第6話 はじまりの約束
翌日──
冒険者の青年と〝花の魔女〟は、花畑の入り口に立っていた。
花畑の中心にある自身の家を振り返って、リナーシャは小さく息を吐いた。
これから〝魔の森〟の外へと出る。森の外に出るのは、リナーシャからすれば、何十年ぶりの出来事だ。もう人間と関わるつもりもなかったので、今の状況に整理が追い付いていない。
セネトもリナーシャに釣られて、家の方を見ていた。
(殆ど自業自得ですけど、我ながら話が変な方向に進めてしまいましたね……)
リナーシャは、隣のセネトをちらりと盗み見て、ふとそう思う。
隣に立っているのは人間の青年で、更にその青年と一緒に森を出て人が集まる町へと向かおうとしているのである。
昨夜は、それこそ我ながらよくわからないことを言ってしまった。
『……あなたが〝勇者〟になるお手伝い、私にさせてくれませんか?』
自分でも何を言っているのだろうと思った。気が迷っているという領域をとうに超えて、正気を失っているのではないかと思った。
ただ、セネトの呆けた顔を思い出すと、それだけで笑いがこみあげてくる。普段から整っている顔をしているからこそ、その呆けた顔がミスマッチで面白かったのだ。
当然、セネトは理由を訊いてきた。
それに対して、咄嗟に浮かんだ答えはこうだった。
『あなたみたいな人が〝勇者〟なら……ちょっと面白そうだなって。そう、思ったんです』
本音でもあるし、嘘でもある。
本当の理由は……もっと直感に近い感情。ただ彼を支えてあげたいと思っただけなのだと思う。
それはきっと、人間に対する嫌悪感と、それに相反する期待感。そんなものが、リナーシャの中で葛藤として生まれたのだろう。
ただ、彼の言葉を聞いた時、自分の胸の奥底に潜んでいた何かが、そっと手を伸ばしたような気がした。それは、いつからそこにあったのだろうか。
もしかすると……その潜んでいた何かは、ずっとそこにあったのかもしれない。
『そうだね。それは本当に面白そうだ。勇者と魔女が魔王を倒すだなんて、きっと末代まで語り継がれる』
リナーシャの言葉に対して、セネトはこう答えた。この時に見せた、彼の笑顔が忘れられない。
本当に可笑しそうに、笑いを堪えていて。でも嬉しそうだった。
その笑顔を見て、リナーシャは思うのだ。やっぱり彼の力になってあげたい、と。
「リナーシャ」
セネトはこちらを見て、名を呼んだ。
「はい、何でしょう?」
「一旦、君の正体は伏せさせてもらえないか? 〝花の魔女〟は僕らからすればもう伝承みたいな存在だ。明かしたところで混乱を生むだけだろうし、君に嫌な思いもさせたくない」
「わかりました。というか、私は別に〝花の魔女〟であることを広めたいわけではありませんから。勝手にそう名付けられて、勝手に恐れられていただけです」
リナーシャはうんざりだと言わんばかりに首を少し竦めた。
ただ生きていて、少々強い力を持っていて、それで助力しただけで世界の四大魔女のひとりに数えられてしまったのだ。
迷惑極まりない話だ。
尤も──名乗らなくてもいずれリナーシャが〝花の魔女〟だと気付く連中もいるのだろうけど。
「……そうか」
一瞬だけ、セネトが寂しそうに眉を寄せた──かと思えば、一転して笑顔でこう言った。
「でも、この冒険が終わった頃にはきっと、皆から憧れられる存在になっているよ」
「憧れられる? 私がですか?」
言っている意味がわからず、リナーシャは小首を傾げた。
「ああ。だって、そうだろ? 僕と君は、魔王を打ち滅ぼす勇者と魔女だ。〝花の魔女〟は恐怖の象徴じゃなくて、皆の憧れになっているに違いない。王族や貴族からも、結婚を申し込まれるだろうね」
「なんですか、そのめんどくさそうな展開は。魔王を倒した褒美が
リナーシャがうんざりだという様子で言うと、セネトは「違いない」と笑った。
「それにね、仮にそんなことがあったとしても、僕が許さないよ」
「セネトが許さないのですか?」
「ああ、そうだ。だって……それは、僕にだけ許された権利だからね」
セネトはまるで絵本に出てくる王子様のように片膝を突き、リナーシャの左手を取って柔らかく微笑む。
自らの胸が、一気に跳ね上がったのを感じた。
「──は、はい!? な、何を言ってるんですか、あなたはッ!」
慌てて手を引っこ抜いて、上気する頬を両手で押さえる。
なんなのだ、この人間は。あまりに心臓が悪すぎる。
「ははっ、冗談だよ。今の何者でもない僕がこんなセリフを吐くのは、ちょっと烏滸がましいね。分を弁えるとするよ」
「全く……人間のくせに、生意気ですよ」
照れ隠しで憎まれ口を叩くと、セネトが「人間のくせに、か……」と小さく呟いた。
「……? どうかしましたか?」
「いや……君も、
セネトはじっとリナーシャを見据えて、そう訊いた。
その質問に、一瞬、遠い記憶が脳裏をかすめた。
「……忘れてしまいましたよ。そんな昔のことは」
笑みを作って、〝魔の森〟の方へと向かおうとした時、もう一度「リナーシャ」と呼び止められる。
振り返ると、そこには何かを決意した青年の姿。
セネトは言った。
「もし、僕が本物の〝勇者〟になれたら……君を元の人間に戻す権利を、僕に与えてほしい」
その眼差しは真剣そのもので。そこには、先程のような冗談めかしの雰囲気は欠片程もなかった。
人間に戻す権利。それは、〝魔女〟であることをやめて彼とともに人間として暮らす、ということを意味しているのだろうか。彼の言葉の真意はわからない。
「その時は……答えを聞かせてくれるかい? また、この花畑で」
どうしてだろうか。リナーシャは、その問いから逃れることができなかった。
拒絶することも笑って流すこともできず、ただ自然に、当たり前に受け入れるものとして ──
「……はい」
素直にこくりと頷いてしまったのである。
そして、その刹那。ふたりの門出を祝うように、花畑の花びらが宙を舞った。風に乗った花びらは、ふたりの未来を祝福するように輝きながら、空に優美な軌跡を描く。
それは、〝勇者〟と〝花の魔女〟の冒険が始まりを告げた瞬間で──ふたりの間に、未来の約束が生まれた時だった。
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