② 御手に塗れる――2
米彦は紗仲に手を
「ここならいいわね、誰もいない」
腰を下ろした紗仲は空を見上げて表情を険しくした。
「ね、昨日の今日だけど、思い出した?」
米彦は首を振った。
「やっぱり、そうよね。そんなに都合良く行くなら、何の苦労もない」と、瞳に薄く雲が掛かった。「本当は、自分で思い出してくれるまで何も言わずに待っていた方がいいとは分かっているんだけど。だけど、私はもう耐えられないの。もう、会ってしまったから。もう、貴方なしで暮らしていくなんて、とても出来ない。だから、お願い、言わせてね。私が守るから。貴方が危ない目に会ったとしても。出来るだけ、会わないようにはするけれど。だから、お願い、貴方を危険な目に合わせてしまうかも知れない、私の弱さを、どうか許して」
「許すも何も」
今は何も分からない。だから何とも答えようがない。しかし、他でもない夢の中の彼女が言うのだ、米彦はたとえどのようなものであろうと、彼女と関わりのあるものならば何であろうと、受け入れようと決意してしまった。
「だけど、どうやって言ったらいいんだろう」
紗仲は困った。こうして説明することなど初めてだった。本来であれば各々が自然と思い出し、それによって会い、自明のこととして始めるのだったから。知らない者への言葉など持っていなかった。また、記憶を取り戻してからであれば、彼女の言った彼の危険もなくなり、安心していられるのだったが。
「そうね」
それでも少しずつ、たどたどしくも説明しようとする。
「私達は絶対に叶えるべき願いがあって、それを成就させようと何度も生まれ変わっている。その為に私達は何度も死に、また生まれてきた。今回だってそうよ。私達が生まれたのは、願いを叶え、理想を実現させる為。その為に私は貴方のことを知っている。その為に、私は前世の記憶を持っている。貴方だって、その為に前世の記憶を受け継いで、私のことも覚えていると思ったんだけど。記憶は戻っていないのよね」
と、横目で見たが、彼はすっかり困っていた。前世、前世か。人には言えない記憶を持っている自分が言えた義理ではないが、すぐには信じかねる言葉だった。しかし昨夜のことを思えば、互いに一目惚れをし合ったというよりは信憑性がある気がする。ような気がする。それに、彼女が何度も口にしている「思い出す」という言葉、それから自分の記憶、前世で知り合っていたのなら、あの記憶を持っているのも理解が出来る。しかしそれでも、そのまま納得するのは難しかった。あの記憶を持っていること以外は他の人と変わらないのだ。
紗仲は彼の様子を見て溜息を吐き、そして続けた。
「
米彦は眉をしかめ、首を振った。
「そう、良かったわ。書物の名前よ。そんな一連の
例えば、そうね、
世界を壊して再生させるなんて序の口も序の口。と言っても、天を落として地を割るだなんて、小さな方法じゃない。宇宙の根源から創り直すことが出来る。反対に、この世界を永続させたり、永遠に凍結させたりもね。そして、新しい世界を生み出すことも」
青かった空は透き通り、その半ばまで朱色が差していた。樹木が長い影を引き、地には闇が這いつつあった。凍結とは反対の、燃えるような、と形容すべき時刻が迫っていた。
「どんなことでも出来るようになるのだから、まさに全知全能。韋編を総て揃えた暁には、神に、いいえ、それ以上の存在になっていることでしょうね。だから私達はそんな存在になる為に、何度も生まれ変わり死に変わり、幾世を経てもどんなことをしてでも集めてきた。そう、どんなことをしてでもね」
公園がやや暗くなってきたために彼女の相貌にまで影がおよび、すらりとした輪郭に死の面影が重なった。深淵へと足がつられて行くように、米彦の目もそれに吸い寄せられた。それに気が付き、紗仲はぱっと明るい表情を作って、
「私達が生まれ変わっているのも韋編の力の一部よ。万巻韋編は全巻揃って初めて真価を発揮するものだけど、それぞれ一巻ずつにも力がある。というよりも、普通の人が魔法だとか、超能力だとか、そんな風に呼ぶ力を会得して、自在に操る方法が記されている。
だから手に入れたら読んで学んで身に付けるのね。それを覚えなければ、宝の持ち腐れ。書かれた技能を習得しなければ、結局は何も出来ないの。何でも出来るようになるって言ったけど、全部自分でそれをやるのよ。内容を勉強して練習するの。不思議な本みたいに言ったけれども、分かりやすく言えば、そうね、忍術の秘伝書みたいなものかな? 分かりやすいかな……?」
米彦は無言だった。
「速読術や記憶術もあって受験には便利よ」
「なるほど」
「でしょお? 欲しくなったでしょ?」
少年は眉根を寄せ、星の瞬き始めた遥かな空を仰いだ。
「そういうことじゃなくて、ね」
彼の心根は澄み渡り、本来であれば、たとえ自分の想像の及ばないものでも在り得るかもしれない、と不可思議な現象に遭遇してもそれを在りのままに受け入れるだけの度量があり、同時に彼女の言うことなら荒唐無稽なものであろうと受け止める決意はあった。だが、理知は心情の邪魔をする。近代物質主義に教育された彼の頭脳は、既に、それを素直に聞き入れるには固くなり過ぎていた。
「何て言ったらいいのか。君が言うのなら、きっと、それは本当なんだろう。君の言う通り、俺も、君も、そうして生まれ変わっているんだろう。俺の持っていた記憶は前世のもので、現実で。実際に、こうして、俺達は出会ったわけだし。だけど、何て言ったらいいのか、今すぐには」
「信じられない?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど」
「いいのよ。別に。当たり前のことだもの。こんなこと、いくら貴方でも急に言われて信じられるわけないものね」
「そうじゃないよ」
「いいのよ、無理しなくても。駄目なものは駄目なんだから」
「違うって」
「駄目よ、嘘を吐いたり無理をしたりするのはね。こんなこと、いきなり聞かされて信じる方が無理があるもの」
信じるつもりは有るというのに。信じたくて堪らないのに。彼は心情の周辺に繁茂する常識という雑草が忌まわしかった。これがなければ、彼女の言葉はすっと心の奥底まで届いただろう。だが、それは叶わなかった。たとえどんなに信じたくとも、現代に生きる彼には非現実に身を委ねるということが難しかった。
紗仲は胸を反らして伸びをして、戻る反動で勢いよく立ち上がった。
「やっぱり、実際に見せないとね」
四方を見回し、その一方に視点を定めると、じっとして身動きしなくなった。
米彦には背中しか見えなかったが、もしも前に回って彼女を見たら、腰を抜かしていただろう。紗仲は両目を見開いていた。それはいいのだが、その瞳孔が拡大し、また縮小し、大きさが絶えず変わっていた。その上、虹彩を覆う水晶体が肉眼で分かるほどに膨らみ、また萎んでいた。おそらくは、外から見えない網膜のような部分でも、そうした奇怪な動きがあったのではないか。それに、目だけではなく耳朶もまた、前後に動き、上下に角度を変えていた。米彦の位置からでは、耳も長い髪に隠されて見えていなかったのだが。
「何をしているの」
「ううん、ちょっと待ってね。……あ! いたいた!」
はしゃぐような声を出し、
「さっき別れた貴方のお友達を見ているのよ。ええと、
米彦はぐっとした。彼らがあの後すぐに電車に乗ったのなら、確かに今頃は彼らの家がある竿置町に着いているはずだ。そして真っ直ぐに帰っていればもう家に着いている時間だが、寄り道しないでいるなんてことはないから、彼女が口にした場所をふらついているのは充分に考えられた。おそらくは彼らはその辺りにいるだろう。米彦はそう思い、
「そこにいるかも知れないけれど……。何で知ってるの。俺達がそこに住んでるって」
「いいえ、知らなかったわ、たった今まで。今、見たから知ったの」
「見たって」
「言葉の通り、今この目で見ているのよ。貴方のお友達を。それで、今あの人たちは果物屋の前を通り過ぎようとしているわ。皆でお喋りしながらね。あら、自転車が停めてあるんだけど……。ああ、やっぱり。さっき私に近付いて来た男の子が」和也のことだろう。「彼が自転車にぶつかって倒しちゃったわ。それで、私によく話し掛けていた女の子」八重だ。「彼女がからかっているわね。……と、あ」
そう言うと片手を頭に当て、
「帽子……、あの人が持っていたのね。そう言えば、拾ってもらって、返してもらっていなかった。それを彼女に指摘されたわ。何で持ってんのよ。返すの忘れてた。馬鹿じゃないの。口がきついわね、あの子。あの人にだけかも知れないけれど。ふふふ。それで、ああ! やめて! 無理無理! 入らないから! 大きさを考え、……折らないで! ちょっと待っ……。良かった……。あのね、今、あの人が私の帽子を折り曲げて鞄に入れようとしたのよ。寸前で女の子に止められたから良かったけれど。それで、もう一人の男の子に渡したわ。ふう、その方が安心ね。それで、自転車を起こして、果物屋の前を通り過ぎて……」
「ねえ、何を言ってるの。あいつらを見てるって」
「私はここから彼らの様子を見ているの」
「ここからじゃ」見えるわけがない。何せ彼らがいるであろう商店街は、この公園の最寄駅から六駅も離れている。
「でも、実際に見ているのよ。貴方が私を見ているのと同じように。それじゃあ、貴方も確認してみて」
米彦は苦笑した。
「俺は見えないよ」
確認のしようがない。米彦は彼女を、可愛い、と思った。彼女の言っていることが本当かどうか分からないのだから、そう言っているのであれば言葉をそのまま受け止めるしかない。確かめようがないと分かっていて、それで反論が出来ないのだから自分の言うことを聞き入れてくれと言っているのだ。そんな稚けない手法を取ろうとする彼女が愛らしかった。
そのように感じていたところへ、彼女は事もなげに、
「スマホ。持っているでしょ? さっき着信か何かで震えていたし」
ぞっとした。俺にも確認は出来るのだ。それを、当たり前のように。確認出来ると知っていて、確認しろと言ったのだ。つまり――。
米彦はポケットからスマホを取り出した。画面を見るとメッセージが来ていた。八重からだった。時間で言えばこの公園に向かっている途中だろうか。自分では気付いていなかった。
「それじゃあ、架けるよ」
「ええ、どうぞ」
すらりと答えたが、米彦が通話ボタンに指を触れさせようとした瞬間、
「あ、待って」と引き留めた。
米彦は、ほっと息を吐いた。やはり、嘘だったのだ。ハッタリだ。いくら彼女がよく分からない少女だからといって、本当にここから、あんな遠くを見通せるわけがない。自分を不思議な存在だと思わせようとしたのだ。彼女は俺の夢に出て来たのだから、不思議な人であるのは変わりはないが。それでも、遠視が出来るまでとは。――米彦は無意識の内に、そんな超常的なことまで出来るのであれば、恐ろしい、と感じていた。
彼女には不思議なところがあって、そして彼女のことは何であっても信じたい。それは本心だ。だが、それとは別に、彼女から本当に奇妙な能力を見せられるのは、それはそれで薄気味が悪かった。彼の生物としての本能が、居心地の悪さを感じさせた。
しかし彼女は米彦の心情など知りもせず、嬉しそうに頬を緩めて、
「ねえ、ねえ。あら、どうしよう、困ったな。あの自転車にぶつかった人が、私のことを、可愛い……だって」
愕然とした。
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