超常の毒牙

「あの馬鹿……!」


 雪乃は部屋には入らず階段を駆け下り、玄関から飛び出して庭へ回り込んだ。

 二階の窓の真下、庭の中ほどで、愁作は仰向けに倒れていた。意識がなく、四肢を投げ出した状態でピクリともしない。

 頭を打っている可能性もあるが、一先ず起こさなければと思ったときだった。突然愁作がガバッと勢いよく跳ね起き、恐怖に目を見開いたまま胸を押さえた。荒い息を繰り返し、服の胸元をちぎらんばかりに握りしめている。吹き出した汗が額を伝い、ぽたりとスーツの膝に落ちた。


「夢野」

「……は、ッ、ぁ…………」


 強ばった表情のまま、愁作がそろりと横を向く。雪乃の顔をじっと見つめ、やっと現実に意識が戻った様子で深く長い溜息を吐いた。


「油断したな」

「っ、う……すみません……夢を、見た気がして……」

「夢? まさか、依頼人が言っていた悪夢か?」

「お、恐らく……内容は覚えていないんですけど、ただ、恐ろしくて……こんなのが毎晩続いたら、気が滅入るのもわかります……」


 表情に疲労を滲ませながら、夢野が語る。

 屋敷で眠ると悪夢を見るというより、屋敷で意識を失うと悪夢を見るようだ。更に屋敷の主は、来訪者を悪夢に捕えるためなら何でもするらしいことも判明した。


「あれ……?」


 蹌踉めきながら起き上がると、愁作は自身が落ちてきた窓を見上げた。何度見ても目を凝らしても、其処にはなにもない。板で打ち付けられた窓があるばかり。


「……待ってください。さっき、僕はあそこから落ちてきましたよね? いったい、この屋敷はどうなって……」


 悪夢に追いつかれる。死にたくない。

 依頼人はそんなことを譫言のように言っていたという。夢野は眠ってもいない上、屋敷の住人でも購入者でもないのにこれほど熱烈な歓迎を受けたわけだが。


「さあな。わかることは、二階は囮だということ。恐らく本丸は地下だろうことだ」

「地下、ですか?」


 そんなものが何処にあったのかと顔に書かれている愁作に、雪乃は「ついてくればわかる」とだけ言って歩き出した。

 向かったのは、勝手口の前にある木製の扉だった。二階へ続く階段の真横にあり、愁作は物置の類だろうと思っていたのだが。

 番が歪み、挿し鍵が外れ掛かった扉を外せば、古びた木製の階段が現れた。


「……この先だ。恐らく手記の持ち主が両方いる」


 両方という言葉に愁作が引っかかりを覚えている隙に、雪乃は階段を降りていた。慌ててあとを追えば、其処は地上の光を一切拒絶した暗い穴蔵だった。

 頭上に申し訳程度の豆電球がついているが、現在は電気が止まっているためそれも役に立たない。階段から差し込む光は部屋の奥までは届かず、薄ぼんやりとした闇が二人を包む。


「ないよりはマシか」


 溜息を吐きつつボディバッグからジッポライターを取り出して、火を付ける。白い手元とその周囲が照らされて、薄暗がりに目が慣れてくると部屋の全容を伺うことが出来た。地下をただ掘っただけの部屋で、壁は土が剥き出しのまま。階段の右手側に小部屋が複数あり、正面にはモルタル作りの簡素な壁がある。小部屋は片方が物置、もう片方が作業部屋のようだった。木工作業を行うための機材がいくつかあり、長いあいだ使用されていない様子が暗がりでも窺えた。

 不動産屋曰くこの屋敷は典型的なアメリカンハウスと似た作りをしており、地下は元々一階で、DIYの作業部屋や車のガレージなどがあった。いまとなっては草木が生い茂っていてわかりづらいが、庭も広くBBQ用の設備もあった。それらを壁ごと埋め立てて車どころか人も遠ざけたのが、初代購入者のバグウェルだったという。

 なにかを封じるように張られていたモルタルは無残にも破られ、人ひとりが通れるほどの穴があいている。丁度穴を開けられた箇所に、なにやら奇妙な紋様が描かれている。赤いインクかペンキで描かれた紋様は壁の破壊によって全体図が把握出来なくなっており、壊した破片も近くに見当たらないことから再現は不可能と思われる。

 そしてその壊れた穴の奥から、煮詰めたような死臭が漂ってきていた。

 恐怖よりなにより不快感が先立つその異臭。キッチンで年月の残酷さを伝えていた果物籠などより余程醜悪な、吐き気を催す死の臭いが二人を手招く。


 雪乃を先頭にして穴の奥へ進むと、其処に腐臭の主がいた。


「ッ……!」


 愁作が口元を手で覆い、眉を寄せた。

 ひと呼吸ごとに、肺を通して全身が腐敗していくような不快感が纏わり付く。いま自分は本当に目を開けて現実の世にいるのかさえ、わからなくなっていく。あれは、あそこにあるは、本当にこの世に存在し得るものなのか。


 愁作の脳内に警鐘が鳴り響く。

 此処にいてはいけない。動いてはいけない。逃げろ。動くな。相反する想いが体を縛り付け、瞬きの仕方を忘れさせ、呼吸さえもせき止める。


 それは、有り体に言うならば異形の化物だった。

 古びた枝のように枯れ果てた細い体。落ちくぼんだ目。ボロボロに崩れた歯列に、殆ど抜け落ちている乾いた髪。腕は六本あり、代わりに足はない。頭部からは奇妙に拗くれた角らしきものが伸びていて、先端から腐臭の漂う液体を滴らせていた。体の至るところに出来た瘤は黄色く膿んでおり、強い死臭は其処からも発せられている。

 およそ生きていていいはずもないそれは、しかし確かに二人を眼球のない昏い目で捕えると機能していようはずもない声帯を低く震わせて、悍ましい唸り声を上げた。

 身につけているのは中世の宗教画で見るような見事な刺繍が施されたローブだが、腐肉や膿がこびりついている上に虫食いもひどく、見るも無惨な有様である。しかも甲虫のような格好で伏せているため、服を着ていようがとても人には見えない。

 化物の周囲は、なにかの祭壇にも思える装飾が施されているが、いまそれを詳しく調べている余裕はない。ただ、此処が全ての根源であることだけは理解出来た。


「……あ……ぁ…………」


 愁作の喉が、意味を成さない音を零す。

 見れば彼は有り得べからざる現象を前に脳の許容を超え、緊張状態となっていた。驚愕に見開いた顔と、面を張り付けたような表情。過呼吸寸前の、浅く短い息遣い。どれもが短期的な狂気症状だ。長引くものではないとはいえ、元凶を前にしたいまは僅かな隙も命取りになる。

 一発殴れば直るだろうが、いまは手間が惜しい。


「向こうを黙らせるほうが先だな。迷惑な老害にはあの世へお引き取り願おう」


 雪乃が敵意を見せると、硬直する獲物を眺めてニタニタ笑いを浮かべていた悪夢の主、アレイスター・バグウェルの成れの果てもまた、明確な殺意を露わにした。

 枯れた舌で呪文を唱え始めたのを見、雪乃は大きく踏み込んで思い切り頭を狙って蹴りつけた。瞬間、異様な抵抗感を覚えたのと共に、それを蹴破ったとも感じた。

 相手もそれを感じ取ったのだろう。ニタニタ笑いを一瞬引っ込めて、赤くギラつく目に怒りを点して雪乃を睨んだ。鋭い視線にも怯まず追撃を加えれば、蹴りの衝撃でバグウェルの体が大きく崩れた。まるで砂壁のように表皮が破れ、くすんだ骨の色が覗く。飛び散った液体のせいで腐臭が増し、空気を汚染していく。

 バグウェルが蜘蛛のような四肢を振り回せばそれを交わし、避けた勢いを利用して蹴りつける。背後に一人守りながらではあるが、相手があまり肉弾戦向きでなかったお陰で充分に戦えていた。


「ふむ……どうやらのほうが強いようだな」


 二度蹴りつけたが、バグウェルは呪文を唱えるのを辞めない。その視線は身動きが取れずにいる愁作を捕らえており、仮に呪文が完成すれば彼は殆ど抵抗出来ないまま悍ましい魔術の餌食となってしまうことだろう。

 聞こえてくる呪文の内容からして、対象を深く眠らせる術のようだ。寝室にあった大量の目覚ましは、嘗ての住人が悪夢を見る度買い足していったものであるらしい。しかしあれだけ集めても、魔術への抵抗にはならなかったと思われるが。


「……チッ、させるか!」


 今一度、鋭い蹴りを放つ。短い風切り音と共に繰り出されたそれを、バグウェルはすんでのところでかわし、にたりと笑った。が、雪乃は僅かも怯まなかった。

 化物と化しているバグウェルに劣らぬ凶悪な笑みを浮かべ、長い白黒の三つ編みを靡かせて、雪乃の白い脚が舞う。


「馬鹿が」


 回し蹴りの勢いのままに体を捻り、もう一撃。

 今度は、バグウェルの異形と化した頭部を的確に捕らえ、振り抜いた。先の追撃を与える連撃とは異なり、今回の攻撃は初撃を囮にする、単純なフェイントだった。


「グギャッ!」


 反応出来ずに力の向くまま蹴り飛ばされた頭部が、祭壇に叩きつけられる。

 声とも音ともつかない耳障りな悲鳴が室内にこだまして、倒れ込むときには2mを超える長身に似つかわしくない軽い音がした。それは、頭部が落ちたときも同様で、枯れた頭の中に脳が詰まっているかも怪しい、パサリという軽い音だった。

 暫く憎々しげに赤い目が雪乃を睨んでいたが、それもやがて、偽りの命の灯と共に消えた。と同時に、バグウェルの頭と体がボロボロと崩れ始めた。

 見る間に風化し塵と化していく様は、外法の術で繋ぎ止めていた命があるべき姿へ還っていくようだ。さすがに化物の塵は吸い込みたくなかったので、雪乃は袖で口を押さえて出入口付近まで下がった。

 バグウェルが塵と消えると共に、目に染みるような腐臭も消えていく。残ったのは締め切った地下室独特の、停滞した湿気と埃の臭いのみ。

 腐敗してまで現世に執着していた悪夢の主は、完全に消え去った。

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