⑤ 伏せしまなこを――3

 怪我はない。痛みもない。


 米彦が意識を取り戻し、状況を思い出すと同時に体に異変がないのに気が付いた。


 そして周囲を見渡せば、ここは暗所、所々に燭台が灯ってほんのりとなっている他は闇。壁もほとんど見えないが、薄明りに察せられるには上の部屋と同じくらいの広さだろうか。


 体を起こそうと手を突くと、どうやら下は石畳に、天井が崩れた際に一緒に落ちて来た、土、砂、埃が被さっていた。撫で、混ぜ返し、握って放す。


 そうだ、倫子は!


 彼がまだ生きているのに襲って来ないのを見るとどこかへ行ったか、それとも落下で意識不明か重体か。


 目をらして探った。だが彼女がどこにいるのかを知るには、そんなことをする必要はなかった。


「すごいわ」


 ひとちる声が聞こえる。


「こんなにあるなんて、大きなバッグを持って来れば良かった」


 倫子はこちらに背を向けて一隅に突っ立ち、感嘆を交えて呟いていた。


 米彦は燭台を支えに立ち上がった。


 灯の揺らめきで彼が意識を取り戻したと気付いたのだろう、背中越しに、


「ねえ、兄ちゃん、もったいないわね。せっかくこんなに集めたのに、私達よりも多いくらい。七十巻くらいあるんじゃないの」


 米彦の無言を気にも留めずに書棚から一冊を引き出し、捲り始める。


「これ、これなんか実用的ね」


 開いたままで地面に置き、五、六歩下がってしゃがみ込み、右手を床に突いた。そして力を込めて心持こころもち肩を引き上げると、手を突いた場所から半径一メートルほどの地面が凍った。


 これは地面から熱を瞬時に引き抜き、奪い取り、対象を凍結させるという術だった。奪った熱で右手は燃えるように熱かった。奪った熱は別のものに移す、もしくはその場で発火させることも出来る。


 倫子は鼻息荒く、その術を色々と試し、工夫をしていた。それだけ見れば子供が夢中になって一人遊びしているような、微笑ましい光景であったのだが――。


 くるりと振り向いて、暗闇の中でもはっきり分かる、にっと笑い、


「ありがと。待ってくれて。それじゃ続けるわよ」


 米彦は思わず逃げ出した。上階の床であったのだろう瓦礫がれきの傾斜を目指し、一目散に駈け出した。持っていた燭台を杖にして急な斜面を這い上る。脇の土がねた、頭上数センチの埃がぜた。彼には何故そんなことが起こったのかを確認する余裕はなかったが、そこには小さな氷片が埋まっていた。


「あら、面白いじゃない」


 倫子は土を拾い上げると氷結させて宙に放り、杵で打って米彦の周囲を狙っていた。身体には当たらないように、ナイフ投げの曲芸のように、彼女は見事な投擲師を演じた。


 頬をかすめ、腕に沿い、一打ごとに錬度は増していった。


 倫子はより難しいものを練習しようと、より小さく、動く的、燭台の頭を狙った。一打目、二打目は外したが、三打目には命中させた。その衝撃で米彦は腕を取られて大きくつんのめった。


 次に倫子は軽く埋まっては現れる、杖の足先を狙った。今度は一撃で当てた。倫子は楽しくて堪らなかった。それは雀をもてあそぶ猫に似ていた。


「うふふ、あははは」


 これは遊びの悦びからの笑いであったか、念願の韋編いへん易々やすやすと入手出来た悦びからのものであったか、両者が渾沌と混じり合い、いつとも尽きぬ哄笑を生ませた。


 米彦は燭台を突き、どうにか斜面を登り切った。



◆◆◆◆◆◆◆◆



 元の部屋は中央に穴が開いて下り坂となり、その奥が先の地下へ続くようになっていた。それよりも手前、洞窟の口に近い側は元通りの平らな床のままだった。


 米彦は足元が平らになっても燭台を杖とし、千鳥のような足取りで光に満ちた出口を目指した。背後からは未だに倫子の高笑いが響いて来ていた。彼は洞窟から逃げ出そうと必死であった。


 一歩、二歩と歩んで行く。あと十数歩でこの地獄から抜け出せる。洞窟の入り口は魅惑的に輝いていた。表は白く、真夏日の陽炎かげろうが、白幕のように揺れていた。


 振り返っても人影はなかった。未だに奈落は不吉な嗤いを吐き出してはいるものの、姿形を変えていない。


 追っては来ない。助かったのだ。


 倫子は目的を達し、彼を見逃した。


 米彦は出口を間近に見、心の底から安堵した。夏草しげる外の景色は何と平和なことだろう。


 この洞窟から出さえすれば、自分は助かる。命の危険のない現代の生活に戻れるのだ。そして再びこんな所へ来なければ、二度と安全な生活がおびやかされることはない。


 歩を進ませる。


 あと十歩。あと八歩。


 米彦は杖としていた燭台を捨てた。


 深く息を吸い込んだ。草いきれにせ、唇を噛んだ。


 残りは五歩。


 倫子の嘲笑は止んでいなかった。自分は命惜しさに背後のみちを捨てるのだ。


 情けない。


 唇が切れ、血潮が顎を伝わった。


 いや、それだけならば良いかも知れない。彼女らの言う理想と命では、彼女らにとっては前者の方が重いという、彼女らだけがそんな価値観を持っているという、それだけの話だ。


 もしも話がそれだけだったならば。あの韋編が、自分のものであったなら。


 しかし、あれらは紗仲のものでもあったのではないか。自分の為に、彼女の望みは失われる。


 いや、彼女の理想がくじかれるのは、何の力もない俺なんかを連れ合いにしたからだ! 相方の選び方が論外だったのだ! 彼女にだって、非はある!


 それに、ここには結界が張ってあると言っていたではないか。それが破られているではないか。つまりは、彼女の術が不完全だったのだ。倫子に侵入されて奪われるのは、彼女の力不足が原因ではないか!


 そうだ、この状況は、徹頭徹尾、彼女のせいだ。俺には何の関係もない。こうしてこのまま逃げればいい。平穏な人生に戻ろう。俺は友人達と楽しく生きていたい。そして、実際、俺は今、そうした選択肢を採れるのだ。ただ足を運んで、ここから逃げれば。


 青臭さが目に染みた。


 しかし、あれは自分と彼女の幾瀬にも渡る縁ではなかったのか。それをこうして自分から断ち切ろうとするのは。


 一体どれほど逃げたかった事だろう、青空は高く、蝉の声が耳に聞こえる。洞窟の外に見えている、緑にたける山の景色は以前と変わらず素晴らしかった。


 あと二回足を動かせば、平和な世界に戻れるのだ。


 脚が震えた。洞窟の口の端に、伸びた長草が覗いていた。


 覚えてはいない・・・・・・。


 彼の中で感情がせめぎ合っていた。「俺は紗仲や倫子とは違う!」彼女達とは違い、現在の人生しか送っていない。彼であれば当然のことだった。死にたくはない。そうだ、俺は生きていたい。


 それでも、あれは捨ててはいけない。


 紗仲は、「韋編を集めるためならどんな事でもする」と言った。それは彼女の願いを叶える為でもあり、自分達の為でもあった。紗仲は事実、自分の身を危険に晒して戦っていた。翼を生やした怪物のようなものと斬り合っているのもこの目で見た。


 彼女は自分で言っていたように、どんな事でもやる覚悟を持っていた。たとえ自分をけがしても、たとえ自分が死のうとも、たとえ自分の手を汚そうとも。


 米彦は自分の手を見た。その手は飽くまで綺麗だった。


 紗仲は二人の為に行動していた。それなのに彼女にだけ手を汚させて、自分ばかりは聖人のように清い振る舞いをしようとするのは、それは卑劣としか言えなかった。


 そして一度はこの人生でも恋人として付き合っていたのに、その彼女が自分の総てよりも大切にしているものを何もせずに奪わせるのは、紗仲に対する、自分に対する、決して許されない裏切りだった。自分可愛さにあらがいもせず、倫子の好きにさせてしまえば、名誉も、誇りも、自負も、何もなかった。自分という存在、そのものを否定するのと同じだった。


 ここで逃げ出すのは、命を拾い、魂を捨てる事だった。


 米彦は涙を浮かべながら振り返った。


 吠えるように彼は敵の名前を叫んだ。「倫子」の響きが闇の中へ吞み込まれて行く。


 彼は祈った。今の叫びが聞こえもせずに、延々と嗤い声が響き続けていたのなら。


 しかし嗤いはピタリと止んだ。代わりには、


「なあに。兄ちゃん」


 姿が見えず、闇の底から声だけ聞こえるのが、これほど恐ろしい事であったとは。


「こっちへ来い! それが欲しければ、俺を倒してからにしろ!」


 嘲笑が再び響くことを強く望んでいた。倫子が自分などを相手にはせず、今の宣言を一笑に付せば。そうすれば自分は諦めるしかなく、元の世界へ戻るしかないと思うことが出来た。やむを得ない、自分に選択肢はなかったのだ、どんなに勇ましい事を言おうとも現実的には不可能であった、どうしようもなかった、逃げ帰る以外の行動は取れなかったのだ。そういう事だ。だからここから立ち去る、それは仕方のない事だ。


 彼はそのように考え、祈った。自分がそうすると信じていた。だが、果たしてそれは本当であっただろうか。いや、仮令たとえそうなろうとも、彼は決して逃げなかったに違いない。


 そして運命はそうしなかった。


 米彦があれほど苦労して登った傾斜を、倫子は一跳びで跳び越えて、床穴の手前にその姿を現した。奈落を背後にニヤニヤと笑う。


「あなたが、私に敵うと思って?」


 降魔杵ごうましょを片手で構え、もう一方の手を軽く添えた。


 米彦は足元に捨てた燭台をもう一度拾い上げ、大上段に振りかぶった。


 今の彼に武術の心得などはない。ただやみくもに打ち掛かった。


 そんなものは倫子にとっては何でもない。軽々と避けた。


 米彦が二打目、三打目を繰り出そうとも、倫子はかわし、すかし、時折驚かすように杵を振り下ろす。米彦は必死で後退った。倫子はその度に吹き出していた。


 そんな事が何度続いたか、米彦の体力は尽きつつあった。温存や効率など知るべくもない、そもそもが常人の体力しかない。米彦の攻撃は僅かな体力をただ消耗するだけの無様な踊りでしかなかった。


 それでも彼は一心不乱だった。一方で倫子は戯れていた。


 満身の疲労と真剣さが、彼の動きから無駄をなくした。


 一閃。下段からの打ち上げが風を切った。偶然の体の動きが鋭い一撃となり、燭台の先端が倫子に襲い掛かった。


 倫子は虚を突かれた形となった。


 それは必殺の一撃だった。


 まさかこうしたものが来るとは思いだにしない倫子は体勢を正すことすら出来なかった。


 燭台の先端が倫子の額を割っていた。

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