⑥ 流れつる紅の――1
彼女は迷っていた。所詮、この世に永遠のものなどない。いずれはこうなっていたのだ。だがそれは今ではないと思っていた。根拠もなしに。結局のところは自分にとって都合のいい想像をしていただけだ。まだまだ長らく、二人で一緒に過ごせるものと思っていた。いずれ来る別離が、余りにも早く来てしまった。
それならそれで涙を呑もう。それでも、最後に、挨拶だけでも、きっちりと。それが筋だ。筋はちゃんと通さなければいけない。その為にこうしてやって来たのだ。彼女はそう考えていた。
薄々とは、いやはっきりと、自分が愛執の念に囚われているのだとは分かっていた。妄執は断ち切らねばならない。たとえ身の引き裂かれる思いはしても。情に溺れていてはならない! 紗仲は自分に言い聞かせながら、米彦の生活圏までやって来ていた。
「あの! こんにちは……」
朱莉は彼女を見て驚きつつ、
「あ、紗仲ちゃん! 久し振り。どうしたの」
「ううん、どうしたって事でもないんだけど……」二人をつくづく眺めてから、「米彦さんは?」
「え。あいつは紗仲さんに会いに行くって早退したけど、会ってないの?」
「え」
「そう。紗仲さんと喧嘩して、謝るんだか謝らないんだか、ぐだぐだ言ってよく分からんけど、とにかくもう一度会いたいからって」
ニュアンスは違えど嘘は言っていない。
「それは、本当?」
「ああ、本当だよ」
紗仲は深く息を吸い、目を閉じて、
「ごめんなさい、よく聞こえなかったから、もう一度言ってくださらない」
「あいつは紗仲さんに会いに行くってさ」
「ごめんなさい、もう一度」
和也は彼女の意図を吞み込んで、
「米彦は、紗仲さんにどうしても会いたいから、まだ講義があるっていうのに、教室を飛び出して行ったんだよ。自分でも紗仲さんに会わずにいるのには耐えられないってさ!」
彼女の顔は花開き、辺りの景色を煙らせるほどに輝いた。
「本当に! 藤岡さん、ありがとう。ありがとう!」
和也は綺麗な女の子をこれほど喜ばせることが出来た自分の事を、まんざらでもない、と思った。しかし和也の自己陶酔を横にして朱莉が言うには、
「だけど、すれ違いになっちゃったんだ。残念だね」
「ううん、いいの。あの人が私に会いに来てくれるって分かったから。あの人が私に会いに来てくれるなら、私は必ずあの人に会えるわ」
甘露を含んだようにうっとりとして、
「それじゃあ、私、帰った方がいいのかしら。彼は私の家に来ているのね。すぐに戻らなくちゃ。ああ、だけど部屋を片付けていなかった! もう着いているのかしら。それなら汚いところを見られちゃったの? 恥ずかしくって、会わせる顔がないから帰れないわ。どうしましょう」
おろおろとして、
「いいえ、いずれは会わずにはいられないのだもの、恥ずかしい思いをするのは後でも先でも同じことね。急がなくっちゃ」
と、慌てふためき
それでもどうにか気を落ち着けて、目の前に現れた人物に言った。
「こんにちは。お久し振りね。あれ以来どう」
紗仲の行く手を遮るように、そこにはベレー帽を深くかぶった高緒がいた。彼女は長く垂らしたベロに片手を添えて、髪の隠れ具合を気にしていた。帽子の奥の暗い眼が光る。
「ご存じの通り、最悪よ」
「そう、それは残念ね」
抑えようとも抑えきれない緊張感が二人の間に流れた。ここが街中でも昼間でもなければ今にも弦音が鳴っただろう。両者共にゆっくりと息を整えつつ、
高緒は紗仲の後ろで不安そうにしている友人達に向かい、
「心配を掛けて、ごめんね。それから安心して」と、紗仲に向かい、「今日は、喧嘩をしに来たわけじゃないから」
どんな用事、と紗仲に凄んだ目付きで問われても、高緒は無視し、朱莉達に、
「ちょっと、手紙を預かって貰おうと思って来たんだけど、本人が来たから直接渡すわ」
と、鞄から可愛らしい色合の封筒を取り出して渡した。紗仲は強いて穏やかに受け取った。
本来であれば横長の封筒だったのを縦長にして、宛名は色鮮やかな封筒によく調和した赤いインクで縦に書かれていた。紗仲はそれとなく表裏を反す。
高緒は相手が確認したのを見、立ち去ろうとした。
が、朱莉は駈け寄り、袖を掴んで何かを言おうとした。それを高緒は優しく振り
「ごめんね。それから、本当にありがとう、私と友達になってくれて。本当に、楽しかったわ」
「どういう事? それに、楽しかったって」
「もしかしたら、もう会えないかも知れないから」
「どうして? また、家の用事?」
「そう。だから、どうしようもないの」
「ねえ、聞いちゃダメ? 用事って何なの」
「ごめんね」だが、高緒はニッと笑い、「だけど、それは、もしかしたら、だから。多分大丈夫よ、また会えるわ。絶対に、明日もまた会おうね。そうしたら、明日からは、毎日、一緒に遊べるから。用事は、ひとまず、今夜で終わるはずだから。……そうでしょう? 紗仲さん」
「私は知らないわよ」
朱莉にキッと睨まれて、
「だって分からないじゃない! だって、私には何のことだか……」
高緒は朱莉の頭を優しく撫でて、
「いいの。今のはちょっと紗仲さんに意地悪をしただけだから」
それからゆっくりと押し離し、
「それじゃあ、今日のところは」と、再び帽子に手をやって、「また、会いましょうね」
と、立ち去った。
和也は紗仲に何かを知っているのか聞いたが、もぐもぐとしてはっきり言わず、仕方がないからその話はそれとして、これから米彦に会うのだとしても、近くまでは一緒に行こうと誘ったのだが、それもやんわりと断られて、結局そこで友人達と紗仲は別れた。
一人になると紗仲は俯き、
――くだらない。
と呟いた。
何が、友達になってくれてありがとう、だ。何が、もう会えないかも知れない、だ。彼女は決してそんな事は思ってはいない。必ず再会できると、必ず勝つと、私を殺すと、信じている。にも拘らずあんな事を言ったのは、愁嘆場を見せ付けて、精神的な圧力でも加えようとする魂胆か。そんなプレッシャーになど押されはしない。この程度。
面を上げて、東方を睨み、高緒の手紙を握り潰した。
受けようじゃないか、余裕ぶって、こんなものまで寄越して来て、
紗仲はまだ手紙の中身を読んでいなかった。しかし封筒を確認した時からその内容は分かっていた。宛名は赤字で書かれており、封は左から閉じられていた。赤文字の宛名、左封じは果たし状の意味である。
◆◆◆◆◆◆◆◆
米彦が意識を取り戻した時、自分はまだ洞窟の中にいるのかと思った。しかしあの洞窟にしては乾燥していて埃っぽく、出口から入り込む風がない。そしてここが洞窟ではないと分かったのと同時に、倫子との戦いを思い出した。
そうだ、彼女は?
彼の覚えている最後の光景は、倫子が目前に歩み寄りつつ、その顔が黄色い光に包まれたところだ。その光が自分を覆うと、その瞬間に意識を失ってしまった。
彼女はどこだ。そしてここは。
辺りを見回そうとして体を動かすと、手首に激痛が走った。見下ろすと、両手首には黒く細い紐で縛られていた。切られるような痛みは鋭さを増していく。
「気が付いた?」
闇の中、背後から覚えのある声が聞こえて来た。この声は、
「山口……、高緒か」
足音が近付き、
「あんまり動いちゃダメよ。動くと糸が締まって痛くなるからね」
既に関節に食い込んで血が
「ここはどこだ」
「それは私の髪を
米彦の問いには答えず高緒は続けた。
「鋼よりも頑丈で、刀でも斬れないわ。切れ味だって、
「もしかして、あの時、紗仲と戦っていたのはお前なのか。どうして、お前は」
「だから、ね。普通の人でしかない貴方の手首なんて、
そんな事を言われても、痛みに呻き、身は
「ねえ、何となくは分かって来たけど、まだ分からない事があるの。貴方はあの子と手を組んでいるのに、どうして何も知ってはいないの? 確かに倫子は死んでいたけど、どうやって貴方が倒せたの?」
「倫子は死んだのか。俺が、殺したのか」
高緒は怪訝な面持になり、
「違うの? そうでしょう? 他には誰もいなかったし、倒したのがあの女なら、貴方を放置するわけがないし。貴方しか考えられないわ。それとも、貴方は倫子の死体をどこかで見付けて、その首だけを持ち歩いていたとでも言うの?」
「いや」
確かに彼は洞窟で倫子と戦っていた。そして気を失った。彼女の性質、そして言動からして、失神した彼を見逃すはずはないだろう。そしてその彼女は死んでいる。戦いの末、俺が彼女を殺したのだろう。しかしどうやって。あの倫子が、気絶しているだけの相手を叩き潰さないわけがない……。
そして思い当たるのだった。俺は、もしかしたら、紗仲が何度も言っていた記憶を取り戻していたのではないか。倫子の光を浴びて気を失うことによって。彼女の発した光だ、あの光は、ただの光ではなかった。気を失わせ、そして前世の記憶を蘇らせたのではないか……! そう考えるしかなかった。
そうだ、その前世を俺が持っていたなら、やはり俺は紗仲の連れ合いで間違いはなかった!
しかし、それで、俺は倫子を。
「高緒、……俺は倫子を、……お前の妹を」
「そのようね」
「だが」彼は倫子の言葉を思い出していた。謝られるようなものの為に殺されるのは我慢がならない。「悪いとは思わない」
「ええ、まあ、そうでしょうね」
高緒の素っ気ない反応に、彼は違和感を覚えざるを得なかった。倫子自身が死を覚悟していたとは言え、高緒は彼女の姉ではないか。身内が殺されたにしては冷淡すぎるのではないか。
「……それだけか。妹が殺されたっていうのに。その
「仕方がないわ。それが戦いというものだもの」それでも少しだけ遠い目になったのは気のせいだったか。「それにね、貴方のすぐ後ろには、目的のものを探す為には、友達だって崖から落とす人がいるのよ」
不意の言葉に米彦ははっとなる。
「それは」
「覚えていないの? 八重ちゃんが落ちたじゃない。あれは私が落としたの」
一挙に糸が引き締まり、意識が一瞬、
「だから、ダメだって。両手首が切断されたら、貴方は死んでしまうでしょう?」
「どうして、お前はそんな事を」
「だって、見付けたかったんだもの。私と倫子で毎日探し回っても見付からなかった。それなら逆に、素人に歩き回らせれば何かが発見出来るかなって思ったんだもの。そう、そんなに、あの人達まで巻き込むくらいまで頑張って探して考えても見付けられなかったのに、そんな完璧な結界だったのに、どうして倫子は破れたの」
そんな理由は知らなかった。むしろ、自分が自由に行き来している事からして、結界のことなど忘れていた。
「以前の夜、天体観測に行った夜、あの山に万巻韋編が隠されていると分かったわ。結界が一瞬だけ開いてまた閉じて、それからまた一瞬だけ開いてまた閉じた。山の気配が、そんな風に動いた。貴方かあの子が出入りしたのね。あんな時間、あんなタイミングだもの、何かの連絡をしたのでしょう。貴方は何を教えたの。何を教えられたの」
一体彼が何を教え、何を教えられたというのだろう。ただ言葉を交わし、名前を教え合っただけだった。
「どうしても言わないつもり? それとも痛くて声も出ない? どんなに痛くても死ぬよりは良いでしょう」
苦悶に呻く米彦の首元に、冷たく硬いものが触れた。
「自慢の剣の輝くさまを見せられないのは残念だけど、言わないのなら、これで喉笛を掻き切るわ」
高緒は剣の
◆◆◆◆◆◆◆◆
米彦は誰かに優しく頬を叩かれた。
「起きて。もう夜よ」
手首の拘束は緩まって、まだずきずきと痛むものの、傷はだいぶ癒えていた。先程は横たわっていたのだが、今では座る姿勢になっていた。違いはそれだけではなかった。気絶する前はどこかの不潔な密室らしかったが、ここでは湿り気を帯びた涼しい風が、草木の匂いを運んで来ている。夜気が心地良い。上空には満天の星空が広がっていた。
「ここは」
「ここは、山頂」
答えたのは高緒だった。彼女は彼が気を失っている間に、自分の隠れ家から船寄山の山頂にある草原にまで彼を運んでいた。
「動いても締まらないように糸は縛り直したわ。だけど、変な気は起こさないでね。起こしたところで、木に
そっと高緒はしゃがみ込み、
「何があっても目は閉じないで」
彼の耳に吐息が掛かるほどに口を寄せ、
「ね、本当に見ていてね。絶対よ」
嫌悪感を
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