えたと思えたことが、彼を救われたという気持にさせた。
「紗仲……」
弱々しく問い掛ける。返事などなくてもいい、ただこうして彼女を前にして、彼女の名前を呼ぶだけで充分だった。
しかし彼女は震えるようにゆっくりと開いた口を、ぽっかりとさせて言うのだった。
「に、兄ちゃん……?」
その影の主は倫子だった。ようやく立ち上がり掛けた米彦を、倫子は驚きの目付きでまじまじと見下ろしていた。
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