② 御手に塗れる――4

 米彦は呆然としていた。未だに地に足が着いていない心地だ。


 先に公園で見せられた千里眼、順風耳じゅんぷうじの術など児戯に等しい、ちょっとしたどうでもいいお遊びだったのだ。紗仲は苦手だから疲れたと言っていたが、同時に初歩の初歩、韋編いへんを知っている者なら殆どが出来ることだとも言っていた。それは万巻まんがん韋編の価値を高く見せようとして誇張したのではなく、事実なのだと実感した。あの程度の小技など、誰にでも出来る。


 膝まで伸びた草原の中で棒立ちになり、驚くべき体験をさせてくれた紗仲を見た。


 彼女は殆どが地平線に沈み上部の弧が引っ繰り返った船底に見える夕日に向かい、きっとなって、


「ふん、八艘跳びが何するものか、私ならば一足跳び」


 と、両手を振り上げ、がおぉと吠えていた。


 公園で老女が去った後、紗仲は秘密基地を案内してあげる、と冗談めかして言った。秘密基地とは昨夜の山の草原だろう、そう予想はしたが、まさかこのように移動するとは想像だにしなかった。


 山の駅までは電車で来た。そして登山道に入り、暫くすると脇道にそれ、山林に踏み入った。それから少し歩くと、周囲は鬱蒼とした森、夕闇が樹間に満ちていた。彼女は少し照れたような様子を見せて、ワンピースの胸元に手を突っ込んだ。


 そしてそこから取り出したのは、白く細く長い布、彼女の身長よりもなお長い。さっとはためかせると、それは非常に薄く、背後までも透き通って見えるほどだった。見るからに触り心地が良さそうで、生地はしゃだろうか、もしくはシルクオーガンジーか。


 紗仲は真ん中に手を置いて二つに折るとその薄布をストールのように首に掛けた。彼女が体を動かすと、布はふわりと風をはらんで、首に掛けた中央部分が宙に浮き、脇に垂らした両端が後ろに流れて、夕暮時の森の樹木に囲まれた彼女の姿は、天の羽衣を身に纏った天女そのものだった。


「歩いて行ったら、疲れるでしょう?」


 彼女は米彦の背後に回り、彼の胴を抱き抱えた。そして彼女の地を蹴るような振動の後、二人の体は浮き上がった。


 彼らの体は何メートルという高さに達した。それから紗仲が体を前に傾けると音もなく前進し始めた。初めはそれほどという速度だったが、次第次第に速くなっていった。次々と後ろへ流れていく樹木の色が残像同士で混ざり合い、奇妙な色彩になった。紗仲は米彦を抱いたまま、樹間を縫って飛んでいく。


 それは不思議な感覚だった。頬を切る風があったような気もするし、無風の空間を移動していたような気もする。驚きに息は詰まったが、呼吸に苦しさはなかった。米彦が感覚していたのは、ただ、背中に触れる紗仲の体温だけだった。


 そして気が付くと昨夜の草原に立っていた。米彦は呆然とした。


「さ、それじゃあ案内するわね。・・・・・・あれ、どうしたの。まだ意識は森の中?」


 紗仲は米彦を覗き込み、心配そうな顔をした。


「どうしよう。やっぱり、急過ぎたかな。記憶が戻ってないのだもの・・・・・・。やっぱり、段階を踏むべきだった」


 米彦は我を取り戻し、


「ああ、いや、大丈夫」と、それだけ答えた。


 山に来る前に一度彼女の能力を見せられたのが良かったのだろう、動悸は未だに治まらないが、宙を飛んだという事実に関してはすんなりと受け入れられていた。


 そうだ、彼女が言うにはあらゆることが出来るようになる書物があるのだ、それならば、空を飛ぶことだって、不可能ではないはずだ。


 それに意識の上では覚えていなかったが、彼は既に知っていた、前世においてのみではなく、今生こんじょうにおいても聖人や英雄の幾例かを。すなわち、史書である『義経記』において、太公望はその徳により天にまで上れたということを、張良はその技により虚空を翔けたということを、それらが記されていることを知っていた。


 歴史上の人物が出来たことだ。それを彼女も出来たのだ。


 米彦と紗仲が立っているのは昨夜出会った場所よりも深い地点だった。変わらず草は茂っているが、奥の方に切り立った崖が見え、彼女は草を踏み分けながら其方そちらへと向かって行った。


 崖に突き当たると地面は草が刈り取られて半円形に土があらわになっており、その半円の中心である崖の斜面には洞窟が口を開けていた。


「ここよ。私達の秘密基地」


 そう言って彼女は入っていく。


 洞窟の中は闇で満たされていた。米彦が入り口近くの壁に手を突くと、冷やりとして湿っていた。紗仲は夜目が利くのか慣れているのか、奥へと進み、しゃがみ込むと、小さな火が灯った。彼女の手にはライターが握られていた。そのほの灯りに照らされて見る所によれば、床几しょうぎに乗っていたものを拾ったらしい。そして彼女は床几の上の蠟燭に火を灯し、それから立ち上がって壁に沿い、並べられた燭台に火を入れて行った。


 そうして洞窟内を一周すると、煌々と灯った燭台で、昼をあざむく、とまでは行かないが、苦もなく過ごすには充分な明るさになった。


 広さは三十六畳くらいだろうか。床には板が張られ、むしろが敷かれていた。正面奥には壁に向かって床几が設けられ、上には皿に立てられた蝋燭、円鏡、紙の束、すずり箱と透明な水の入った玻璃はりの小瓶が置かれていた。脇には短檠たんけいと、なめしたような表面の黒革が無造作に重ねられて山になっていた。


 紗仲はいそいそと、洞窟の中央あたりに放置されていた金床と鉄板、それから丸鋸や糸鋸、ラチェットレンチやシノ、ペンチや電動ヤスリ、それらに類した工具や工具箱を両腕いっぱいに抱えて隅の方へと片付けた。赤い発電機もある。


「本当は、今日は、招待するつもりじゃなかったから・・・・・・。あの、いつもはちゃんと片付いているのだけど・・・・・・。その、韋編を集めるのに使う道具は基本的に自作だから・・・・・・。法具って、特別なのもあるけれど・・・・・・」


 米彦は何も言っていないのに、紗仲は一人で喋り出し、恥ずかしがっていた。


「あ! でも、お淑やかに裁縫道具もあるのよ! 持って来るから待っていて!」


 慌てて発電機とは反対側の壁に向かおうとしたが、


「いや、別にいいよ」


 と、米彦に苦笑交じりに止められて、顔を赤くして俯いた。するとそこに金槌が転がっているのに気が付いて、踵で蹴って滑らせたが、彼にはすっかり見られていた。むさ苦しい工具を見られて恥ずかしがっている彼女をおもんばかった米彦は、


「へえ、ここが秘密基地かあ」


 と、声を上げたが、わざとらしさは拭えなかった。


「へぇ・・・・・・。広いね」


「うん・・・・・・」


 洞穴はそのまま一室として使われ、壁に燭台が並び、一隅に鉄資材や工具類、工具箱や似たような道具箱――彼女の言っていた裁縫箱だろう――、蓋をされた土甕と柄杓があり、見上げれば上方から何本かの鉄鎖が垂れ下がっていた。箪笥や行李こうりといった物を仕舞うものはなく、また他へ通じる扉はなかった。


「家具とかはないの」


 別に此処ここに住んでいるわけでもないだろうが、ちょっと思って聞いてみた。


 紗仲は彼の手を取って壁まで寄ると、鉄鎖の一本を引いた。彼女の手繰たぐる動きに合わせて、暗い上方から、するすると寝台が降りて来て、脚が床に着いた。


 仰ぎ見ても闇に隠れて天井は見えなかった。しかし、同じような鎖が何本もあることから考えるに、家財道具一式は上の方に吊られているのだろう。


 二人は寝台に腰を下ろした。それから紗仲は出会ってから初めて見せる緊張の解けた顔をして、米彦に日常的な、様々なことを聞き始めた。今はどんな生活をしているのか、運動は得意か、勉強はちゃんとやっているのか、食べ物に好き嫌いはないか、友達はちゃんと・・・・・・、友達はさっき会ったんだ、というように。


 米彦はまるで生き別れた母子の会話のようだと思い、可笑おかしかった。しかし、もしも記憶を取り戻したのが彼の方が早く、逆の立場であったなら、父子の再会のような場面になっただろうかとふと思った。そんなことは、想像も出来なかった。


「楽しく暮らしているみたいで良かったわ。安心した」


 紗仲は満足したように、とても優しい表情をした。


 米彦もまた紗仲に色々な質問をした。あの万巻韋編なる何でも願いが叶えられる書物はこの洞窟のどこに仕舞ってあるのか、これからの予定は決まっているのか。そして、自分も、物の役には立つまいが、出来るだけ手伝いたい、その為に簡単な技でも教えて欲しい、と。彼の質問は万巻韋編に関するものが中心だった。彼女がどこで生まれたのか、今はどこで寝起きしているのか、そうしたものは、何故かは知らないが、聞かない方がいい気がしていた。もしも聞いてしまえば、自分達の関係は壊れてしまう、そんな直感があった。


 紗仲は表情を引き締め、目線を下ろして少し考え、そして答えた。


「まず、仕舞ってある場所、予定だけど、それは言えないわ。出来るだけ、貴方に危険を及ばせたくないもの。知れば、きっと、貴方は私の力になろうとしてしまう」


「力になりたいんだよ」


「それを、して欲しくないの。そんなことをすれば、今の貴方では無事ではいられない。危険な目に会わせたくないのよ。出来るだけ、それは避けたいの。ね、分かるでしょう? 分かってね。私は、貴方に無事でいて欲しいのよ。だから、今は教えられない」


 紗仲が言っていた書物には超常的な力がある。だから米彦にも自分の身に想像も付かないようなことが起こるかも知れないというのは予想できる。彼女が言いたいことは分かる。それでもそれは寂しい事だった。


「それに、貴方は、今しか生きていない。だから、きっと、私達のことは理解出来ない。貴方とは違う価値観を、きっと、受け入れられない」


「そんなことは」反射的に言葉が出た。「俺は、紗仲を理解したい。・・・・・・」


 彼女の生活を聞くのは恐れているが、相手を知りたいという言葉もまた事実だった。両方の感情を抱きながらも、その片方が彼女自身から拒否されて、彼は少し傷付いた。紗仲は彼の手を撫で、


「ありがとう」と、頬を緩めた。それからまた眉を曇らせて、「だけど、ごめんなさい。でも、韋編の内容は、・・・・・・そうね、たとえ知っても、身に付けたとしても、記憶が戻るまでは使わないなら・・・・・・。それを教えるだけならば・・・・・・。ねえ、覚えたとしても、絶対に使わないと約束して頂ける?」


「約束するよ」


「それは、つまり、技術を会得したとしても、私の役に立とうとは思わないで、ってことだけど」


 米彦は息を飲み、「ああ、分かった」


「ごめんなさいね。私がお願いしてばっかりで、貴方の頼みを聞いてあげられないけど、どうか、それで、納得して欲しいの。私は、貴方が大事なの。私は、貴方が、どんな僅かな怪我を負うのにも耐えられない。だから、韋編を集めるということは忘れて。それは、暫くは私が一人でやるから。ただ、私と一緒にいるだけでいて欲しいの。それじゃ、駄目かな? どうか、それで、納得して・・・・・・」


「うん、分かった」


 紗仲は公園で、自分達は一緒に韋編を集めていたと言った。しかし、それは前世のことであり、記憶があってこそのことだ。何も知らない今では、それについては素人どころか門外漢でしかない。だから、これに関しては、彼女の言うとおりにするしかない。


「だけど、紗仲は危険じゃないの。何か、危ないことみたいに言っているから・・・・・・」


「私?」と、紗仲ははっとして、「私は大丈夫よ! あら、貴方は、私を心配してくださるの?」


「それは、心配だよ。俺だって、君に危ない目に会って欲しくないから」


 それを聞いた紗仲は見る見るうちに相好そうこうを崩し、


「ふふ。私は大丈夫よ」と、彼に抱き付き、「だって、私は貴方の妻だもの」


 紗仲は米彦の頭を撫で回し、


「私は貴方の持ち物よ。貴方の持ち物を傷付けられる者なんていやしない。貴方は私の持ち物よ、私の持ち物を傷付ける者がいれば、私は絶対に許さない」


 紗仲は見るからに上機嫌で、


「私が一人でやるけれど、その代わりに」と、明るく言った。「新しく手に入れたら、すぐに言うからね! 上手く出来たら、褒めて欲しいの!」


 米彦は頷いた。


 それから暫く取り留めもない話をしてから、


「そろそろ、遅い時間になって来たわね・・・・・・」


 と、紗仲は呟いた。米彦は翌日も塾がある。名残を惜しんだ後に彼女は彼を駅まで送り届けてこの日は別れた。


 紗仲は一人で洞窟の入り口にまで戻り、これからの事と彼の事を考え、心を浮き立たせた。彼は納得してくれた。だから、自分が頑張らなければ。記憶を取り戻したら、どんなに私が頑張ったか分かってくれるだろう。そして、取り戻す前の今でも、韋編を手に入れれば、二人のために一生懸命にやったことを必ず彼は理解してくれて、そして、たくさん褒めてくれるだろう。


 軽やかな歌声が夜の空気に染み入った。


 だが、しかし、伸びるに任せた草々を見回して、溜息を吐いた。

――いくら居ても立ってもいられず、いかに急なこととはいえ、こんな見苦しい景色を見せたのは何ともはや恥ずかしい。過去を覚えていたなら兎も角も。


 独り言ち、俯いてうなじに掌を押し付けた。その手を握り、頭上へ引き上げると、拳には棒が握られていた。棒は首に巻いた黒革の表面から伸びていた。腕を伸ばすと共に、すうっと伸びていくその棒は、次第に長い柄となり、そして柄の先、黒革の表面からは月光を返す巨大な鎌首が現れた。それは大振りの刃が付いた草刈り鎌、大鎌だった。


 紗仲は大鎌を両手で持ち、周囲の草を薙いでいった。大気に青い草いきれが満ちた。草露と汗とで肌に服の布地が張り付くと一息吐き、二回りほど大きくなった地面を眺めて満足した。今日の所はこのくらいでいいだろう。


 彼女は洞に入り、紙を水で湿らせて鎌の刃を拭った。そして振りかぶり、鎌の切っ先を自分のうなじに当てた。ぐっと力を入れ、切っ先を黒革に押し付けると、押し込まれた分だけ刃は沈み込んだ。刃が完全に沈み込んでも彼女は力を抜かなかった。そのまま黒革に柄を押し込み、そして柄もまた黒革に呑み込まれていった。最後に柄頭をとんと叩くと大鎌は全て彼女のうなじに巻かれた黒革の内に仕舞い込まれた。


 いや、仕舞い込まれたというのは正確ではない。それと言うのも――


 物を形作る要因は二つある。すなわち、形を表す形相けいそう、いわば設計図と、素材である質料、いわば材料である。鋳造ちゅうぞうたとえれば鋳型いがたが形相であり、その中へ流し込む鉄や銅が質料となる。彼女が首に巻いている黒革には形相が仕込まれており、取り出す際には周辺の量子を質料として大鎌が形成される。


 洞窟内の床几の脇に積まれていた黒革の束は未だ何の設計図も書かれていない白紙だが、彼女が鉄細工をして作ったもので型を取る。そうして作った鋳型を元にしたものが、今回であれば大鎌が、黒革の表面から取り出されたように見えるのだ。仕舞う際にはその逆となり、黒革の表面から大鎌が元の量子へと分解される。


 鎌を黒革に仕舞った――いや正確に言えば、分解した――、紗仲は、幸福感に包まれて寝台に座った。


 軽く目を閉じ、約百年振りの穏やかな気持が体の隅々にまで広がっているのを感じ、深く味わい、横になった。


 それから一瞬、気を研ぎ澄まして草原の周囲に張り巡らせた結界が無事に保たれているのを確認してから、蛇のとぐろを巻くように体を丸め、くうくうと寝息を立て始めた。

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