⑤ 伏せしまなこを――4
両者は目を見張る。
決まった……!
米彦はそう思った。この一撃は自分でも驚きだった。当然だ。これは彼の能力の限界を超えた所から出た一撃だった。普通ならば一生かかっても出すことの出来ない一撃だった。
どっと脱力する。燭台が手から抜け落ちる。気力尽き果てて彼はそこにへたり込んだ。
だがその一方で、倫子は顔面を
が、倒れない。それどころか彼女は笑い始めた。
「まさか貴方が、こんなものをね。見直したわ」
彼女の顔が
「すごいじゃない!」
声と共に拍手が背後から聞こえて来た。
米彦が振り向くと、そこには無傷の倫子が立っていた。
「まさか、さっそく役に立つとはね」
米彦は自分の正面に氷の欠片が散らばっているのを見た。彼が攻撃したのは氷で作った鏡であった。
「あれを受けたら、私だって無事じゃ済まなかったかも。きっと、避けられもしなかったわね。遊んでおいて良かったわ」
杵を持ち直しつつ、彼を讃えた。
「でも、ラッキーパンチを目の当たりにしたら、もう、ふざけてはいられないわね。少し真面目にやるわ」
あくまでも余裕の倫子を前に、米彦は自分の戦意が喪失していくのを感じた。
倫子の黒髪が
降魔杵が降り掛かる。米彦はよろけながら燭台で防いだ。体勢が崩れたことと燭台が適度に
米彦には「少し真面目」になった倫子に敵うすべはない。防戦一方、それどころか地下へ落ちる前の戦闘と変わりはなかった。
息も絶え絶え、動きが鈍い分だけ初戦よりも
反撃の機会の為に、まずは避ける。どうであっても、受けてはならない。受ければ潰されるだけだ。その為に、反撃の為に、逃げているとも言い難い姿を晒していた。
しかしその手も間もなく尽きる。疲労が人体の限界を超え、意志も遂には肉体の檻に捕らえられた。
洞窟の口まで追いやられていた。
夏風が頬を撫でる。どこか懐かしい漠然とした記憶が脳裏をよぎる。きっとこれが走馬燈というものだろう。
襲い来る打撃を辛うじて避けつつ、仰向き
「紗仲」
そう口にするのが、彼に出来る唯一の事だった。
彼は前世の記憶を持たない。自らの望みであったものも知らない。ならば何故こうしているのか、それは彼女との縁の為だった。前世では彼女と何をしたのだろうか、その前では彼女と何の話をしたのだろうか、更にその前では・・・・・・。今ではただの人に過ぎない彼には想像も及ばないものの為に、こうして死ぬ目に会っているのだ。
ただ紗仲の事を思う。出会ってまだ数日、喋った言葉も見た表情も数えるほどだ。それでも僅かなそれらの記憶が彼にとっては素晴らしい輝きを放っている。
そしてまた倫子が躍り掛かって来た、
その時、彼はある記憶に縋り付いた。それは最後の日の事だった。彼が彼女に喧嘩を吹っ掛け、別れる原因の一つにもなったものだった。
米彦は最後の力を振り絞り、地面の石を拾い上げ、倫子目掛けて投げ付けた。
「行け!
紗仲の言うにはそれは
これさえ動けば、体力の尽き果てた素人である米彦にも勝ち目はある。
しかし同時に思い出す、紙束の中の「さようなら」の一文。茫然とする。自分は、もはや彼女にとって何者でもないのだった。つまりは、それは、自分は石頭狗の主人ではないということ。石頭狗は自分の命令を聞きはしない、彼らが倫子に飛び掛かることはなく、彼女は何事もなく、降魔杵を振り下ろすのだ。
米彦は
風が吹く。
米彦は顔を上げた。繰り広げられる光景は。二匹の巨犬が一人の少女に襲い掛かっているではないか! 倫子は必死に石頭狗を振り払おうと、杵を縦横に振るっていた。犬は杵に追われても、さっとかわして次の一瞬に飛び掛かった。二匹いた。降魔杵が一匹を狙うその時には、もう一匹が彼女の首筋を狙っていた。
紗仲は米彦との関係を断ち切ってはいなかった。彼が別れたいと言うのなら別れも告げよう。それでも彼女は信じていた。いつか再びやり直せる日が来ることを。その日を信じて別離にも耐え、いつまでも待っているつもりでいた。その日の為に、彼女は彼を、二匹の主人のままにしていたのだ。米彦は彼女の想いに涙した。
襲われれば杵で防ぐ、腕を使い、脚を使い、矢継ぎ早に繰り出される二匹の爪牙を倫子は咄嗟に防いでいた。二匹と一人は輪を描きつつ
――相争う? いや明らかに少女が押されていた。来れば防ぐ、それだけだった。微かな隙を見出して打とうとしても決定打にはなり得ない。
頭部を狙う、それでは石の仮面に当たってコツンと鳴るだけ。仮面を割るほどの重さにしようとすれば、その隙を狙ってもう一匹が来るだろう。だから出来ない。それでは脇腹を狙うべきか。一直線に襲う犬らが脇を見せることはない。じりじりと焦りながら後退する。突き、打ち、喘ぎながらどうにか防ぐ。薄ら寒い洞窟で、倫子は汗をかいていた。
突き防ぎつつ、素早く
が、犬は杵を咬み、首を振るって倫子の手からもぎ取った。
蒼白になる間もあればこそ、他方が倫子の脾腹に体当たりして、彼女は呻き、仰向けに倒れた。
それからはただ、無残、の一言。
倫子は必死で顔と腹とを守りながら、脚をばたつかせ、腕を振り回した。しかし大型犬より尚大きい巨犬相手に十二歳の少女が如何にせん。牙が食い込み、爪が裂いた。叫び声が何度も途切れ、何度も響いた。抵抗らしい抵抗は、一度一匹が跳ねた事だけ。それもすぐに元の場所へと戻って行った。
闇にも分かる鉄錆臭さが米彦の鼻に伝わった。
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