閑話――いつかの過去

 夕焼けに染まった海岸、見渡す限り草木一本とない砂浜に、麻衣を纏った老人が槍を杖にして荒い息を吐きながら背筋を伸ばし真正面を睨んでいる。長い白髪は夕陽を浴びて茜色に光り輝き、老いたとは言え屈強な身体には幾本かの矢が突き立っている。その一箭を引き抜くと同時に潮風が吹き渡って彼の髪をなびかせた。


 軍勢との戦いの後だった。彼は連れの老女とただ二人でそれらを相手に立ち回り、次々と敵を打ち、突き、払い、薙ぎ、斬り倒していった。足元には先刻まで敵であった骸が無数に転がっていた。水際のものは波に洗われている。それらの向こうには未だ相手方の大将が無傷でじっとこちらを眺めている。


 彼は部下達と老人との戦いには加わらなかった。ただ老人の戦いぶりを観察していた。加わったところで戦況が変わるとも思っていなかった。部下達など、老人達に手傷一つと負わせられるとは思っていなかった。ただ後の自分との戦いの際に役立てるための、相手の癖か何かを見出すための捨て駒としか考えていなかった。


 しかし意外であったのは、連れの老女が思わぬ砂風に目をやられ、その瞬間に出来た隙に偶然にも一本の矢が彼女に襲い掛かった時、老人は彼女を庇い、矢をその身に受けた。彼とても矢に射られれば平気ではいられなかったと見える、それから何本かの矢を浴びせられた。矢傷を負った彼は万全の力を振るうことが出来なくなった。


 人形ほどの価値もなかった雑兵が、多勢の優で彼らを梃子摺てこずらせた。老人の槍は鋭さを減じ、老女の薙刀は味方への気遣いで鈍っていた。ものの数ではなかった筈の軍勢を殲滅せしめた後の今では、老人の息は乱れ、老女は膝を突いてうずくまっていた。


 敵方の大将は聞かせようとするのでもなく、「こうなってしまえば如何に貴公といえど無慚むざんやな」と独り言つ。だからと言って容赦も油断もするような素人ではない。ただ武者としてたとえ重傷の老爺であろうと全力を以って打ち倒す心積もりでいる。彼は腰に佩いていた直刀を引き抜き、もう一方の手で素早く印を切った。その手元に黒い雲が湧き出でる。


 老人は咆哮した。槍を構え、一跳すると敵に接するのは瞬時だった。唸る槍の突きは相手の胴を狙っていた。敵は胴を、雲を纏った手で防いだ。


 槍の穂先はその手に纏う黒い雲に呑み込まれた。


 老人が槍を引くと、穂は、雲に突き入れた部分が消滅していた。彼の槍は短い棒に過ぎなくなっていた。


 敵は直刀で打ちに掛かった。


 老人は後ろ跳びに避けて、足が地に着くと同時に槍を投げた。


 顔に向かって来たそれを、敵は避けるでもなく黒雲で呑み込んだ。もしも避ければそれが態勢の乱れに繋がり、その隙を突かれると思ったのだ。


 しかしそれは逆だった。黒雲を眼前に通したただの一瞬、視界の端を欠けさせたただの一瞬に、老人が消えていた。敵は焦り、反射的に飛び退いた。


 その飛び退いた一瞬前に自分がいた場所に、老人の姿が現れた。武器を何も手にしていない、徒手空拳ではあったが、老人は正拳で突きを放った。それは轟音を発して砂塵を巻き上げた。


 この威力だ、もしもその場に留まっていたなら殴り殺されていただろう。敵は冷や汗を垂らし、更に後ろへ飛び退いた。


 しかしそれも悪手だった。敵はそれを地に足が着くより前に知る。接地するであろう位置には、既に老人が、腰を深く落とし、左腕を前に構え、右腕を目一杯引き、敵へ拳を放とうとしてその瞬間を待っていた。


 相手は素手でこちらは直刀を持っている。その差を見れば敵こそが有利であったが気勢を削がれていた。真向から打ち合う気力は失せていた。だからこそ、彼は老人とぶつかるのを避けたかった。


 そのために先に部下達を老人と戦わせたのが役に立った。この老人は連れの老女が襲われると見るや庇ったのだ。つまりこの二人、老人と老女は単なる共闘関係にあるのではない。互いの実力を見込んで手を組んでいるだけではない。


 遠くで蹲りながらこの戦いを見守っている老女へ向かい、片手に纏っている黒雲の塊を飛ばした。この雲は手から離れれば間もなく消えてしまう、それでも老女の位置までなら充分だ。


 狙い通りだった。老人はその物質を消滅せしめる黒雲が彼女へと吹き飛んで行くのを見ると、その場から駈け出した。老女は雑兵との戦いで負った傷により、体を動かすことも出来なかった。その彼女へ向かい、黒雲は真っ直ぐに飛んで行く。


 老女と黒雲との間に老人が割り込み、左腕を伸ばした。その腕に黒雲がぶつかる。すると腕は黒雲と衝突したと見えるや、消失した。彼の左腕は肩口から、黒雲と対消滅していた。肩口からは鮮やかな赤い血が奔騰した。


 敵は着地するや深い一呼吸を吐き、彼らの元へと突進した。今度は印を切る間もあらばこそ、直刀を諸手で持ち、大きく振りかぶっている。


 素早い正面斬りが老人の右腕、その前腕を切り離した。


 仕留めたと思う間もなく返す刀で胴薙ぎを狙う。


 と、その内側へ、刀の間合の内側へ、老人は踏み込み、体当たりをした。敵が怯むことはない。そんなものは承知の上だった。今はただ、斬られなければそれで良かった。


 老人は左腕を失った瞬間、既に自分が勝てる状況ではなくなったのを知っていた。凄まじい勢いで血が流れ出て行く。まともに戦えば敵を倒すよりも早く失血により気を失うだろう。それであれば取る手段は一つだった。肉を切らせて、いや骨込めに腕を切らせて相手に体をぶつけた。密着する二人のくるぶしを波が洗う。


 前腕の断ち切られた右腕を敵の首に巻き付けた。


 老人は敵の首を抱え、全身の力を振り絞り、右の前腕、左の肩口、全身の矢傷から血を迸らせながら、海へと踏み入った。力強い足が沖へと進んで行く。


 首根っこを抱えられた敵は暴れた。いつしか直刀も取り落としていた。藻掻もがけども藻掻けども老人の腕は鉄環のように固く首筋を締め上げて、決して緩むことなどなかった。


 両者は腰まで海水に浸かり、胸元まで海水に浸かり、首元まで浸かり、そして全身が海に沈んだ。


 彼らが浮かび上がって来ることはなかった。海面は何事もなかったかのように穏やかにさざなみを立て、夕陽を照り返して輝いていた。


 みぎわに一人残された老女は、老人の沈んだ海を眺めていた。いつしか夕陽も海の向こうへ沈んでいた。その残照が水平線を赤く縁取っていた。


 老女は彼の沈んだその西の海を祈るように眺めていた。老人の姿が再び浮かび上がってくることは二度となかった。

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