⑤ 伏せしまなこを――5

「待て。晁田、晁雷」


 米彦が命じると二匹の動きはピタリと止まった。そして主人を振り返り、倫子などには目もくれず、のそりのそりと歩み寄った。彼は自分の命令に忠実に従った二匹の頭を悲しげに撫で、


「お座り」


 と、それらを元の塑像そぞうに戻した。


 取り残された倫子の体は四肢こそ繋がり、息こそあれども、半死半生の態だった。乱れた息に時折水音が混じっていた。全身の随所から滔々と流れる自らの血潮を止めようとする気配もない。放心し、苦しみの少ない眠りを待つ重症患者そのものだった。


「どうして止めた」


 襤褸らんるを縫い合わせたような声が響いた。倫子の口元が辛うじて動いていた。


「臆したか、小童」


 ごぼごぼと音が鳴った。おそらくは嘲笑を響かせようとしたのだろうが、聞こえたのは詰まった水の撥ねる音ばかり。


「倫子ちゃん」米彦は我知らず泣いた。「どうして、こんな、こんなになって。誰かを殺そうとすれば、自分だって反撃されるかも知れないだろ! 分かっていただろ! こんな風になるかも知れないって! なのに、何で・・・・・・」


 この狭い洞窟に、遠く唐風が吹き荒ぶ。風の源は彼女の喉か。


 聖君の治世を見たかった。


「なに」


 昏君を退け、世界に明君を戴きたかった。


 声なき想いは他者には届かず、米彦は倫子から漂う匂いを嗅いで、


「倫子ちゃん、俺・・・・・・」


 その一言に、彼女は相手が何を言わんとしているのかを察した。


「言っておくが、謝るなよ。正しいものの為に死ぬなら、納得も行く。が、謝られるようなものの為に死ぬのは、我慢がならない」


「だけど、自分が死んだら何にもならないじゃないか。そうだろう」


 鼻で笑うつもりだったのだろうが、聞こえて来るのは虎落笛もがりぶえの音ばかり。


「命が惜しいか。命が、何より大切か。命を賭ける程のものは、この世に無いと言うつもりか。命に値するものがない世界なら、そんなものは無価値だ。そんな世界ならば、生きるに値しない。俺の知っている世界とは、数多の神仙、賢人、偉人が、魂魄こんぱくを捧げるに値するものだった。世界は、生きる甲斐のあるものであった。そうあって欲しいものだ」


「だけど、死ぬのは自分じゃないか。死んだら、その世界では生きられない」


「お前らのような商売根性の染み付いた奴らなら、損得が合わないなどと言うのだろうな。だがな、そもそも我らは河底に落ちた天下の財貨の五文を掬うためならば、自らの懐中から十両出そうと惜しくはないのだ。足し引きなどではない。さもしい連中と一緒にするな」


「それで、こうして」死ぬ目に会って、「倫子ちゃんはこれでもいいの」


 理想の為ならたとえ死のうと。


「良くはないな。望みを叶えられずに死ぬのは悔しい。・・・・・・しかし、死んでいくのも戦の倣いだ。死ぬなら死のう。だが、商売人などには殺されない。私を殺すことが出来るのは、天下に数えられる武人だけだ」


 その声音は壮厳にして、決して首筋に死の吐息を吹き掛けられた者のものではなかった。


 米彦は少年らしい涙をぬぐった。そして決意した。それはどのような感情に由来するものだったか。死に行く者への憐憫か、もしくはこのような姿にした責任か、それとも、彼女への敬意か。


「それじゃあ、まだ、韋編を諦めていないんだな」


「ああ」


「こんな死ぬ目に会ったとしても」


「そうだ」


「その為には、何をしてでも、紗仲の願いを妨げたって、どんな事をしてでも、叶えるつもりか」


「言っているだろう」


「それならば」


 息を呑み込み、腹を据え、


「まだ立ち上がって、俺を倒せば、手に入れられるだろう」


「ほう、殺される決心が付いたか」


「いいや、俺は殺されない。俺が倫子ちゃんを殺す」


 快活な笑い声がよく響いた。嘲笑ばかりしていた彼女からは、決して聞いたことのない笑いだった。


「おう、兄ちゃん、言うようになったな。いいだろう。望み通り殺してやる」


 寝返りを打ち、腕を伸ばして四つん這いになり、それから座る。


 米彦は介助しようと歩み寄った。が、


「寄るな! しょうの武人として生まれ、しゅうの為に働いた私が、東夷の手など借りるものか」


 それから彼女はすっくと立ち上がると、全身から血を迸らせながら、背筋を伸ばし、愛用の宝貝、降魔杵の元へと行き、拾い上げた。


「得物を取れ。持てる力の全てをもって、名誉の戦死をくれてやる」


 米彦は両端が砕かれて、槍のようになった燭台を拾った。その時、棒に付いていた砂が幾つかぽろぽろと落ちて行くのが、倫子には見えた。


「お前も、あの犬どもをけしかけるがいい」


「いいや」米彦は言った。「俺は、倫子ちゃんを殺すのならば、俺は、自分の手を汚す」


 そして槍を中腰に構えた。


「よかろう!」


 獣のような咆哮が響いた。彼女もまた降魔杵を突き出し、構えた。


 米彦には自分から仕掛ける体力は残っていなかった。ただ構え、彼女が接近した一瞬に、槍の間合に入った瞬間に、ただ突く。それだけしかなかった。


 しかしそれで良かったのか。達人が達人たる所以は筋力ではない。効率的で効果的な体の動かし方を身に付けているからだ。昔取った杵柄と言おうか、果てしない修練と実践により身体が無意識の内にその操作法を覚えている。卑近な例で言えば、人が一度自転車に乗れるようになれば、いつまで経ってもそのコツを忘れないでいるのと同じだ。


 見るがいい、なるほど倫子の体はぼろぼろで、五体満足とは言えないが、骨はあり、筋は辛うじて繋がっている。何千年と鍛錬と実戦を積み重ねて来た彼女であれば、たとえこうした状態であっても、素人をほふることなど造作もない。


 その上彼のやる気を見、闘志までも燃え上がっているではないか。ある意味では、この日の内で、この時こそが、彼女を最も危険な存在にさせていた。


 しかし米彦にはこうしたものも感じられない。意識さえも朦朧とし始めていた。


 倫子は片手で手鼻をかみ、血の塊を吹き出して、鼻腔の通りを良くした。そして地から爪先を離さずに摺り寄って来る。決して手は抜かない。宣言した通りに全力で、全能力を惜しみなく使い、相手を確実に殺戮せしめる心でいた。


 米彦は掠れつつある意識の中で、全神経を集中させて、相手が何をするのか、どう動くのか、僅かたりとも見逃さないつもりでいた。一心に相手を見詰めていた。


 つつと距離を詰める倫子の顔が、淡い光で煙った。米彦ははっきりと見ていた、彼女の鼻腔から、黄色い光が放射された。


 倫子は顔をやや仰向かせ、勢いよく鼻息を出した。鼻の穴から光がほとばしり、眩いばかりの黄色い光線が一筋、暗い空間を貫いた。


 光が米彦の顔を撃った。彼はそれを浴びると同時に目も耳も意識も全て失った。


 これこそが倫子の持つ最後の秘奥義、吸魂光きゅうこんこうだった。この光に触れた人間は意識を失う。たとえどのような達人であろうが、どのような武者であろうが、どれほどの超常的な能力を有していようが関係はない。光に触れた人間は、仙人だろうと神人だろうと、必ず意識を消滅させられる。


 米彦は意識を失った。感覚は滅却した。思考は停止した。立ちながらにして昏睡状態に陥った。


 表層意識は身体から弾き飛ばされ、記憶までも散逸した。心神を喪失させられた彼には、もはや今も過去もなく、息があるだけの死人も同然だった。この時、彼は自我は元より人生までも失った。


 彼が植物状態になった瞬間にはもう倫子は跳ねていた。


 彼女から滴る血潮が、宙に放物状の軌線を描いた。それは米彦へと向かっていた。降魔杵は振り上げられている。米彦の頭上、後は振り下ろされるのみだった。


 杵が槍と打ち合わされることもない。肉の打たれる音、骨の砕ける音だけが響いた。


 米彦の立っていた場所に、二人の人間が組み合っているシルエットが残った。


 倫子は目を見開いていた。視線は米彦の顔に続いていた。


 そして痙攣する手で自分の首筋に触れた。そこには槍が刺さっていた。


 倫子は思った。こやつは意識を、失ったのではなかったか。いや仮に失っていなくとも、素人との戦いで負けるわけがない。いやそれはいい、確かに彼は吸魂光を浴びていたのだ。なのに何故。


 倫子が混乱しながら息絶えて行く様子を彼は見た。彼の両眼ははっきりと開いていた。


 静かに槍が下ろされた。その動きに従って、倫子の首から槍が抜けた。彼女の死体は倒れ込む。


 槍を握ったままの彼は、もう一方の手で倫子の鼻と口を覆った。息はなかった。首筋を指で押さえた。脈はなかった。目蓋を上げた。瞳孔は散大していた。


 彼女が死んでいるのを確認すると、抱きかかえて洞窟の外に出、草原に遺体を横たえた。


 腕を組み、彼女を見下ろし、じっと何かを考えている。


 夏草が風にそよいだ。噎せるような鉄錆の匂いが吹き流される。どこからともなく散った梅の花弁がひらひらと、彼女の眼球に落ち付いて、目蓋となって目を閉じさせた。


「ふむ」


 と一言発すると周囲を見渡した。見慣れた風景だった。


「あいつは、またこんな景色を作ったのか」


 苦笑する。


「相変わらず、好きだな」


 紗仲の趣味がいつまで経っても変わらないのを知り、微笑ましく思った。


 彼は記憶を取り戻していた。吸魂光によって米彦の意識や自我、生まれてからの全てを失い、精神の表層が取り払われると同意に、心の奥底に眠っていた、その魂の核とでも言うべきものが剥き出しになり、前世までの、幾つもの人生を経た人格が現れていた。紗仲が何度も繰り返していた「記憶」を取り戻していた。


 彼は唇を撫で、なおも考えた。薫風に乱れ、日光を反射する髪はシルバーブロンドに輝いている。


 そして、「うむ」と一言。


 彼は足を上げるや倫子の喉を踏み砕き、頭を鷲掴みにして首をねじ切った。


 倫子の長い黒髪を手に巻き付かせて首級を脇に抱えた。平然と草原を歩き出し、山林に踏み入った。


 それからしばらく森の中を進んで行くと、背後で結界の閉じる気配を感じた。彼は振り返り、自分が現在見ている景色が、たった今まで歩いて来た風景と異なっているのを知った。認識を狂わせる紗仲の術だ。


 結界が復活したのを知って、


「なんと過保護な」


 と、再び苦笑した。過保護なのは韋編に対してではない。


 そもそもこの結界は紗仲や仕組みを知っている者でなければ開けない。それにも関わらず、どうして今日、米彦がこの中へ入れたのか。それは紗仲が、いつかはまた、彼が来てくれるかも知れん、そう期待して彼が近付くと扉が開くようにしていたのだ。


 記憶を取り戻していない米彦はそんな事を知らない。ただ歩いて、あの洞窟まで辿り着けた。そして結界に関して何の知識もなかったが為に、中に入っている間、その扉を開けたままにしてしまっていた。それで倫子が侵入出来たのだった。


 そして今、彼が結界の外に出たために、それは閉じられた。


「しかし、よくぞ一人で頑張っている」


 韋編を狙っている者に、どんな実力者がいるかは分からない。これはルールの決められた試合ではなく、真剣の奪い合いだからだ。ほとんど手にしていない常人に毛が生えた程度の者もいるだろうが、千冊や二千冊を有している者もいるだろう。そんな相手では、どんな能力を持っているのか想像も付かない。結界など何の意味もない敵だっているかも知れない。そうした中で、彼女は一人で。


 彼は倫子の首を目の前まで持ち上げ、


「貴公も手練てだれであったのだろうな」


 つくづくと眺めた。


 と、彼はその首級に些かの違和感を覚えた。


 この首は、確かに死んでいる。しかしまだ何かがある。


 鼻腔が微かに光っていた。顔を近付けた。光の粒子が少しずつ外に漏れていた。


――何がある。


 観察しようと覗き込む。彼は自分でも気付かない内に光の粒子を吸い込んでいた。


 たとえどのような人間でも意識を喪失せしめる吸魂光だ。彼は気を失った。深い山の緑の中、倒木の横に崩れ落ちた。



◆◆◆◆◆◆◆◆



 数分後、横たわる彼の体を少女の影が覆った。


 口元の草が揺れていたから死んでいるとは思わなかったが、何故、どうしてこんな事になっているのか分からなかった。


 近くには倫子の首が転がっていた。辺りを見回しても、彼女の胴体は見当たらなかった。彼がこの子の生首を持って森の中を歩き回っていた? 彼が、この子を殺した? 不可解な状況をいぶかしみ、決断の速い彼女には珍しく何分も迷って、それから彼を抱き起した。


 そして彼女、山口高緒は米彦を自分の住処すみかへ連れ去った。

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