⑥ 流れつる紅の――2
山頂の草原は月光を浴びて青白い。それを取り囲む森は漆黒の闇だった。樹々は光を求めるように月へ向かって梢を伸ばしていた。山気は静まり、生命の気配は感じ取れなかった。空間は水晶に封印されているようだった。その中には永遠が凍結されていた。
水晶の割れる音がした。その音が反響して、草原に時間が流れ出した。森の中に白い影が現れた。その影は草原に踏み入った。紗仲だった。彼女の顔は月光を浴びて青白い。
「丁度、ぴったりじゃない」
紗仲が現れたのと逆側の森から声が聞こえた。
そちら側の樹の枝に、高緒が脚を組んで座っていた。
「彼はどこだ」
紗仲の声が、高緒に鋭く問い詰める。
「うふふ、綾幡くんなら足元で私の汗を
「ふざけた事を。……生きているんでしょうね」
「当り前じゃない。死んだ餌で貴女を釣り上げられるとは思っていないわ」
そう言って座っている樹の幹を足裏で蹴った。樹は鳴動し、木の葉が散ると同時に、縛り付けられている米彦が呻いた。
紗仲は彼の名を叫んだ。その面持は悲痛であった。記憶を取り戻していない、今では普通の人間でしかない彼がどうして、こんな目に合っているというのだろうか。
高緒の
そもそもこうなってしまったのは、無力な彼を
だがそうはしなかったが為に、敵は彼に危害を加えた。
キッとなり、高緒を睨み付け、
「許さないわ、絶対に」
紗仲は両手を組み合わせ、それから指を手の甲に滑らせるようにして引き離した。両手に巻いた黒い手甲からは、長く鋭い、銀色に光る鉤爪が伸びた。
鉤爪の先でスカートを撫でるようにして両手を下げると、その表面に薄い線が走った。彼女がばっと両脚を広げると、スカートには
「彼をこんな目に合わせて……。一分で片を付けてやる」
高緒は薄笑いして目を細め、
「
「黙れ、禿」
思わず帽子に手をやった高緒は歯噛み、唇を噛み切って、顎は鮮血にしとどに濡れて、物凄い
紗仲は斧を投げ付ける。が、高緒は左右に回転してかわし、一直線に迫り来る。
二人が衝突すると共に土埃が舞い、煙が上がる。煙が晴れるとそこには双翼を背負い、古剣を携えた影しかなかった。
紗仲は後ろ跳びに避けていた。腿から再度投斧を引き出し、構えて言うには、
「その姿を見るのは二度目だけれど、相変わらず強そうね」
「ありがとう」
「醜いって意味よ」
言葉に応じて砂塵が巻き上がった。高緒の突進は転瞬の間に紗仲に達した。彼女の剣は深々と、紗仲の腹を貫いていた。
が、それは氷鏡。倫子がやったのと同じものだ。その鏡像が崩れるとも見えぬ間に、上空から、大振りに振り被った片手斧の一撃が高緒の頭部に振り下ろされる。それを剣でがっしと受けて、
「折れると思ったか!」
大喝と共に紗仲の脇腹へ蹴りを放つ。
紗仲は片手の斧で高緒の剣を封じたままで、もう一方の手の斧を、迫る高緒の向う脛、その軌道線上へ打ち下ろす。
紗仲にさえも、敵の脛が割れたと見えた。
が、高緒は膝を曲げてかわしていた。そしてそれによって蹴りの威力に膝の屈伸をも付け加えた。軌道の変わった彼女の脚は、紗仲の額を蹴り上げた。
しかしそれは咄嗟の変更であったがために直撃には至らず、表皮を
そこへ火焔が襲い来る。
左手で逆手に、腰の黒革から水の滴る刀を引き抜き、防ぎつつ、以前にも見せた足
その斧を投げ付け、相手が弾き飛ばしたと見るや右手の鉤爪を横薙ぎに払った。高緒の剣は弾いた姿勢のままに頭上の位置に留まっている。顔に隙が出来ていた。
高緒は肘を落とし、顔面に向かい来る鉤爪を前腕で受けた。肉が裂けた。が、骨で止まった。血潮が三条、つつつと流れた。
紗仲が爪を引き、相手の腕を切り落とそうとした間際、銀色の爪は煙を上げて黒ずみ、液体となって流れ落ちた。目的は果たせなかったが、引こうとしたのは正解だった。幸いにも高緒の操る熱で溶けた鉄を、拳に浴びずに済んだのだから。
そうした事も意識する前、鉤爪の溶ける寸前、引き手と同時に紗仲は逆手に持った刀を薙いで再度顔を狙っていた。
しかし敵もさる者、体を落とし、瞬閃を避けた。
紗仲は避けられた事を知って尚その勢いを止めなかった。止められなかったのではない、刹那、斬撃の狙う目標を顔ではなく、その先、未だに古剣を握っている拳に変えたのだ。これと爪が溶けるのとが同時である。この一連の流れによって、紗仲の動きは鉤爪の右フックから刀の左フックに移行して腰を
如何に高緒であってもこの連撃に対応することは叶わずに、黄金の剣は夜空に爛と打ち上げられた。
カッとして双翼を
結果、高緒は自分の得物が地に落ち、敵に踏み付けられるのを傍観せざるを得なかった。
紗仲は刀を順手に持ち直し、切っ先を相手に突き立てて問う。
「どう? 降参する? そうしたら殺さないでいてあげる。もっとも、貴女がまた狙って来ないという保証はないから、自刃してもらう事になるけれど」
「するわけがないだろう!」
高緒は指笛を高く吹き、
「
夜空の闇が一層濃くなったかと思われた。漆黒の闇、押し潰されそうな闇、迫り来る、心理を圧迫するような闇、蠢く闇、滑らかに光る闇、高緒の髪のような闇、それは幾千とも知れぬ鴉の群だった。
「いまさら眷属など!」
群は一羽一羽が確認出来るほどに近くなる。
紗仲は二の腕に口を付け、自ら皮膚を嚙み切った。そして溢れる血潮を口に含み、一念をもって地面に吹き付け、虎を描いた。描画の技神技に至ったその虎は、絵という平面から浮かび上がり、一頭の実体となって唸り声を発した。
空中から鴉の群の一番槍とも言うべき二羽が接近した。距離を詰める二羽を見ながら紗仲は左手首の黒革に右手を沿わせて、さっと拳を滑らせれば、革から三本の
紗仲がじっとすがんで見ると、その二羽の脚は糸で繋がれていた。鴉を標的の左右に飛ばせ、その糸で相手を捕縛せんとの兵法だったか。
画虎は地上に落ちた一羽を踏み付けて、宙の一羽を殴り付け、両方共に食らい込む。
紗仲は跳び、飛び、鴉の群へと斬り込んで行った。
天では紗仲が刀で雨を降らせつつ、迫る一組の片方だけを斬り落とし、地では画虎が墜落したもの、地上付近に迷ったものを爪で裂き、尾で打ち、牙で食らっていく。夜の暗さは烏羽と血潮で濡れ濡れて、冥府魔道の
高緒は鴉に紗仲の相手をさせている間に自分の剣を拾い上げ、戦闘に加わることはせず、その動静を見守った。
紗仲はばさばさと斬り捨てて行った。見える数こそ多くはあるが、所詮それは二羽一組だ。千に見えれば五百羽しかいず、八百に見えれば四百羽しかいないのと同じだった。紗仲はそれらの片方のみを斬っていく。斬られた鴉は、あるいは
続けば続くほど鋭さを増す紗仲の太刀筋に高緒は舌打ちしたくなっていた。
羽搏く音、液体の叩き付けられる音、地に落ちる音、肉が千切れ、裂ける音、鴉も虎も鳴くことはなかったが、永続的な音の波はその場の誰をも包んでいた。騒がしく、静寂を聞く間もないこの場所で、一体誰が寝ていられるだろうか。米彦ははっきり覚醒していた。
「高緒」
呼ばれた彼女は振り向いた。その顔は空から降り注ぐ鴉の血で染まっていた。
今更それに
「やめないか、戦いなど」
鼻で笑ったのみだった。
「そうか」
彼は押し黙った。それで納得するしかなかった。
変わらず空からは音と、血と、死んだ鳥と生きた鳥が落ちて来ていた。
「ねえ、綾幡くん」ふいに高緒は口を開いた。「やめて欲しいのはどうして。あの子が心配だから?」
彼は答えなかった。
「そっか」
それで納得せざるを得なかった。彼女の声ははっきりしていた。
「私ね、倫子と話した事があるのよ。何度も生き返り死に返りしている私達なら短いと言っていい時間しか一緒に過ごしていないけど。だけど、何て言うのかな、悪友? みたいな」
米彦は黙って聞いていた。
「ある時ね、貴方と出会ってから、あの空で刀を振り回している女が現れるまでの間なんだけど、もしも貴方に彼女がいたらどうするのって、倫子が聞くのよ。私は答えたわ、そんなものなど問題ではない、力尽くでも奪ってやろうと、どんな敵でも倒してやろうと。……ね、こんな事を言っちゃっているけど、綾幡くんは強い子は嫌い?」
米彦は空を見上げていた。延々と続く運動に、時折白い閃きが見えた。夜空は修羅に染まっていた。その残骸が地上に落ちる。
「どっちでもいいのかしらね。そうしたら、倫子が言うのよ、『トロフィーじゃねえんだ。姉ちゃん、力じゃ男は落とせないぜ』って。笑っちゃうわよね」
空を飛ぶ鴉は既に数えられるほどになっていた。
「くだらない、何でもない日々だったけど、あの子と過ごすのは楽しかったわよ」
それは米彦に向けた言葉ではない。彼女の視線は米彦の隣に向けられていた。そこには倫子の生首が静かに置かれていた。両目は伏せられ、口も閉じられ、血痕も残っていなかった。穏やかな寝顔そのものだった。
それから高緒は米彦に向かい、
「この子は女に生まれて来たことも結構あるみたいだけど、私は、その、女に生まれるのは、これが初めてだったものだから。稚児を愛でた事くらいはあるけど、女として男に惚れたのはこれが初めてだったから。……だけど、それももうお終い、今からはまた、女ではなく、男でもなく、万巻韋編を集め切るまで、修羅道に堕ちるわ」
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