① 姫神の――3

 夜の山中を駈ける少年は、いつしか森に踏み入っていた。頭上は高い木々の枝葉が交錯して黒布のような闇が周囲を覆っていたが、木漏れ日のように落ちる月光が所々に灯っていた。


 視界は夜霧にさえぎられ、目をらさなければ前後左右、上下さえもはっきりしない。むせるような緑の匂いが鼻先に粘る。先へ先へと送る脚が笹を踏み分け、腐葉土を踏む。その足に力を籠めれば、地面は凹んで足跡を残した。


 更に奥へと駈けて行く。海のような霧に彼は溺れそうだった。それでも彼は、奥へ、奥へと体を送る。まるで梶を捨てた小舟の波にさらわれるかのように、自らとは違う力で動かされていた。そこに意識などは微塵もなく、ただるがままに体を任せきっていた。


 転ばないのが不思議なくらいだった。視界は利かない。風と足の音で耳は利かない。鼻は深緑の香りでいっぱいになっている。肌は濡れて汗と霧との区別も付かない。その癖、舌は乾いている。


 舟は海原へ送り込まれた。潮流に呑まれて後へは退けない。空と海との狭間に釣り人は閉じ込められた。瑠璃色に染まった世界には、何も存在していない。無限のような空間が永遠に続いて行くだけだった。だが、遠い水平線に島影が見えた。そこへ近寄っているようにも感じられる。運が良ければ、島の端に引っ掛かれるかも知れない。


 と、急に霧が晴れた。森は途切れ、視界が広がった。


 冴えた満月が雲一つない紺の天穹の中央に座を占めていた。月光を浴びる茂みは膝まで伸びて、小さな青い花が幾百幾千と散り散りに咲いていた。


 そんな草原の中に一人、長い黒髪の白い少女が横を向いて佇んでいる。その輪郭は朧で夜空に滲んでいるようだ。よく見れば、身に纏っている衣服は白一色の経帷子きょうたらびらで、一糸と乱さず、きっちりと着込んでいる。頭には何も被っていない。両腕はたらりと脇に垂れている。だが、袖の先には何もない。そこにある筈の小さな手はなく、背後の夜空の暗さがそのまま見えていた。そして胴は、腰がばっさりと断ち切られ、上半身と下半身とが分かれていた。それなのに崩れ落ちることもなく、すっと立っている。長い髪は腰まで流れて闇よりも黒く、天鵞絨のような光沢があった。その豊かな髪から覗く青白い頬、鮮紅の薄い唇、低くはあるが筋の通った鼻梁、切れ長の目、ぞっとするような目尻。それらを見ていると、首だけがゆっくりと動いた。こちらを向き、目が合ったと思う間に、彼女は月を後光に、微笑み掛けた。そして思った。ただ、ああ、綺麗だった。


 水晶の割れるような音がする。その音が反響して、一つの言葉を紡ぎ出した。


「また私の方が早かったね」


 澄んだ空気に染み入っていく少女の声。


「もう、随分待たされちゃったな」


 米彦は彼女が何を言っているのかも分からずに、草を踏み折り、歩み寄っていた。生まれてから一度も見たことのない少女だ。同級生でもない、幼馴染でもない、街で見掛けたこともない。確かにそうだ、初めて出会った女の子だ。・・・・・・だが、彼女はおそらく、地下に安置された死体なのだろう。身に纏っている経帷子が体の線を浮かび上がらせている。あの、誰にも話したことのない、幻夢の中に横たわる。


 憑かれたように歩み寄る米彦を、彼女は優しい表情で迎え入れ、二人が腕を伸ばせば届くほどの距離になった。


「偶には貴方の方が早くたっていいのにね。ね、本当は意地悪をして、私が気が付くまで知らん振りをしているんじゃない?」


 袖を差し伸ばして悪戯っぽい顔をした。掌は見えないが、五本の指だけは宙に浮かんでいた。うっすらとした微笑の、目尻に微かな光が灯っているのに気が付くと、米彦ははっとして歩みを止めた。


「君は、・・・・・・」


 小さく漏らしたその声は、畏怖の心に震えていた。


 彼女は両目を見開いて、


「え、何?」


 米彦は震える喉を引き絞り、


「君は、誰なの」


 少女は怪訝そうな面持になり、


「誰って、私よ」と、伸ばしていた腕を下ろした。


「私・・・・・・。私って」知っていて当然だともいう口振に困惑した。それで繰り返さざるを得なかった。「君は誰・・・・・・?」


「誰・・・・・・」


「君は、俺を、・・・・・・知っているの?」


「それって、どういうこと?」


 彼女の瞳に宿っていた光の色が変わった。


「私が、分からないの?」


 泣きそうな目で見詰められ、米彦は激しく動揺した。


「貴方、私を、思い出しては、くれていないの?」


 思い出す。一体何を思い出すのだろう。彼が彼女に会ったのはこれが初めてだ。初対面の相手を思い出すも何もない。だが、彼は彼女があの霊廟の遺体であると確信していた。この張りのある肉の付いた頬、瑞々みずみずしく輝く瞳、清らかな肌、流れるような髪が、あの干乾びた死体と同じものであると確信していた。証拠はない。しかしこれは違えようのない真実であった。勘違いなどとは決して――。


 それでも、彼女が夢の女であったとしても、これは知っていると言えるのだろうか。確かに彼女はあれである。けれども、彼はあの夢が現実に関するものだと思ったことはない。あれはただの夢なのだ。実際に起こり得るものではない。夢にどれほど似ている光景に出くわしたとしても、単なる偶然でしかない。何物でもないはずだ。だが――、


 彼女の様子では、まるで、彼女がここでこうしていることを彼は当然知っており、それだからこそ彼はここに、あえて来たのだ、とでも言うようだった。しかしそれは違う。米彦ははっきりと知っていた。ここに来たのは意志ではない。気が付いたら、ここに辿り着いていた。偶然だ。つまりは、彼は彼女を知らなかった。


 少女は泣き笑いのような声を出し、


「それじゃ、どうしてここに来たの? こんなところ、知らないのなら何もないのに。来るわけがないじゃない。ね、そうでしょう? もう、今度の貴方は意地悪なのね。悪い冗談が好きみたい。そうでしょう? あはは、すっかり騙されちゃった・・・・・・」


 空元気にはしゃいで見せた。あたかも少年がすぐに分かるような嘘を吐いたとでもいうように。彼は何と言っていいのか分からなかった。


「ね。もう、すっかり騙されちゃったって。もうネタ晴らしをしてもいいわよ。笑わないの? もう。肩が震えているわよ」


 そのようなことはなかった。米彦は草木で編まれた人形のように身動きもせずに、じっと沈み込んでいた。


「ほら、吹き出さないの・・・・・・?」


 彼は自分が相手を知らないことを申し訳なく感じていた。彼女の様子はとても悲しく、胸が痛んだ。


 俺は、――米彦は思った。――彼女を知らない、そして彼女は自分を知っている誰かをまっていた。そうだ、彼女は人違いをしているのだ。


 だが、やはり――。


「本当に分からないの?」


 米彦は面を上げた。そこに今にも泣き出しそうな顔を見た。青白く端整な顔立の、長く切れた目が糸のように細くなり、濃い睫毛に滴が灯っていた。


 顔をそむけ、


「分からない」


 喉の鳴る音が聞こえた気がした。深々とした山の夜。遠くで夜鳥の声がほろほろと響いた。風が草葉を鳴らしていた。不思議なことだった。喉の鳴る音など、二人の距離では届くはずはないのに。


「そう」


 ぽつりと呟いたその声は、翠玉すいぎょくのように透き通り、米彦の耳まではっきり届いた。


「それじゃあ、何でこんなところに来たの? 何もない、ただの山奥でしょう」


 突き放すような口振は、少年の心を傷付けた。


「それは」ようやく答えた。「天体観測に」


「天体観測?」


「そう。友達と待ち合わせて・・・・・・」


「そのお友達はどこ?」


「それが、待ち合わせに遅れて、俺を置いて先に・・・・・・」


「ここには誰も来ていないわよ」


 米彦は黙り込み、しんとした数十秒が過ぎた。


「・・・・・・そう、分かったわ」


 彼女は横を向き、草野原の向う、山林の奥を眺めやっていた。つと上げた顎の先から、脂肪のない引き締まった輪郭が伸びていた。その白い首筋は、根元が切り離されて夜の闇を少年に見せ付けた。


「貴方は嘘を吐かないものね」


「ごめんね」


「どうして謝るの? 謝ることなんてないじゃない。貴方は何も悪いことをしてないもの」


「君のことを、・・・・・・思い出していなくて」


「それは貴方のせいじゃないわ。そうでしょう? まだ、その時期じゃなかっただけ。それは貴方のせいじゃない。・・・・・・今日のことは、全部私の早とちりだった。ごめんなさいね。変な思いをさせちゃって」


 悲し気な笑顔でそう言う彼女を真向にして、


「ねえ」


「何?」


「人違いじゃないの? その、待っている人は」


 彼女はふっと息を吐き、


「そんなことはないわ。貴方よ。私が待っているのは」


 あの記憶を持ち、自分でも彼女をそこに現れる少女だと確信しているから分かる、彼女も自分と同じなのだろう。だが――


「ねえ、どうして俺だと思うの。その、待っている人が」


 少女は頬をほころばせ、


「だって、貴方だもの」


「そう」


 それで納得した。それに、これ以上質問しても無駄なのだろう。彼女にだって、自分にだって、きっと、それ以上の説明のしようがない。


「それじゃあ」彼女は首を少し傾けて、「今日は、さよならね」


 米彦は相手の眼を強く見詰め、そして頷いた。


 きびすを返し、来た道へと戻って行く。ついさっき、三十分と経たない内に辿って来た山道へ。


 彼はたまらなく寂しかった。初めて出会った彼女の心情を思い測った。どれほど悲しかったことだろう。待っていたのだという。どれだけの間かは分からないが、時や遅しと待ち侘びていたのは分かる。相手が来ることだけは信じているけれども、それが何時かは分からない。自分が言い出すまで、彼女は自分が思い出していると、思い出したからこそ此処に来たのだと信じていた。そして待ちに待った再開が果たせたと思い込んでいた、あの嬉しそうな様子。毎日だろうか。毎夜、あそこで待っていたのだろうか。そしてこれからも、彼が思い出すという時まで、来るべき時が来るまでずっと、待ち続けているのだろうか。


 俺は、――米彦は思った。――必ず戻って来るだろう。きっと、必ず・・・・・・。そう思えばこそ、彼は振り向かないつもりでいた。一足ごとに、力強く地面を踏み締めながら森の方へと向かって行った。


「ねえ、待って!」


 張り上げられた彼女の声が耳を打った。


 思わず彼は振り返った。つむじ風が小さな青い花弁を巻き上げる月光の下で、彼女の姿は、おぼろおぼろと霞んで見えた。


「あのね」


 と口籠って二呼吸、


「名前を教えて」


「米彦だよ。綾幡米彦」


「そう。いい名前ね。とても素敵。ねえ、あの・・・・・・」


 彼女は引き留めたいのだ。今は別れるべきだと思っており、自ら別れを告げたというのに。その気持がわかればこそ、彼は辛かった。駈け寄らんばかりの衝動を細い体で抑え込んだその様子が痛々しく、米彦は目を伏せた。


「私は紗仲さなかよ! 三津島みつしま紗仲。覚えていてね。これが、今の私の名前・・・・・・」


 彼女が彼の名前を聞いた時と同じ言葉を、米彦もまた小さく呟いた。聞こえてはいないだろう、そうも思ったが、相手に聞こえるように繰り返そうとはしなかった。


「もしも思い出したら、すぐに来てね」


 乞うような響きに、


 分かった、とぽつりと。


「約束ね」


「約束する」


「絶対によ!」


「絶対に!」


 喉を振り絞って叫び、再び背を向けた。駈けるように足を運ぶと共に、こう思わずにはいられなかった。――俺は、戻って来るだろう。必ず、絶対に。俺が、彼女のことを、思い出そうが、出すまいが――。



◆◆◆◆◆◆◆◆



 彼の姿が木立の陰、夜のとばりに隠れてからどれほど経っただろうか。彼女の耳にも彼の足音が聞こえなくなっていた。震えそうになる体を必死に抱え、彼の姿、生まれて初めて見る彼の姿の残影を目蓋の裏に映していた。それすらも涙の波に浚われた頃、彼女は初めて草叢くさむらに突き伏し、泣き伏した。

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