③ 苦界にたゆたう――2
住宅街の路面からも
紗仲は翠玉を思わせる晴朗な声を楽し気に弾ませていたが、米彦は時折黙り込み、悩み迷った。彼女と二人きりになったことで、一つの不安が
米彦は遂に意を決して彼女の話を遮った。
「なあ、昨日のことだけど」
「なあに」
「昨日、あんなに慌てていたのは」
「急用よ」
「万巻韋編に関することか」
「大丈夫だったわ」
「そうなんだろう」
「大丈夫よ」
紗仲からすれば、昨日のことを話して彼を不安にさせたくない、そうなれば彼は記憶を取り戻していないというのに何かの役に立とうとするかも知れない、それは余りにも危険すぎる、だからその話はしたくない。
米彦からすれば、あれは自分達二人に深く関わるものなのだから、それの安否が知りたくなる、自分だって当事者であり、あれに何かがあれば二人の関係も危機に晒されてしまうかも知れない、だから不安にもなる。
「そうなんだろ。今は覚えていないけど、昔の俺は君の」夫と言うには気恥ずかしく、「連れ、だったんだろ。それなら、その、思い出した時に困らないように、すぐに状況が把握出来るように、何があったのか、知っておいてもいいと思うんだけど……」
両人共に俯向いてじっと思い入れ、そして、
「そう。そうかも知れない。詳しくは言わないけど、どうだったかだけは。一言でいえば、何もなかったわ。本当よ。ただ誰か、人間が一人、結界に触れていた。あの草叢の周りに張ってあるのだけれど」
「それじゃあ、あそこが見付かったの? 秘密基地だって言ってたけど」
「いいえ、そうじゃないわ。その人は結局、結界をかすめただけで何処かへ行っちゃったから。中にも入られなかったし、結界の存在にも気付いていなかったはずよ」
彼女曰く、その結界には、周りに近付く生き物にそこを認識出来ないようにする仕掛けを組み入れているという。結界が張られた場所そのものがそこに在るとは分からなくなるように、特殊な造園術の秘奥を用い、視覚を始めとした五感に錯覚を引き起こさせている。
たとえば人は、ものが目に映っただけでは見たものを認識したとは言えない。と言うのも、人は視覚を通して得た情報を脳で処理して初めて見たものを認識するからだ。つまり、目で見ていても、脳がそれを意識しなければ人は見ているものに気付けない。
紗仲がそこに張っているという結界とは、すなわち、たとえすぐ
人は誰でも普通に生きていても見間違いをしたり遠近感が狂ったりすることがある。あの結界は、木の配置や石の置き方を工夫して、そうした見落としを意図的に作らせている。言わば空間的な騙し絵であり、それを更に突き詰めたものだった。前述の通り、その秘術は視覚だけでなく、他の感覚にもまた錯覚を引き起こし、正常な認識を阻害するように仕組まれている。
これが結界である以上、術者かもしくは許されたものが結界の一部を扉のように開いていなければ内部に侵入することは出来ないのだが、こうした技術が使われているからには、近寄る者がいようとも、そこに結界があるということや、周辺の違和感すら察知することは出来ない。だから決して気付かれることはない。
もしも誤認を引き起こす術を解かずに内部にまで入り込みたければ、目で見えるものも耳で聞こえるものも鼻で嗅ぐものも肌に触れるものも舌に感じられるものも一切信じず、その上でその先に何かがあると固く信じて、身体感覚を捨て去って進むか、もしくは、周りがどうなっているのかすら分からない状態で迷い込むしかない。
米彦があの夜あの草原へ辿り着けたのは、意識が朦朧として目も耳も五感が全て働かなくなっていたからだ。もしも意識や感覚があれば、錯覚に惑わされ決して到達出来なかったに違いない。
「だから、大丈夫よ」と紗仲は続けた。「それにあの山にはあの場所を中心に人払いの法も布いてあるからね。理由はなくても何となく人がそこには来たくないと感覚させるようなものを。意志をもって来ようとしなければ、わざわざ寄り付こうとしなくなるもの。昨日の人は結局、結界の外縁までは来たけれど、何も気付かずに行っちゃったから」
「じゃあ、何もなかった。心配はないんだね」
「ええ、もちろん。韋編は無事よ。結界の縁まで来られたのが不思議なくらい。あんなに人が近寄ったのは、私が今回記憶を取り戻してから初めてのことよ。だから、ちょっと、びっくりしちゃって」
それを聞いて米彦の不安は軽くなった。
しかし、それでもまだ、どこかで何かが引っ掛かっている。それは昨日のことや万巻韋編に関わることではなかった。彼自身でもはっきりとは分からないが、何か、どこか、紗仲との関係に落ち着かなさを感じていた。彼は彼女に惚れて惚れられてもいる。それに疑念の余地はない。だがその状態にある程度慣れた今、彼は何か根本的な不安に駈られていた。
何だろうか。それは一体何だろう。彼女には同じ不安はなさそうに見える。自分だけが抱いているその不安とは何なのか、答えられないだろうと思いつつも、米彦は笑いで誤魔化しながら、それが何か紗仲に問い掛けようとした。丁度その時、
「あ、ここよ」
と彼女は立ち止まった。それで質問の切っ掛けを失った。米彦は紗仲が目で指した家を眺めた。
豪邸というものだった。一区画をそのまま囲んだ土塀、黒木の勝手口、上方には松が枝を伸ばしている。瓦屋根の付いた正門は四輪馬車でも潜れそうなほど大きく、古びた分厚い木材で作られた扉は内に開かれ、その奥には松笹楓の植えられた築山、大きくうねる玉砂利の道が覗いていた。黒ずんだ扉は黒鉄で縁取られて威圧感を発し、屋根の裏には防犯カメラが睨むようにこちらを向いていた。
「ここよ。ここが、杉田さんの家」
そう聞いて米彦は先日の老女を思い出した。彼は常々これほどの邸宅に住む人のことを、あんなに大きな家に住んでいるのだからどうせ悪いことで稼いでいる連中だろう、などと思っていたが、あの老女を思い出しても悪人だとは到底思えず、理由のない偏見を抱いていたことを反省した。
あのどこかおっとりとした、のんびりとした雰囲気は、どんな悪事とも結び付けられない、そんなものとは一切の関わりのない、世の中に悪いことが存在するなどとは想像もしたことのない幸せな生涯を過ごして来た人のものであって、そうした人生を送れるだけの優れた人品の持ち主であるからこそ、こうした立派な邸宅に住めるのだ、などと、今度は別方向に極端な感想を持った。
紗仲は杉田さんと仲良しだから、ついでに俺も仲良くなって高級な感じのお菓子でも貰えないかな、と厚かましいことまで考え出した。
米彦の
「ああ、ちょっと」
と、重く低い男の声が紗仲の動きを止めた。
米彦は背の低い方ではない。既に成人男性の平均に達し、中学生としては高いくらいだが、そこにいた男は米彦が見上げなければ顎も見えないほどに大きかった。体格もがっちりとしてスーツを筋肉が押し上げていた。首も太く、髪を短く刈ったその顔は脂が滲み、頬に裂傷でもあればよく似合っていただろう、凄愴の気を帯びていた。
彼のたじろぐ内心を見透かしたように、男はふっと笑い、親しみを込めた表情とでもいうものを作って見せようとしたが、その目は暗く据わっていた。
「君達、この家に何か用かな」
男が問い掛けた。
「用って、別に……」と、口籠る米彦とは対照的に、
「この家の犬と遊ばせて貰いに来たんですよ」と、紗仲は明るく何の気もなしに答えた。「ちょっと前から伺っているんです」
「俺は、初めてですけど……。あの、すみません、この家の方ですか」
「まさか!」男は大袈裟に驚いて見せ、それが急に重苦しい気迫を発し、「ああ、警察だよ、警察」
と、胸ポケットから手帳を取り出した。指はごつごつとして皮膚は荒く、胸倉を掴まれれば服など紙のように破られてしまいそうなほど太かった。手首は筋肉で埋まり
「ええと、君、女の子、ちょっと前からって、具体的にいつ頃かな」
「一ヶ月前、くらいだと思います」
「一ヶ月前ね。ふうん。それより前は? 犬が目的じゃなくても、遊びに来たことはあるの?」
「いえ、ありませんが」
「あっそう。この家の人とは遊びに来る前からの知り合いなの?」
「いえ」
「それじゃあ、何が切っ掛けで来るようになったんだい? どこで知り合った」
「一ヶ月くらい前に、この家の前を通り掛かった時、このお家の方が犬の散歩に出掛けるところだったので、それで、可愛い犬ですね、と声を掛けて」
「ふうん、犬好き?」
「ええ、まあ」
「君の家でも飼ってるの?」
「いえ、飼っていませんが」
「ペット禁止のアパートとかかな?」
「そういうわけでもないんですが……」
「住んでいるのはこの近く?」
「いえ、あの」
「あの!」米彦は、警察に威圧される紗仲を見かねて口を挟んだ。「何か、問題でもあるんですか。こんな尋問みたいなことをされるような覚えはありませんけど」
男は米彦に視線を落とした。眼の底が暗く見えたのは逆光のせいばかりではなかっただろう。
「今日も、この家の犬と遊びに来たんだよね」
「そう言ってるじゃないですか!」
男は疑わし気に、
「ここの犬が死んだって、知らないのか?」
「え」
米彦と紗仲は同時に声を上げた。その二人の反応を観察しながら、
「そうか、知らなかったのか。この辺りじゃ噂になっているんだがな。まあ、いい。二日前に殺されたんだよ。残虐な手口でね」
「残虐な……」米彦は息を飲んだ。
「二匹いたとは知っているだろうが、両方とも首を切り落とされていた。一匹などは腹を裂かれて内臓を道路にぶちまけてな。首は現場からなくなって……。ああ、本当に知らないのか?」
米彦はそんな話を聞いていた。それを思い出した。そう言えば、そのような話を和也がしていた。そしてそれには続きがあったはずだ。ここまでは、いくら紗仲が懐かれていたとは言え、残酷な殺され方をしたとは言え、犬の話でしかない。もっと、何か、重大な続きが。
「だけど、犬が殺されたのだって事件ですけど、何か、もっと、他に」和也は何かを言っていたはずだ。
男は青褪めている紗仲を無視し、米彦をつくづくと眺め回した。
「君は、この家のことを彼女から聞いて遊びに来たのか? 知らなかったのか?」
「この家のことって」
「住人のことだよ。ヤクザだってこと」
ああ、そうだ、和也が言っていた、殺された犬は怖いところに飼われていたらしい、指定暴力団、英彦山会傘下、坂鉾組の前組長、杉田政之丞、その人の家に。だけど少し前に死んでいる、不審な事故死で。そして、先日の杉田という老女もまた、少し前に夫を亡くしているとのこと。
「杉田、杉田って、それじゃあ、あの。紗仲。紗仲は知っていたのか?」
彼女は涙に溢れる目をいっぱいに見開き、怯えたように首を振った。
男は日に焼けた手を顎に当て、ずんぐりした指で唇を撫でながら、黙り込んだ彼らを光のない眼で眺めて思考を巡らせていた。
と、
「何も知りませんよ、その子達は」
その声に振り向くと門の内側にいつから居たのか、先日の老女がすっと立ち、若い友人達と警察へ透徹な瞳を据えていた。
歩を進ませて閾を跨ぎ、彼らの前に頑として立つと、
「あら、麻倉さん、お勤め御苦労様です。それで、犯人は見付かったのか知ら」
「これはどうも。こちらも全力を挙げて捜査しているんですがね、中々、手掛かりも」
「真面目にやって下さっているの? 早く解決して頂かないと、善良な市民は怖くて夜も眠れないわ」
「善良な市民ね」
男の鼻笑いも風に流し、
「善良な市民ですよ、私は。しかし、犬が殺されたくらい。たかが器物破損でしょう。今回の件はそれ以上でもそれ以下でもないのですから、貴方は部署が違うのでは?」
「それが、急な配置換えがありましてね」
「そうですか」
「慣れない事ばかりでまったく困っていますよ」
「それはお気の毒なことですね」と、思い入れ、「紗仲ちゃん」
「は、はい……」と、急に名前を呼ばれた彼女の声は震えていた。
「紗仲ちゃん……。ごめんさないね、怖い思いをさせちゃって。……家のこと、隠していたわけじゃないんだけれど、言わなかったものね」
「いえ、その……。私も、聞かなかったですし……」
「ふふ、紗仲ちゃん、こんなこと、普通は思いもしないでしょう?」
「あの、でも……。杉田さんさえ良ければ、また、遊びに……」
「いいのよ、気を使わなくても。それにね、もしも紗仲ちゃんがどうしても来たいって言っても、私は止めるわ」
「あの、それは」
「もう来ちゃ駄目よ。本当は、これまでも来て貰っていては駄目だった。紗仲ちゃんに甘えてしまっていたのね。ごめんなさい。今まで短い間だったけど、楽しかったわ。ありがとう」
「あ、あの」
「お達者でね」
紗仲は俯き、ぐっとして、
「ありがとうございました。私も、とても、楽しかったです」
「そう言って貰えると嬉しいわ。彼氏さんも、この前、話を聞いてくれてありがとう」
「いえ、そんな」
「ほら、お二人とも、お元気でね。いつまでも仲良く」
「はい……」と紗仲は思い入れ。
「さようなら」老女は柔らかく言い放つ。
「杉田さん、さようなら。杉田さんも、お元気で」
そう口にしても紗仲は中々立ち去ろうとはせず、それを知った老女はきっぱりとして、
「さ、麻倉さん」と、彼女らに背を向け、あたかもそこには警察しかいないかの素振りで、「積もる話もあるでしょうから、中でお茶でも如何かしら」
「そうですね、それでは頂きましょう」
と、少年少女をそこに残して、門を潜って邸宅の方へと玉砂利を踏んで行った。
紗仲は彼女らがいなくなったのを感じ取り、面を上げて、
「残念ね。お友達が一人、減っちゃった。仕方のないことだけど」
と、麻倉と呼ばれた警察と同じ眼をして空を見上げ、
「分かっていても、別れはやっぱりつらいものね。さ、私達も帰りましょう」
と、米彦を促した。
それから暫くは黙って歩いていたが、杉田邸の角を過ぎ、もう一区画行った頃、
「なあ、紗仲」
と、米彦は彼女を慰めようとした。
が、突然、
「ああ、もう! どうして!」
紗仲は頭を掻き毟り、乱れた髪もそのままに、ある一方をきっと睨んで、
「貴方、ごめんね。急用が出来た。今日はさようなら。また明日ね」
それだけ言うと走り出し、一瞬大きく気を張り巡らせて米彦以外に自分を見る者、見える位置にいる者がいないことを感じ取ると、胸元から羽衣を取り出し、路面を蹴って空高く飛んで行った。
米彦は、既に胡麻粒ほどの小ささになった彼女を呼んだ。だがその声が届くはずもなく。
後には一人、見えなくなった彼女の影を目で追おうとする米彦が残された。彼はただの名もない少年に過ぎなかった。特別なことなど何もない、ただの中学生でしかない自分に虚しさを覚え、何だか無性に寂しくなった。紗仲は彼の身を案じていたのだとは言え、自分達の危機から彼を遠ざけた。それは一種の拒否であり、関係性の断絶だった。
米彦は、自分が紗仲や杉田、どちらの世界の人間でもないのだということを、ひしひしと感じた。超常的な世界でもなく、週刊誌の世界でもない、そのどちらにも属していない自分は、たとえ彼女らと言葉を交わしても、結局はこうして、ただ白日の下に取り残されるしかないのだ、と。
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