ブラッドリー・バックス・バレンタイン

あなぐま

ブラッドリー・バックス・バレンタイン

 血盟術式。


 以下の条項が遵守される限り、対象はその身に十の制約を刻み込む。対象は、当制約が時期と種類とに依らずあらゆる契約より優先され、かつ身が朽ち魂が枯れた後まで残る事を、その血を以て同意するものである。


「……マジですかこれ」

「大真面目だとも」


 オルボーン教授に澄まし顔で頷かれ、アリアはくらっと眩暈を覚えた。


 今アリアの手元にある契約書は、互いの血判を媒介に魂を束縛する強力な魔術契約だ。政界や裏社会でも滅多に使用されない。それを教師と生徒の間で交わすなど言語道断、前代未聞。しかもその制約とは、要するに……。


「キャンベル教授に惚れてるって、本人に漏らさない、って事スか。その為にここまでします?」


 多少の地雷なら踏み抜けると高を括っていたが、オルボーンのそれは特大だった。契約書を握りしめたままアリアは天を仰ぐ。おお神よ、私が何をしたと言うのです。いったい何故こんな事になったのでしょう。


 何故? それはアリアが鼻歌混じりに地雷を踏んだからである。


 事の起こりは二週間前の錬金術の授業だ。キャンベル教授の授業はいつも実用重視で少々浪漫に欠けたが、その日は気分転換にと、銀の粒子で教室天井に星空を描くという、実に美しい魔法が披露された。だが、ある生徒曰く、その場に同席していたオルボーンまでもがその魔法に、そしてキャンベル教授に見惚れ、あまつさえ「美しい」などと呟いたというのだ。


 その噂はあっという間に校内に広まった。見惚れてたって? まさか、遅咲きの初恋だとでも言うのか?


 あの、バックス・B・オルボーン術式応用学教授殿が。

 このフェリントン魔法学校において、生徒から最も嫌われる男が。

 難解極まる宿題で生徒を補修室送りにする事しか頭にないクソ因業ジジイが。


 だが実際、その日以降オルボーンは授業中も完全に上の空で、階段を踏み外して転げ落ちるのも何度か目撃された。いやいやまさか、と皆が思いつつ確かめる事は誰もしない。進んでオルボーンに話しかけるのは、彼がケチを付けられないほど優秀な生徒か、恐れ知らずで無遠慮な生徒のどちらかだ。


 アリアは後者だった。クラス分の課題を集めたついでにと、軽い気持ちで突撃した。


「失礼しまーす」


 ノートの山を抱えながらアリアは扉を開けた。本棚に囲まれた、本の海、それがオルボーンの研究室だ。椅子に浅く座ったオルボーンは、ぼんやりしながら尖ったチョークをクルクル回し、時折それを壁に掛かった安物のダーツボードに投げつけている。


「無得点とは、珍しい」


 アリアは散らかった足元に気を付けながら軽口を叩いた。チョークは力なく弾かれて床に転がるばかり。いつも穴だらけのボードも今日は綺麗なものだった。


「調子でも悪いんですか?」

「優しさと寛大さを思い出そうと試みている」

「ボードに対してッスか。生徒の頭にも同じくらい優しく投げて貰えませんかね」

「既に十分優しいとも。だからまだ誰にも穴が開いていないだろうが」

「マジすか。あ、ノートここ置いとくんで、添削お願いします」


 オルボーンは曖昧に返事をしてまた投げるが、刺さらない。ダーツボードの下は外れたチョークが山積みだ。さてどう切り出したものか、とアリアは考えるが、考えると気を遣うほどの相手でもなかった。


「先生、ちょっとお聞きしたいんですけど」

「なんだ」


 チョークが弾かれる力ない音が響く。構わずアリアはぶち込んだ。


「キャンベル先生のこと、どう思ってます?」


 ガッ、とチョークがど真ん中に刺さった。ブルズ・アイ。


「……」

「……」


 オルボーンが投げ切ったままの体勢で、部屋の空気が固まった。だがそれも一瞬、アリアはすぐに踵を返した。


「じゃ、私はこれで」

「待て」


 すかさずオルボーンがローブの裾を掴む。


「いやいや、離して下さい次の授業がありますし!」

「逃がすか小娘! 良いか、お前は勘違いをしている!」

「冗談。多分ですけど先生より正しく理解してます。心配しなくても、キャンベル先生にはなんか良い感じに伝えておいて……」

「『閉ざせ!』」


 オルボーンの一言で仕込まれていた術式が扉を施錠。慌ててアリアが飛びつくが、ノブをガタガタ捻っても、何度蹴っ飛ばしてもビクともしない。


「ここまでやります!?」

「残念だが、私の秘密を知った以上、お前をここから出す訳にはいかんな」

「周知の秘密でしょう、往生際が悪いですよいい歳こいて」

「いいや、信用ならない。さて、口が裂けても喋らんよう契約が必要だな。幸い我々は魔法使いだ」

「うっそでしょアンタら」


 と、言う訳であった。


「……マジですかこれ」

「大真面目だとも」


 アリアは契約書の内容を何度も確認し、改めて呻いた。オルボーンの秘密を直接キャンベルに伝える事は勿論、それ以外にもやたら面倒な行動制限が課されている。


「期限は、秘密にする必要がなくなるまで……。お二人がくっついたらって事ですか? まさか私に仲介役をしろと?」

「そんな条項は含めていない。だが、まあ、それを禁ずる条項もないがな」

「こんな内容、日常生活にも支障が出るじゃないですか……」


 アリアは腕を組んで暫く悶えた後、「良いでしょう!」と叫んだ。


「ただし! 事が成った暁には相応の報酬を約束して頂きます。魔術工房への推薦状、第八級を要求します」

「八? 貴様この私に、あの雑紙の山を作れと、」

「等価交換です。ちなみに推薦状の提出は五月ですから、こっちこそグダグダ付き合ってられません。一か月以内に勝負を決めて、来月のバレンタインデーにチョコを貰う事を目的とします」


 急にバタバタと話を進められ、今度はオルボーンが狼狽えた。とんだチキン野郎である。


「しょ、勝負とは何の話だ。一か月でどうにかなる訳がないだろう」

「それは先生の頑張り次第でしょう。大人だから余裕があると思うのは間違いですよ。そう言えば、最近ヒックス先生と仲良くしている所もよく見かけ……」


 バン、と机を叩かれる。戦う漢の目をしたオルボーンを見て、アリアは悪い顔をした。


「良いだろう。その安い挑発に乗ってやる。言っておくが今の話は契約書に追記するからな」

「ええ勿論。先生こそ、その契約書に血判を押す度胸はあるんでしょうね」

「最大効力は半年間、短期的目標として来月の二月十四日。貴様には駄馬の如く走り回って貰おうか」

「推薦状の件もお忘れなく。もし手を抜いた物なんて作ったら、複製して学校中に撒いてやりますから」


 二人は同時に親指を噛み切り、至近距離でガンを付けながら契約書に押し当てた。狙うは一つ、キャンベルのチョコレートである。


 あの、セリーナ・W・キャンベル錬金学教授殿の。

 このフェリントン魔法学校において、生徒から最も慕われる女の。

 学内アンケートにてにしたい教師五年連続一位、そのお手製のチョコである。



***



 チョコと言うなら、毎年この時期、女子から渡されるチョコは全て義理であると、フェリントン校では相場が決まっている。では本命は誰なのか。それがキャンベルであった。


 紳士的で頼り甲斐がある彼女の評判は、学内だけに留まらない。今も学会や母校から勧誘があるという。出身はキングスウッド。十二月二十六日生まれの山羊座。血液型はA型。修めた魔術は七分野。酒はザル。好きな銘柄はアル・ビレッジ。


「あと結婚歴も交際歴もないようですね」

「たった数日で恐ろしい手際だな」


 オルボーンは研究室で頬杖をついたままぼやき、アリアは疲弊しきった顔で「おかげ様で」と呻いた。


 キャンベルのゴシップ、もとい趣味嗜好を調べるのは骨が折れた。原因は勿論、血盟契約である。条文自体は要するに、オルボーンの秘密を明かす目的での接触を禁ずる、という実に雑な内容だ。


 だがその効果は絶大だった。アリアがキャンベルの研究室に忍び込もうとすれば目の前に雷が落ち、趣味を訊くため匿名の手紙を出そうとすれば羊皮紙がいきなりバラバラに千切れ、友人に探りを入れるよう頼んでいるとバカでかい蜘蛛がアリアの頭に落ちてきた。もはや呪いである。


「ペナルティの陰湿さに性格が出てますよね」

「何か言ったか小娘」

「いーえなんでも。で、話を戻しますが」


 アリアは調査結果をまとめた手帳をパンと閉じた。


「これだけ調べても浮ついた話は全く出ませんね。言い寄る男も上手に揶揄われるばかりで、好みもタイプもさっぱりです」

「使えん奴め」

「遠回しな方法しか取れないのは、先生が結ばせた契約のせいでしょうが。許可さえ頂けるなら私がラブレターの代筆くらい……」


 と、ふざけて手帳に書き始めた途端、持っていた羽ペンが燃え上がり、一瞬で消し炭になった。


「……代筆くらいしてあげるってのに」

「まあ良いだろう。作戦を前にリスクを洗い出せただけ意味はあった。よし、そろそろだな」

「ええ。打ち合わせ通りに行きますよ、最初が肝心ですからね」


 アリアが灰を払うと同時、タイミング良く昼休みを報せる鐘が鳴った。


 大食堂は、既に生徒と教師で溢れていた。そんな中で、キャンベルは論文を読みながら、一人静かに昼食を取っていた。その雰囲気を邪魔しないように、周囲には誰も座らない。フェリントンでの、ある種の様式美だ。


「相席良いかな?」


 キャンベルが顔を上げた時には、オルボーンは向かいの席に座っていた。


「勿論だよ、オルボーン教授」

「たまには食堂と思ったのが運の尽きだ、どこも騒がしくて敵わん。失礼するぞ」


 開口一番文句を言って、オルボーンはガツガツと昼食を頬張った。そしてキャンベルの背後の席、オルボーンにしか見えない位置にこっそりアリアが座る。配置に付いた。準備完了。アリアはハンドサインで話しかけろと指示を出す。


「あー……」

「ん、どうかしたかい?」

「うん、いや、そうだな。……旨い」


 会話下手か、とハンドサイン。キャンベルも苦笑していた。


「そうだろう、今後も是非利用すると良い」

「おま……、教授はよく来るのか?」

「不思議と集中できるんだ。難問に当たった時ほど良く来る」


 ここだと感じてアリアが再び指示を出す。見せてみろとオルボーンが手を差し出し、キャンベルも論文を渡した。それは偶然にも、錬金術の中ではオルボーンの専門に近いものだった。すっとオルボーンの目が冷える。


「少し待て」


 身にまとう空気が引き締まる。アリアが最も信頼する姿で、キャンベルも声を掛けず微笑んでいる。二人とも無言で、周囲の雑音だけが聞こえてくる。だがなぜか心地よい時間だった。


「アプローチの仕方が違う」


 読み終わると同時にオルボーンが切って捨てた。


「内容の割に素人臭いミスだな」

「通りで。五頁目当たりから、どうも理解が追いつかないんだが」

「それはむしろお前が正しい。例えばな……」


 学者同士特有なのか、すぐにあれこれと議論が始まった。研究に関する事なら緊張も遠慮もないようで、思いのほか会話は弾んでいる。これは幸先が良い、とアリアも少し、穏やかな気持ちになっていた。お似合いの二人に、見えなくもない。


 それを油断と、人は言う。


「そうじゃないな、もっと……、おいお前。ちょっと寄越せ」


 忘れていたのは、その過熱の早さだ。オルボーンは通りがかりの生徒からノートを強奪、図解しながら大声で説明し始めた。周囲も気にせず捲し立て、キャンベルの相槌も待たず畳み掛け、おい落ち着けとアリアがサインを送っても気付かない。


「あ」


 正気に戻ったのは、予鈴が鳴ってようやくだった。


「非常に興味深い意見だったよ先生。お陰で随分と理解が深まった」


 やらかした、と真っ白になったオルボーンを置いて、キャンベルは優雅に微笑んで席を立った。すっかり人のいなくなった食堂。掃除を始める自律人形。項垂れていたアリアは腰を上げ、立ち尽くすオルボーンをべしっと叩いた。


「次」


 アリアが考案したのは、生徒のお悩み相談大作戦だ。教師らしい共同作業を通して、お互いを知り合う事が目的である。


「生徒の悩み? 私にそんな真似が出来る訳ないだろう」

「キャンベル先生の補佐くらいなら出来るでしょう。まずは、同僚の先生その一から、最近よく話すオルボーン先生へのクラスアップを図ります」


 アリアとオルボーンは作戦の詳細を詰めていく。その間も、前作戦の失敗のせいかアリアはどうにも嫌な予感がしていた。


 そして、案の定だった。


 進路に悩むアリアのクラスメートを、すぐにキャンベルが通るであろう廊下で先にオルボーンが捕まえる。そして現れたキャンベルに、オルボーンが助力を請い、二人で悩みの解決に乗り出す。そこまでは良かった。


 だが生徒の事となるとオルボーンはてんで役に立たず、空気を読んだキャンベルがいつもの漢気であっという間に問題を解決してしまった。共同作業、とは。


「やる気あるんスか!?」

「だから私には無理だと何度言えば……!」


 罵り合うのもそこそこに、二人は次の作戦に取り掛かる。


 それが失敗し、更に次の作戦にも取り掛かった。その次の、次の作戦にも取り掛かった。だがアリアが思うに、オルボーンは誰かと親しくなるという能力が致命的に欠けている。加えてキャンベルも、どれだけアタックしてものらりくらりと躱してしまうのだ。空き教室での反省会で、オルボーンは頭を抱えていた。


「くそ、やはり根本から見直すべきなのか」

「無理でしょう。相手の好みに合わせる度量が、先生にあるんですか? 直球勝負の方が絶対良いです」

「だが事実上手くいっていない。自分で言うのも忌々しいが、私は性格に難がある」

「自覚あったのかよ。でも先生の頑張り、一部の生徒は気付いてます。それこそ、私が言いふらさなくとも、キャンベル先生の耳に……、いってぇ!!」


 急に天井のランプが落ちてきてアリアの脳天を直撃した。遅れて、教室の外から生徒の話し声が聞こえてくる。アリアの例え話と間の悪さが、契約に「作為的な偶然」と解釈されたらしい。もう我慢の限界だ。


「先生! やっぱ少し契約内容緩めませんか!?」

「間抜けが! 私がそんな手に乗ると思うか!」

「ですがこんなペースじゃ、私の推薦状提出にだって間に合わ……!」

「そう言えばさ、聞いた? あのキャンベル先生の話なんだけど……」


 外から聞こえる生徒の声に、二人は同時に口を噤む。契約に「間が悪い」と解釈されたという事は、外の生徒はアリア達の件に何かしら関連があるという事だ。


「あのキャンベル先生の工房から、なんかチョコレートの匂いがするんだって!」


 なんだと!? と叫ぼうとしたオルボーンを、アリアは間髪入れずひっぱたいた。



***



 二月十四日。

 バレンタインデー、当日。


 東棟の中庭では、紋章学のヒックス教授が生徒教師問わず笑顔でチョコを撒いていた。流石は生徒からの人気第五位、実に有難い潤滑油である。アリアは「では」とオルボーンに声をかけた。


「少し離れた所にいますから。何かあったら、またハンドサインでお願いします」

「む? あー、そ、そうだな。離れていろ、危ないからな。それが良い」


 オルボーンは明らかに挙動不審だった。大丈夫かこいつと思いつつ、アリアは柱の陰に隠れた。


 不審というなら、ここにオルボーンがいる事自体が不自然だ。しかしキャンベルが作ったのは十中八九義理チョコ。こういうフランクな空気が最適だとアリアは説明した。オルボーンはさっきから何かブツブツ言っている。義理を渡された時に返す台詞でも考えているのだろうか。暫く経つと、とうとうキャンベルがやってきた。


 だが、持っていたチョコを見て、オルボーンは愕然とした。


「なっ……!」


 大人っぽいネイビーブルーの包装紙に包まれた小箱、それが、一つ。どう見ても義理ではない。オルボーンは物影に隠れたアリアに「読み間違えているぞ馬鹿が!」とハンドサイン。だがアリアは「良いからキョどるな!」とハンドサイン。


 だがオルボーンは落ち着いてなどいられない。個人宛の本命チョコ。アリアとの作戦でも、それを受け取るほどの成果を上げたとは思えない。では誰に渡すつもりなのか。


 そんな事を考えている内に、誰かを探しているように周囲を見回していたキャンベルの視線が、オルボーンとかち合ってピタリと止まった。キャンベルはすぐに足を速める。


 オルボーンは動けない。二人には、周囲の生徒やヒックス教授から、多くの視線が集まっていた。それを感じてかキャンベルも少し気まずそうな顔をする。それでも足は止まらない。


「む……」


 だが、あと、少しという所で、キャンベルが目を反らした。そして更に速足になってオルボーンの隣を、すり抜ける。


「ヒックス先生、いつもありがとう。この間の合同実習は助かったよ」

「うええ!?」


 ヒックスが変な声を出し、生徒達が黄色い声をあげた。オルボーンは固まったまま絶句し、物影のアリアも開いた口が塞がらない。困惑するヒックスに、キャンベルはぐいぐいとチョコを押し付ける。


「受け取ってくれるよ、な?」

「ひっ!」


 ヒックスには、キャンベルの向こうから悪魔のような顔で睨んでくるオルボーンが見えていた。だがキャンベルにも凄んだ笑顔のまま迫られ、更に小箱を押しつけられる。


「良いから、受け取れ……!」

「はい!」


 キャンベルはよしと頷くと、何事もなかったかのようにきびきびと去っていた。ヒックスは小箱を持ったまま呆然と立ち尽くしていたが、その肩を、オルボーンが掴んだ。


「ヒックス……」

「せ、先生! いや違いますって! どう考えてもこれは義理でしょう!」

「ちょっと来い。貴様とは一度話をしなければと思っていたんだ」


 咄嗟に周囲を見回すが、誰もが見なかったフリをして散っていく。そのままヒックスは悲鳴と共にオルボーンに引きずられていき、予鈴が鳴って生徒達も教室に戻っていった。通り雨でも降ったかのようだった。


 気付けば、中庭に残っていたのはアリアだけになっていた。


「はー……」


 大きく溜息をついて、アリアも中庭を後にした。向かったのは、他の生徒達とは逆方向。教授達の研究室や準備室がある区画だ。


 ふと、足が止まる。足元にあったのは、雷が落ちて焼け焦げた跡。キャンベルの工房に忍び込もうとして、血盟契約のペナルティが発動した跡だった。


「ふん」


 だが、再び足を進めても、今度は何も起こらなかった。勿論アリアはそうならないと知っていた。そして錬金準備室、キャンベルの工房に辿り着く。再び溜息をつき、扉を開けた。


「……」


 そこにはキャンベルが一人、机に突っ伏していた。入って来たアリアにも声を掛けず、完全に燃え尽きている。ピクリとも動かない。


 そんな彼女を見下ろして、アリアは短く罵った。


「腰抜け」

「仕方がないだろう! あの空気でどうやって渡せって言うんだ!」


 顔を上げたキャンベルが机をバンと叩くが、アリアの目は冷め切っている。


「それは十分話し合った筈です。あのオルボーン先生が素直に受け取る筈もないから、強引に押し付けてやるって息巻いていたじゃないですか」

「人の目が有るのと無いのとでは大違いなんだ! 君は他人事だから……、ああ、もう……」


 言葉も尻すぼみになり、キャンベルはゴンゴンと机に頭を打ち付ける。今頃はオルボーンも同じく壁に頭を打ち付けている事だろう。アリアは三度溜息をつく。


「以前から思っていたんですが、先生はどうしてこう本番に弱いんですか? 、授業中にあの星空の魔法を披露したまでは良かったのに」

「……あのオルボーン先生が、その程度で私なんかに目を留める筈がないだろう。ああ、あんな魔法やめれば良かったかな。結局どう思われていたんだろう、恥ずかしい」


 効果は抜群だったと学校中の噂になっていた筈だが、とアリアが首をかしげる。こうも卑屈になったキャンベルには、噂も正しく伝わらなかったのかも知れない。


「少なくとも生徒には好評でしたよ? それ以降はオルボーン先生からだって露骨なくらいアプローチがあったじゃないですか」

「アプッ……! い、いや、自意識過剰だ、良くない事だ」

「そうやって変に格好つけるから……。やっぱ私が、オルボーン先生に直接チクった方が早くないですか? なんか良い感じに伝えておきますから」

「それだけは駄目だ! これは、私が直接言うべき事なんだ。それに契約を忘れた訳ではないだろう?」


 キャンベルは懐から取り出した契約書を、これ見よがしに振って見せた。


「あー、それねぇ……。まあ忘れた訳じゃないんですけど」


 血盟術式。


 今キャンベルの手元にある契約書は、互いの血判を媒介に魂を束縛する強力な魔術契約である。政界や裏社会でも滅多に使用されない。それを教師と生徒の間で交わすなど言語道断、前代未聞。


「……いや、前代未聞では、ないですね」

「なんだって?」

「いーえ、なんでも」


 アリアがキャンベルの気持ちに気付き、半ば無理やり契約を締結させられたのは、オルボーンと締結する二か月も前の話だった。


 まさかその後オルボーンとまで同じような契約を結ぶ羽目になるとは夢にも思わなかったが、問題は二人が考案してきた条文の行動制限、その全てについて「自分の気持ちを相手に伝える事を目的に」という枕詞がついていた事だ。


 つまり、目的さえ違えば制限は受けない。


 キャンベルもオルボーンも、自分の気持ちが片想いであると思い込んでいる為、アリアがもう片方と結託している可能性に気付けなかった。極めて単純な落とし穴だ。アリアは契約書を読んだ瞬間に気付いたというのに、頭が良いんだか、悪いんだか。


「だがまあ、私としても君に苦労を掛けている自覚はあるさ。契約通り効力は半年。それまでに何とか片を付けるつもりだ」

「期限まで同じなんですよねぇ……。まあ大丈夫でしょう、まだ三か月近くありますし」

「私には君というアドバンテージもある訳だしな。オルボーン先生に迷惑が掛からないように、なんとか、その、話をまとめるぞ」

「あー、そッスね。了解ス」


 恐らくはオルボーンも同じ事を考えているだろう。誰かを利用している気になっている者ほど利用され易いとはいえ、恋は盲目とはよく言ったものだ。


 実は、契約の穴なら他にもある。すり抜ける方法も裏切る方法も、アリアは山と思いつく。だが結局のところ、この二重スパイの如き生活の一番の悩み処は、アリア自身が二人の事が気に入っているばかりに、どちらの気持ちを蔑ろに出来ない事なのだ。全く以て、面倒な話である。


「これもきっと惚れた弱み、なんでしょうね」

「惚れっ……! だから、そういう直接的な表現はよせ」

「失礼しました。まあバレンタイン失敗は痛いですが、安心して下さい。これはお互いメリットあっての契約ですから、これからも真面目に協力します」

「等価交換、だろ? 私の方も準備は進めているんだ、君にも、もう少し付き合ってもらうからな」


 喜んで、と言いそうになってアリアは口を噤む。

 そして、すぐに笑って「推薦状さえ頂けるなら」と憎まれ口を叩いた。

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ブラッドリー・バックス・バレンタイン あなぐま @anaguma2748895

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