③ 苦界にたゆたう――1
朝の涼し気な陽光が窓から入り、窓際の列の机を輝かせていた。田舎の町の進学塾の一室。外には瑞々しい緑が見える。ガラス越しに蝉の声。それに負けず劣らず騒がしい中学生がそれぞれの席に着く講義室内は、クーラーがよく効いていた。
米彦は机の照り返しを眩しく思い、目を顰め、腕を伸ばして自分の席が影になる程度にカーテンを閉めた。あと十五分で一時間目の講義が始まる。
「おい、聞いたか」
米彦が熱くなった机に手を置いて、その熱が掌に伝わって来る具合を面白がっているところに、隣の席の和也が声を掛けて来た。
「今日さ、この近所の人が散歩していると犬の死体を見付けたんだってさ」
「ふうん」
「それが」と、身を乗り出して、「犬の死体は二つだったんだけど、両方とも首がなかったんだと」
「え」
「しかもだ、その内の一体は、真っ二つに斬られていて、それも、胴を横に、じゃないんだ。縦に、こう」と、揃えた指先を鼻先で上下させ、「そんなんだから、当然、辺りは一面血の海になっていて、近所の人とかは大騒ぎだよ」
と、そこへ、いつの間に近くに来ていたのか、
「えぇ、何それ、怖いね」
と、高緒が話に入って来た。和也は鼻をうごめかし、
「だろ? 明らかに事故なんかじゃない。誰かが、刃物でやったんだろうって」
「だけど」米彦は
「ここだけの話なんだが」と、和也は小鼻を動かして、「その犬っていうのが、怖いところに飼われていたんだってさ。だからそれが原因なんじゃないかと、警察も動いてる」
高緒は身を乗り出して、
「怖いところ?」
「そう。聞いたことあるか」と、和也は声を潜める。「指定暴力団、
「それってつまりヤクザの抗争!? 怖いね」
「きっとそうなんだろう。ただ」
「ただ?」
「その政之丞という人は、少し前に死んでるんだよ。不審な事故死で。それで組の実権は他の家に移っているから、今更その人の家が狙われるはずはないんだけど」
「それじゃ、組長に選ばれなかった人が恨んでやったんじゃない?」
「いやいや、隠居したんじゃなくて、突然に死んだんだから、今の組長を選んだのはその人じゃないんだ」
「そうなんだ」
「それに、継承はスムースに行ったらしいから……」
和也はこうした話を粛々と続け、高緒は真剣に聞いている。
米彦は飽きて、講義の準備を始めた。しかし意外だ。――と、高緒を見た。ちょっとふわふわした所のある女の子なのに、こういう裏社会的なゴシップが好きなのか。彼女の濡れたような黒髪が朝の日差を吸い込んでいる。夢中になっている話題とは裏腹に、清廉な印象を受ける横顔だった。
と、ふと講義室の出入口を見ると、そこには細身で小柄な女の子が自分達の方を見ていた。小学校の高学年か、今年中学に入ったばかりか。少しだけ前髪を垂らした以外は総ての髪を後ろに撫で付けた彼女は、目の大きく、鼻筋の通り、ふっくらした小さな唇が梅のように淡く染まった、可愛らしいお人形さんのような女の子だった。肉の薄いすらっとした手足が、涼し気な衣服から伸びていた。
彼女は片手を口元に当て、不安そうにおずおずと、三人の方へ歩いて来た。米彦は自分の方へ近付いて来る女の子を、見るともなしに眺めていたが、彼女が彼の視線を意識して、恥ずかしがって挙動がぎこちなくなったのを知ると、ちょっと目線を外してやり、それからまた、何だろう、と観察した。
彼女は年長の少年に見詰められて頬を桃色に染めていたが、彼らのすぐ近くまで来て、高緒の肩をトントンと叩いた。
「え、なに」高緒は振り返ったが、その少女を見ると舌打ちでもしそうな顔になり、「今、大事な話をしているんだけど?」
と、冷たく言い放った。米彦達が知っている限りではいつでも愛想が良くてニコニコしている高緒には似合わないことだ。しかし女の子はそんな口調に怯むこともなく、
「姉ちゃん」
と、彼女を呼んだ。
「英和辞典貸して」
高緒はそれを聞いて眉を顰めた。
「なに、あんた、忘れたの?」
少女は肩を竦めて、「重いから持って来なかった」
「忘れたんでしょう」
と、高緒はこれ見よがしに溜息を吐いたが、女の子は口を尖らせて、
「どっちでもいいでしょ、貸してよ」と。
「駄目」
「どうしてさ」
「忘れたんでしょう? だったらちゃんと、忘れたらどんな苦労をするかを経験して、それが嫌なら次からしっかりと忘れないようにしなさい。だから貸さない」
「ケチ」
「ケチじゃない。あんたのためを思って言ってやってんの」
「私に恥ずかしい思いをさせるのが私のためだって言うの」
「そう」
「そんなわけないでしょ。いいから貸してって。もうすぐ授業が始まっちゃう」
「駄目って言ったでしょ」
高緒と女の子は
米彦はそれを見かねて鞄を探り、
「どうぞ」
と女の子に英和辞典を差し出した。
彼女はきょとんとして、借りていいのかどうか迷っていたが、高緒が何か言い出しそうな気配を察すると、慌てて受け取り、
「ありがとうございます」
と軽く礼をし、ばたばたと逃げ出した。なお、講義室から出て行く際に、高緒に向かって、ベッと舌を出してから立ち去った。
高緒は困った顔をして、
「綾幡くん……」
「困ってるみたいだったし、今回は叱らないであげたら?」
「困ってるって言ったって、自業自得なんだから」
迷惑だとでも言いたげに顔を歪めていた。米彦達は彼女のこうした不快感を顕わにしたところを見たことがなく、また彼女がこんな表情をするなどとは想像したこともなかった。
「まあまあ、いいじゃない」と、藤岡が割って入った。「妹? いたんだね」
「まあねぇ、恥ずかしいところを見せちゃって」
「何て名前? 何年生?」
「
と、考え込む様子をした。するとその時、チャイムが鳴り、
「綾幡くん、次に来ることがあっても貸さないでね。あの子、すぐに甘えるから」
と、自分の席へ戻って行った。藤岡はその後姿を目で追って、声を低めて言うのだった。
「山口さん、すっかりお姉さんだったな」
何故だか嬉しそうな表情をしていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆
昼下がり、綱留駅の東屋では、昨日と同じ顔触れが暑い暑いと言っていた。何の我慢大会なのか、さっさと帰ればいいものを。しかし彼らにとって友人との集まりは何物にも代えがたいらしい。この日は前日よりも気温が高かった。朱莉でさえもへばっていた。朦朧として、
「あれ、高緒ちゃんがいない……?」
八重は火照った顔を扇ぎつつ、
「講義が終わってすぐに帰ったよ。家の用事だって」
「ふうん、ふう」
「朱莉ちゃん、溜息吐かないで、余計に暑くなる」
「ああ、昨日も家の用事だって帰っちゃったし、忙しいのね、高緒ちゃん、あいみすゆー」
朱莉は卓に突っ伏した。
と、和也が唐突に、
「あ、そうだ。今度の土曜日さあ、皆で山行かん? 山」
「山ぁ?」と、八重が如何にも怠そうに言う。「何しに行くの」
「ハイキング。山口さんが行こうってさ」
「またあんたが無理やり誘ったんでしょう」
「いや違うって、山口さんから誘ってきたんだよ。なあ、米彦」
卓に両肘を突き、両手の上に顎を乗せて目を瞑っていたのだが、片目を開けて、
「ああ」
と肯いた。そして暑さで眠くなっているのか、また目を閉じた。
「ほらな。どうする。俺と、米彦と、山口さんと、それから山口さんの妹も来るってさ」
「へえ、高緒ちゃんって妹いたんだ。知らなかった」
「俺らも今日初めて見たんだけどな。可愛い感じだったよな、米彦よ」
「ん」
「ふん。ま、いいけど。船寄山?」
「そう。一昨日行って、気に入ったんだって」
「ふうん。朱莉ちゃんと佐倉はどうする」
「「何もやることないし、行こうかな」」
偶然、同じタイミングで声が重なり、何となく気まずくなって俯いたのだが、その動作も同時だったので八重が爆笑した。こんなことで笑えるくらい暑さで思考がやられていた。
「あのう、そのハイキング、私もご一緒して宜し、……よ、……良いですか?」
ふいに
「ちょっと、声を掛けそびれてしまって」と、言い訳のように。
彼女を見付けた米彦は、先程までの眠そうな様子はどこへやら、すっかり目が覚めていた。昨夜別れる前に今日はここで待ち合わせをする約束をして、そわそわしながら待っていた。眠そうに見えていたのは心と体の震えを押さえる為に強いて落ち着こうとしていたのだ。
藤岡は彼女を見て、「あれ、いつの間に」と驚いた。彼は駅前広場を見渡せる位置に座っていた。その彼が全く気付かなかったのは不思議でもあったが、暑さで集中力も途切れていたのか。しかしそんなことを一々疑問に思う性格でもなかったので、
「別にいいよな、なあ」と、他の面々を見回した。
「うん、来なよ」と、八重は言う。「というか、是非、一緒に行こうよ。仲良くなりたいしね」
朱莉も頷く、
「そうそう、色々知りたいしね。ね、そんな所に立ってないで、ここに座ったら? あ、だけど、やっぱり綾幡くんの隣がいいかな?」と、二人の様子に興味津々で、「ねえねえ、どう? 綾幡くんの隣がいい?」
「ええ、そう、そうですね」
と、好奇心に溢れ返った彼女の雰囲気に引け腰になったが、米彦の方が気にも留めずに少し動いて、彼女の座る場所を作った。
友人達も一晩を経て初対面時の動揺が治まり、まあ、そういうものだと彼女を受け入れる気持になっていた。突然に米彦が恋人を作って、それが現れた上、随分な進展の速さだったので驚いただけで、別段彼女に悪い印象を持っていたのではない。新しい知人、それも友人と恋愛関係にある相手とあっては気持の上では仲間内も同然だった。
彼らは取り留めもない会話をした。改めて自己紹介をしたが、紗仲が言うには、彼女はこの辺りに住んでいて、この地区の公立中学に通っている、学年は三年とのことだったが、おそらくは嘘だろう。特筆すべきこともないどこにでもいる中学生だと装っていた。口調も初対面時とは打って変わって普通のものになっていたが、まさか八重でもその理由が昨日の米彦からの電話を盗み聞きされていたからだとは思いもすまい、何かを思ったとしても、せいぜい米彦からそれとなく指摘されて直したのだろう、とその程度。
今日は何をしていたのかと聞かれれば、少し恥ずかしそうにして、米彦をちらっと窺ってから、
「さっきまで寝ていました……。夜更かしをしてしまって」
昨夜は夜通し本を読んでいたとのこと。それから趣味の話に移ったが、彼女の好きなことは色々と。本も音楽も映画も既に一生かかっても見切れないだけ作られている、夜はどれだけ長くとも長すぎることはない。
朱莉は、「趣味人だね」と笑った。彼女もまた小説、漫画、映画、色々と見るので、気が合いそうだと感じていた。それで、最近読んだり観たりしたもので、何か面白いものはあったか聞こうとした瞬間、紗仲が急に立ち上がった。
「どうしたの」と、朱莉が聞く。
「いえ、あの、ちょっと」と、自分の動作に紗仲自身も驚いたように。口籠り、それから、「あの……、ごめんなさい、ちょっと、用事があったのを今、思い出しました」
申し訳なさそうにしながらも、落ち着かない様子は隠せない。そして慌てて別れを告げると、彼らの返事も待たずにバタバタと駅構内へ駈け込むのだった。
呆気に取られて見送った友人達は、
「凄く慌ててたね。何だったんだろう。綾幡くんは知ってる?」
「いや、……」
彼とても正確な理由は分からない。だが、それは彼女と自分の秘密であり、深い因縁を持つという例の韋編に関することではないかと直感していた。
そしてそれは当たっていたが、そうだと知る術を今の彼は持ち合わせていない。
◆◆◆◆◆◆◆◆
翌日、この日もこの日で彼らはまたこの駅前でのんべんだらりとしていたが、そうしている内に前日のように紗仲が現れ、一行に加わり一緒になってだらけ始めた。友人達にとっては真新しい関係ではあったが既に慣れ、すっかり馴染んで旧来からの付き合いのように、よれよれになって他人行儀な礼儀も見栄もなくなってしまった。
昨日はもちろん、一昨日も、その前からも、ずっと前からこんな日々を過ごしていた気がする。昼下がりの虚ろな時間を彼らは無碍に、贅沢に浪費していた。こうして悔いることもなく時間を無駄にすることほど幸福なことがあるだろうか。
紗仲もまた新しい友人達との自堕落な時間にうっそりとして身を浸した。白濁した平和な一時だった。こうしたものが続けばいい。彼女は米彦に感謝をしたい気分だった。仮に短い時間であっても、こうしたものを味わえるのだから。
だが、彼女にはやらなければならない事があった。この空間から離れるのは惜しい。良き人々と別れるのは本当に惜しかった。だが、
「ねえ、米彦さん」
と、そわそわとして訴えたげな視線を投げた。
「どうしたの」
「あの」と、少し言いにくそうに、「皆には悪いけど、これからどこか歩かない?」
「いいよ。やることもないしね。お前らはどうする」と、米彦は友人達に問い掛けるが、
「あ、出来れば、二人きりで……」
それを聞いて他の四人はにやにやした。米彦の頬が染まったのは、暑さのせいばかりではなかっただろう。
「妬けるね」
「熱いな」
気のいい彼らは散々からかい、冷やかし、皆々内心、羨ましがって二人をデートに送り出した。
米彦は笑い声を背に受けて恥ずかしさに身悶えして立ち去ったのだが、その実まんざらでもないのだった。横で静かに歩みを進める少女こそは、彼とても惚れ切っている、二世以上に渡る縁の、生を共にする女なのだから。
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