② 御手に塗れる――3
「ねえ! 電話、架けるよ」
「あ、ちょっと待ってって。あら、あらら、うふふ。ねえねえ、聞いた? もう一人の男の子の方が、私のことを、可愛いというより美人なタイプだって。いやあ、あ、でも、……うんうん、うふふ。悪い気はしないわね。あら、あ、うん……。そんなに褒めてもらっちゃって。……あ、でも。……参ったなあ。ふふふ。よく分かってるじゃない。いい人達ね、貴方のお友達。私も好きになったわ。あ、だけど女の子達が不機嫌になって……。どうしよう。私、あの子達に嫌われちゃったら。ね、貴方、私があの子達に嫌われて、いじめられたら、守ってくださる?」
「ああ……」
「本当! 嬉しいな。あら、あのきつい子がバッグを振り上げて、自転車の男の子の背中を凄い顔で睨んでいるわね。もう一人の女の子が慌てて止めようとしているけれど……。と、あら。きつい感じの子のバッグから音楽が鳴り出したわ。それで、下ろして、バッグを開けて、取り出して……」
『あれ、綾幡。どうしたの』
紗仲の薄気味悪さから逃れるように架電したスマホを耳に押し当てると、八重の声が聞こえて来た。
『ん、どうしたの。綾幡? もしもし?』
米彦は黙っていた。彼からの返事がなく不振の混じり始めた八重の呼び掛けをじっと聞いていた。が、紗仲の、
「あら、貴方、もう電話しちゃったの。あ、そっか。あの子の電話を鳴らして、殴るのを止めたのね。優しい」
との言葉で観念した。
「あ、ああ、ごめん」
紗仲はこちらに背中を向けたままで電話を架けたのが分かった。そして、その相手までも。リアルタイムで言い当てられたのなら、これは、本当に見えているのかも知れない。
『何、どうしたの急に。あの子はもう帰った?』
「いや、まだだけど、ちょっと席を外してる」
『ふうん。で、どうしたのさ』
「ああ、いや、大したことじゃないんだけど」
『うん』
「そうだな。……今、どこにいる?」
『え。竿置銀座だけど? それがどうしたの』
「いや、別に……。他の皆も一緒に?」
『そうだね。まだ一緒にぶらぶらしてるよ』
やはり、そうらしい。しかし、場所以外にも何か本当に確認出来るものはないかと考え、
「ああ、あのさ」
『うん』
「あの子、紗仲が被ってた帽子って、今そっちの誰かが持ってる?」
『あの帽子ね。佐倉が持ってるよ』
「そう。それなら良かった。いや、あの後ちょっと探して、見付からなかったから、どこかに飛ばされたのかと心配してて」
『ああ、それは悪かったな。藤岡があいつぼんやりしてるから拾ってそのまま持って来ちゃったんだ』
「あ、うん、あるならいいや。ありがとう。それでさ、あの帽子、気に入ってるらしいから、出来れば大事に扱ってね、汚れたりしてたらショックだろうから。ほら、白いし」
『ふふ、綾幡、あんた心配性だね。大丈夫だよ、……て、あ、そうでもないか……いやね、さっき、藤岡が鞄に入れようとしたんだよ、そのままじゃ入らないから折り曲げようとして。あ! もちろん止めさせたよ。それは安心して。それで心配して電話してきたんだ』
「まあね。……ちなみに、折り曲げようとしたのは何処で?」
『場所? 樺沢フルーツの前だけど、それがどうしたの』
「いや、どうってわけでもないんだけど」
『ふうん。あ、そうだ、そう言えばその時さあ、藤岡がぼさっとしてるから停めてある自転車にぶつかって倒してんのね、マジ笑えた』
「それでお前がからかったのか」
『そりゃ、からかうでしょ、普通。あれ、何で分かった?』
紗仲が言っていた通りだった。全てが当たっていた。恐怖が血液に乗って体を一巡したが、その後はすうっと消えて行った。彼女の言葉への納得、彼女を信じたいという気持がそれに勝った。彼女の言うことは信じるに値する。彼女を信じられるようになって嬉しくなった。
「何となく」心が浮き立ち、声音もどことなく弾んでいた。「そうそう、山吹さ、お前、これから紗仲とよく会うようになっても、絶対にいじめるなよ」
『ちょ、何それ。私いじめなんてしないよ』
「ごめんごめん、いや分かってるんだけど、ちょっと心配になって」
『綾幡ぁ、あんた、ほんと心配性だね、彼女が出来たらそんな過保護になるなんて想像もしなかったよ。大丈夫だよ。……あ、でも』と、クスクス笑い、『さっきみたいな大仰な言葉遣いをしてたら、からかっちゃうかも。ちょっと面白かった』
と、ふと米彦は面を上げた。紗仲の後ろ姿は硬くなっていた。
「いや、そんな、おかしくないでしょ」
『いやいや、面白かったよお。綾幡、注意してあげなよ、結構笑えた。わあ! 大時代的!』
八重の笑い声を聞きながら、そっと再び紗仲の背中を見た。彼女は髪を蛇のように逆立ててぷるぷる震え、聞かれているとも見られているとも思っていない八重はいいだろうが、米彦は怖くて仕方なかった。
「そうかなあ、そうかなあ! とても丁寧でいい子だと思ったよ!」
『綾幡ぁ、それは惚れた贔屓目だよ。傍から見れば滑稽だったから!』
「あ! ああ、あ! いや、そうだ! 話を変えよ、それでさ、和也はさ、紗仲のこと、何か言っていなかった?」
『ああ? 藤岡があの子のこと?』
と、笑い声がピタリと止まり、
『藤岡か。……へっ! あいつは馬鹿だからね!』
と、通話が切れた。
米彦はスマホを手にしたままで、恐る恐る彼女を見た。
「さ、紗仲……?」
彼女は背を向けたままで、
「貴方! 私、あの子嫌い! 滑稽だなんて、非道い、非道い! ほらほら、藤岡って男の子も馬鹿って言われて怒っているし! 非道い、非道いよ。何が非道いって私を可愛いと言ったから馬鹿だなんてさ。それじゃあつまり、まるで私が」
と、声を低めてごにょごにょ言い出した。
紗仲はぶつぶつ言っているが、何はともあれ、彼女が遠くにいる彼らの様子を見聞きしていたのは証明された。
頭の中で精一杯の地団太を踏んでいたために、紗仲は背後に彼が歩み寄って来ていたことに気が付かなかった。それで、
「紗仲」
と肩を叩かれると、
「うわっ」
と大声を出して引っ繰り返り、彼を見上げて激しくまばたきして、目の色を実際に白黒させた。米彦は彼女の手を取って立ち上がるのを助けると、
「どうやって見てたんだ。あいつらを」
「うん、だから、万巻韋編の」
と、そこまで言うと大粒の涙がぽろぽろと零れ始め、隠すように目をこすり、顔を覆って彼にしな垂れかかった。
「あー、眼が痛いよう。耳が痛い」と、彼の肩に耳を押し付け、「駄目、疲れちゃった。私、あんまり得意じゃないもの」
と、彼の胸元に息を吐いた。米彦は彼女をベンチに促し、そして落ち着かせていると、
「千里眼」
と、ぽつりと呟いた。
「千里眼という技術で見ていたの。それから順風耳で聞いていた」
「そういう技で、あんなに遠くのことを見聞き出来たのか……。凄いね」
「ううん、こんなのは全然。初歩の初歩よ。韋編のことを知っていて集めている人なら、殆どが出来ると思う。基本的なものだしね」
「じゃあ、俺も出来るようになるのかな」
紗仲はむっくりと頭を持ち上げ、霞んだ瞳で彼を見詰め、
「出来るどころじゃないわ……。貴方は、凄いもの。記憶を思い出したら、その瞬間に私なんかよりもずっと……。それにね、特に、二千年前の頃なんか、貴方のそれは、千里眼や順風耳の技の域を超えて、もはや神通力、天眼通や天耳通の域にまで達していたわ。……見通せないものはなく、聞こえないものはなく……」
思い出したら。彼女が何度となく繰り返してきた言葉だ。その思い出すとは、彼女のことは元より、こうした能力も含めてなのだろう。そして、いま彼女がさらりと言った二千年前、その頃のことも。二千年前。つまりは少なくとも二千年前から彼女らは生まれ変わって来ているということだった。しかし米彦にはそうした長い時間の重さに実感を持てなかった。
紗仲は彼に寄り添っている。彼女の髪は顔のすぐ近くに流れている。夏の夕暮れ、木立から吹く湿り気を帯びた風は暑気を飛ばし、白粉のような甘く粉っぽい匂いを彼の鼻先へ届けた。
少年は少女の髪に顔を埋めたくなる衝動を抑えきれなかった。
気怠く甘く、幸福とも呼べるこの瞬間の中に彼らは浸った。
それでも、米彦の心には何かが引っ掛かっていた。彼女の言った言葉だろうか、それとも見せられた非日常だろうか。その何かが彼を不安にし、疑念を抱かせた。何に対する疑念かは分からない。だが、それは重要なことにも思われて、放っては置けず、焦りを感じた。それでも、具体的に言葉にはならなかった。不安定な心境に揺り動かされて、
「ねえ、紗仲」
そう呼んで彼女の肩を揺すった。
「なに」
彼女の眼からは涙が引いていて、千里眼を使う前の、輝く瞳に戻っていた。
だが、その瞳を見ていると、漠然と感じていた不安などは何でもないことに思えて来て、
「何でもない」
と微笑んだ。
「変なの」
目元を緩めて彼女は、また身を
こうして米彦の不安が搔き消されたのも、どんな願いも叶えられるようになるという、そして彼女が既に一部を有している、強大な力の一端であったのかも知れない。
夕焼空の低い位置には茜色の落日が
愛しい女を胸に抱き、天地と昼夜の狭間に身を置いていた。そんな米彦の耳に、
「あ」
という紗仲の声が届くと、彼の体から彼女の体温が離れた。
「誰か来るわ」
彼女の目線を追っても彼には誰も見えない。
「足音と犬の息が」
紗仲は言うが、米彦には何も聞こえなかった。それでも暫くすると、彼女の見ている方角から、一人の老女が二匹の犬を連れてやって来た。米彦の目にもその様子がはっきりと見える距離まで来た。
すると紗仲は老女の方へと軽い足取りで駈けて行った。その後を米彦も追う。
老女は紗仲に気が付くと、二人は知り合いらしく、親し気に挨拶を交わした。
「お散歩ですか?」
「そうなの、今日はちょっと早いけど、この子達が急かすものだから。こんなに暑いのに、困ったものだわ」
そう言いながら老女は楽しそうに笑った。
二匹の犬は舌を出し、しゃがみ込んだ紗仲に遊び掛かろうとして、老女に窘められたが、犬の耳にはそんな言葉など馬耳東風で、紗仲もまた、
「でんすけ、らいた」
と二匹の名前を呼びながら、顎を撫で、手を
「あら、紗仲ちゃんのお友達? はじめまして。杉田と申します」
老女は米彦に挨拶をした。彼もまた挨拶を返して、紗仲と犬が遊ぶのを見ながら世間話をした。それから、
「ええと、すみません、今更なんですけど、紗仲とのご関係は。親戚の方でしょうか」
老女は笑い、
「いいえ、違いますよ。私には家族も親戚もいないもの」
はっとして謝った。
「いいえ、いいのよ。私には世話をしてくれる人達もいるし、それにね、主人が残してくれたこの子達がいるから。……あ、そうそう、失礼しました、私と紗仲ちゃんの関係でしたね。そうね、一ヶ月くらい前かしら、私がこの子達と散歩をしようと家を出るとね、ちょうど通り掛かったのね、紗仲ちゃんが、『こんにちは』と挨拶してくれて、『可愛い犬ですね、触ってもいいですか?』って、目をキラキラさせて言うものだから。この子達、初めは紗仲ちゃんを警戒してたみたいなんだけど、私が言うと、ちゃんと
一匹が紗仲の肩に前脚を掛け、顔を嘗めようとしていた。
「あ、やめ、田助!」
と、避けようとしながら嬉しそうにしていた。もう一匹は胴を彼女の体に擦り付けて、匂いを嗅いでいた。
「ご主人さんが残してくれた……」
「ええ、そうなの」と、老女はうっそりとして、「あの人、
彼女が本当にそう思っているのかどうかは分からない。だが、彼女がそう信じたいということ、夫が死んだ後にもまだ想いを残していることだけは米彦にも分かった。
「ほら、田助、雷太、そろそろ行くよ」
老女はリードを引き、紗仲に絡み付いている犬達を促した。
「紗仲ちゃん、いつも有り難うね。また遊んであげてね」
「いえ、こちらこそ有り難うございます。いつも遊ばせて貰って」
そして彼女は犬を連れて、しとしとと歩いて行った。二匹は既に紗仲と遊んでいたことも忘れたかのように、飼い主の歩調に合わせてゆっくりと従っていった。
紗仲はそれらの背に向かい、
「それじゃ、杉田さん、さようなら! 田助、雷太、またね!」
と手を振った。老女は紗仲を見て軽く会釈をし、去って行った。
老女がすっかり見えなくなると紗仲は手を下ろし、極めて小さな声で米彦に
「あの人の家にもあるわよ。万巻叢書の一冊が」
何故かは知らない、彼女の静かな横顔を見て、米彦は背筋に冷水が流れるのを感じた。
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