② 御手に塗れる――5

 十六の夜の朧月、住宅街は暗澹あんたんとして、昼こそ黄塵こうじん吹き上がれども深更しんこうにては鬼哭きこく啾啾しゅうしゅう、冥夜の濃霧は重畳ちょうじょうたる民家の屋根屋根をまで覆っていた。人の子一人、猫の子一匹ここには居ない、ただ街灯が霧に包まれぼんやりとなっているばかり。世にいう狐火とはこれのことではなかったか、そう思われる灯りだった。


 そうした無人のちまたではあるが、人が往来していたとしても、屋根から屋根へと飛び移る暗い影に気付く者が、果たして、いたか、どうか。


 夜に溶ける色の衣装に身を包み、同色の手甲てっこう脚絆きゃはんを手足に巻いて、御高祖おこそ頭巾をすっぽりと被った一つの影が音もなく民家の上を駈けて行った。その胸、腰付から察するに、それは女だった。


 懐をさすり、頭巾から覗く涼し気な眼元をうっとりとさせた。


――今宵の仕儀しぎは順調であった。ここまでは。


 偸盗ちゅうとうの帰りだった。懐にはこの夜の獲物である古書が一冊含まれていた。


 彼女にとっては、ただの民家に忍び入り、カメラの死角を突いて鍵を破り、家人を起こさず、拳銃で武装した警備を避け、警報装置を遮断して首尾を遂げることなど、何の造作もないことだった。この程度のことは、丼の中の賽子さいころを拾うに等しい容易たやすさであった。


 彼女は香具師やしにも似た身軽さで住宅街を走り抜けて行った。背後の気配に気を払いつつ。如何に鮮やかな手並ではあっても、それを見咎める目はあるものだ。怖い用心棒が追って来るかどうか、背に目を付けて注意していた。


 しかし、颯爽と逃げながらも彼女には、どこか全力を出していないような、追うものに襲い掛からせようとしているかのような、誘い込むような隙があった。


 と、一軒の上でピタリと止まった。


――来やった。案の定。


 彼女は古書を狙う者が自分以外にもいると感得しており、その相手を出し抜くためにも、やや早いかも知れないと思いながらも今夜決行したのだが、追って来るのは別のものであると予想していた。


 屋根から道路に飛び降りて、身をひるがえした。


 やはり古書、万巻韋編を狙う競合相手ではなかった。


 街灯に照らされた二匹の犬が、濡れた牙を剝き出しにして、怒りに燃える四つの眼で彼女を睨んでいた。引き攣った口からは、地の底から響くような唸り声が漏れている。


 通常の犬ではない。大型犬と呼ぶにしても一回りも二回りも大きかった。いや、それならばまだ普通だ。二匹の犬は各々の頭部に、耳元と目元と鼻先だけが開かれた、石の仮面を被っていた。まるで頭が石で出来ているようだった。


――噛み付かれずとも体当たりだけで大怪我だ。


 二匹の怪犬は身を低くして、いつ飛び掛かって来るかも知れぬ体勢となった。吹き出でる気迫から、それらがただの体当たりでなく、確実に噛み殺すことを狙っているのだと女には分かった。


 彼女は頭巾をするすると解き、布の一端を口にくわえて薄く笑った。


 そこに現れた冷艶れいえんな微笑は、紗仲であった。


 彼女もまた身を沈め、左腰に右手を当てた。じゃくとして動かない。


 びょうびょうと吹き荒れる殺気と剣気。琴線と銀線にも喩えようか。その細さ鋭さは音もなく絡み合い、もつれれ合い、織り合って、無明の網を周囲一帯に張り巡らせた。薮蚊の一匹ですら入り込むことは出来なかった。ピインと張り詰めた空間に、目に見えぬ火花が飛び交い、透明な閃光が発せられた。肉を裂き、骨を断つ。一息の後れが絶命に至る。


 その内で紗仲は目を細め、


「来や、畜生ども」


 弦を切ったように二匹の犬は地を蹴った。紗仲目掛けて真一文字に突き進む。だが、それは動物の速さではなかった。強弓から放たれた矢でもこれほど速くはないだろう。仮に横から見ている者がいたとしても、そこを疾駆しているものがあったと気付けただろうか。並の目には影も残さぬ速度だった。


 正面に対した紗仲は、一匹が飛び掛かって来るのが見えた。


 口が大きく裂き開かれ、鋭く光った牙の並び、濃紅の口腔、漆黒の喉が、将に今、迫り来んとするのを見た――


 刹那、紗仲の身が更に低まり、左腰から水の飛沫しぶきほとばしって、宙に弧が描かれた。


 バチリと鈍い音がして、水の飛沫は犬の首筋に触れると見るや、血の霧へと変化した。


 犬の石頭は打ち上げられた。


 紗仲の右手には、身も凍えるほどの白さをした刀身の、打刀が握られていた。


 断ち切られた犬の首根からもうとして上がる血煙の向うに、襲い来るもう一匹の影が見えた。


 紗仲は返す刀で向かい来る犬の肩口から胴を、前後にばっさりと斬り下ろした。勢い付いていた犬は二つに割れて、紗仲の左右を抜けて行った。斬った瞬間、紗仲は片足をやや後ろに回し、半身になってぶつかるのを避けた。裂かれた肉の塊が飛び去る間、彼女は両目を閉じて血霧を防いだ。目蓋には血糊でまだら模様が描かれた。


 後方で、ばさり、という音が二つ聞こえた。そして彼女は夜空を見上げた。頭巾を広げ、落ちてくる犬の頭部を布の中央で受け止めた。包みにして片手に持ち、どす黒い血の海の中にぼうとしてたたずむ。


 胴体を前後に裂かれた方の犬が、自らの血潮に浸り、内臓を溢れ出しながら首を巡らし、体を起こすのも座るのも出来ないというのに、口を広げて、なお彼女を睨んでいた。息も吐けないのに未だ息絶えない。腱さえ繋がっていれば今にも再び襲い掛かって来そうな迫力だった。


 それを見下ろす紗仲の手には、だらりと血刀が垂れている。細身の刀身は潤うばかりに美しく、――いや、それは事実、濡れ光っているのだ。刀身は自ずから水気を発していた。水気は結んで水となり、水は固まり雫となり、雫は集まり流れとなって、とうとうと血泥を洗っていた。先程までは犬の血漿けっしょうけがれていたのが、今や白く、街灯の明りに珠を散らすばかりであった。


 紗仲は潮の中に蓮歩れんぽを運び、怪犬の首筋に氷刃を当てると、すっと引き、切り離した。既に涸れていたのか、血はほとんど噴き出さなかった。犬の頭はびちゃりと落ちた。


 紗仲は刀を横に払って血振りをし、腰に巻いた黒革に納めた。


 それから首を拾い上げ、頭巾に入れた。ちょうど石の仮面同士がぶつかったのか、カコンと音がした。予想していたよりも大きかったために中身を押し込み、力ずくで何とか頭巾を包みにして結んだ。


 袖口で顔を拭い、ほっと息を吐いた。


 見上げると十六夜の月が綺麗だった。


 紗仲は胸元から細長く白く極めて薄い布を取り出した。その羽衣は首に掛けると風を孕んでふわりと膨らみ、彼女の足元では赤いさざなみが立った。そして、ふっと飛び上がると彼女の体は宙に浮いた。羽衣の両端と長い髪がはためいて、交差しながら、雲のない夜空を流れて行く。片手に包みを提げた彼女の顔には、月を後光に、凄絶な陰翳が刻まれていた。

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