⑥ 流れつる紅の――3

 地には死骸と足掻あがく鳥、それらをむさぼる虎がいた。高緒は火印を結び、全てを燃やした。火葬の音を聞きもせず、彼女は飛び立つ。


「高緒か!」


 紗仲は背後に迫った気配を感じ取って言った。


「一所懸命調教したのかも知れないけれど、御苦労様ね、相手が悪かったわ」


 最後の二羽を斬り落とし、刀を振るって血泥をはらい、相対した。そして相手の目を睨んだままで、自らの右手の甲に手刀を放ち、溶けた鉤爪の残りを打ち砕くと、そこへ左の掌底を当てて、すっと滑らせ、新しい鉤爪を銀色に伸ばした。


 立ち昇る黒煙と肉を焼く匂い。爪の銀片を追って紗仲は地上を見下ろした。紅蓮の炎。彼女は米彦の周辺が無事であるのを知るのと同時に、その彼がこちらを見上げているのに気が付いた。


 沈思し、それが高緒の目を見据え、


「一応、聞いてあげる。あなた、万巻韋編を集めてどうするつもり。何をしたいの」


 きょとんとし、呆れたように、


「貴女、そんな事を聞いてどうするの。いつもそんな事を聞いているの?」


「いいから答えなさい」


 高緒は相手の思惑を判じかねた。たとえ相手も世界の改善を望んでいるのだとしても、人の理想とする世界など百人いれば百通りあるものだ。全く同じ景色を望んでいる者などいないだろう。だからこうして自分達は殺し合いに発展するほどの戦いを繰り広げているのだ。それを今更、聞いてどうする。何になると言うのだろうか。


「まあ、いいわ。この世界は悩みや苦しみが多すぎる。人間じんかんには疫病があり、社会には不正がある。持てる者は持てる力を行使して弱い者から不当に搾取する。


 そして思考力を有した人という動物に悩みの種は数多あり、根強く、尽きることはない。煩悩は多く、誘惑は激しい。どれほど善良な人物でも、何事もない平穏で幸福な生涯を送ることは叶わない。己の精神に打ち勝ったとしても、今度は社会の悪意に晒されて、他者の食い物にもされる。


 この世界は、濁っていて、汚い。清浄な世界がいい。私はこの世を悩みや苦しみといったもののない、一片の穢れも濁りもない、浄瑠璃のように清らかな世界にしたい。・・・・・・ありきたりかしら?」


「そんな事はないわ。人が欲や邪心に惑わされずに、迷いもなく苦しみもない世界で生きられたなら、それは必ず素敵なこと。あなたの志は、とても、尊い。だけれども、私の理想としている世界とはまた違う。だから韋編は渡せない。あなたのものを渡してもらう」


「何を今更。知れた事を。その前提で我々は戦っているのではないか」


「そうね」


 呟いて紗仲は、清水の滴る刃を突き付け、


「その志、無駄にはしまい、私が必ず草木国土悉皆しっかい成仏させてやる、だから貴様は安心して死ね!」


 濡れた切っ先つるりと下げて、紗仲の体は夜空を滑る。剣尖からは飽くまで白い冷水が、彼女の軌跡に線を引く。


「大言壮語を。貴様の底は見切ったわ! これで決着を付けてやる」


 迎え撃つ高緒は八双に、相手の武器ごと打ち砕き、頭頂から真っ二つに唐竹割にする構え。


 両者の距離は詰められて行く。


 間合――


 紗仲は逆袈裟に斬り上げた。


 高緒は敵を真向から、紗仲の正中線へと真っ直ぐに斬り下げる。


 武器の相性からして、まとも打ち合って紗仲に勝てる道理はない。


 紗仲は相手の剣先が髪一筋まで来たと知る。


 高緒は刹那の後の飛び散る脳漿まで見えた。


 その時、まさにその瞬間である。


 時は不断に移り変わり、決して止まる事はない。瞬間の前後、刹那の前後は時間的連続はあっても全く別の時点である。時間というのはその瞬間、その刹那であっても絶えず動き、流れ、カメラのような特殊な機械でもなければ誰もが流転する「今」を捉える事は出来ない。それでも正にこのタイミングで、誰かがシャッターを下ろしたならば、彼女ら二人の動きが全くの同時、同じ「今」の中で起こった事だと分かるだろう。


 紗仲はその時点でをした。刹那の前に正中線があった場所には、前へと流れた後ろ髪の先しかない。同時に、先日昼間に高緒へ斬り掛かった時と同じ要領で刀身を反し、軌道を変えつつ切り抜ける!


 これで、擦れ違った瞬間には高緒の胴体が剥き出しの内臓ごと真っ二つに斬られている筈だった。筈だったのだ――


 紗仲は自分が相手と擦れ違っていない、まだ高緒の斜め前の位置にいる事を知る。自分の位置は、進んでいない、前には行っていない、入り身をした「今」の時点から動いてはいなかった。


「な・・・・・・」


 渾身の一撃を止められた事で絶句せざるを得なかった。どうして自分の体が動いていないのか、何故、「今」の位置から変わっていないのか・・・・・・。


 その理由は明白だった。紗仲は肩を押さえ付けられていた。


「なぜ」


 高緒の両手は剣で塞がっている筈だ。状況が視界に入る光の速さよりもなお早く見、認識し、判断しなければ、こんなに素早く腕を動かす事は出来ない筈だ。


 そろそろと自分の肩を見下ろした。


 そして見た、紗仲の肩は、高緒の腕ではない、彼女の翼で押さえ付けられていた。


 しかし、たとえ斬り抜けられなくとも、刀は相手の胴の半分くらいまでは斬り込んでいる筈だ。自分は体だけではない、腕だって動かしていたのだ、手応えもあった。


 どうせ必殺の武器を持つ者達である、体に接すればどんな鎧を纏おうとも致命傷になる、そのため防具などは身に付けない。そのならいに従って、高緒もまたそんなものは着ていない――それどころか彼女ははらわたすら外気に晒しているのだ。


 紗仲は視線を巡らせた。刀は確かに高緒の肉に食い込んでいた。ただしそれは胴体ではなく、肩を押さえ付けたのとは別の、もう一方の翼であった。


 高緒は無意識に敵の動きを予見していた。予知のような能力ではない、経験から来る直感である。こうした場合にこの敵ならば、こちらの太刀筋を避けながら斬り抜けるだろうと、意識下にいて分類化された行動に即して、その対策を感覚のままに行っていた。


 紗仲は体を抑えられ、刀も腕も封じられた。一方で高緒の剣は――紗仲の毛先を斬った後には――自由であった。


 紗仲は唇を戦慄わななかせ、高緒の顔を真正面から見た。この後自分に訪れる未来への絶望によって、自分が今どんな表情をしているのか、想像する事も出来なかった。


 両翼の羽搏きを止めた高緒、それに繋がっている紗仲は、一つの塊となって落下した。


 着地と同時に高緒は翼で相手の両肩を地面に押さえ付け、両膝で股関節を踏み付けた。紗仲の体を完全に捕らえて更になお片手で額を鷲掴みにし、


「馬鹿な足掻きもここまでだ。なあ、紗仲。最期に何か申せ」


 それに答える紗仲は白く霞んだ眼尻を決し、


「おオ、天下鎮護を心願す法器が我に、そのほう共が邪法など、如何で通用するものか」


 聞いて高緒の頬が緩んだ。


「ふふ、如何にこの世を夢幻泡影ほうようと称せども、目の前の現実が見えぬとは、ぬしも因果なものよのう」掴んだ掌に火気を収集しつつ、「それではこの火で穢らわしい面を洗ってくれる」


 紗仲は身動きが取れなかった。腕も下半身も蝶番ちょうつがいの根を抑えられ、抵抗をしようとすれば一層強く抑えられた。


 こめかみは、高緒がやろうと思えば握り潰せるほどに、激しく痛み、骨のきしみまで幻聴された。ただでさえ眼球の飛び出しそうな強さである、自分自身に流れる血潮の熱さ、血流の勢いまで感得された。


 紗仲は喘ぎ、次第に両のこめかみ、そして額に、高緒の掌から灼熱の発せられるのを感じつつあった。

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