実地型新人研修

「……来たか」


 蔦が這う古い門柱に寄りかかって呟く紅目の少女。

 横目で一瞥する先には、息を切らせて駆けてくる一人の若い男がいた。


「す、すみません! 遅くなりました!」

「心配するな。一応時間前だ」


 膝に手を突いて何とか呼吸を整えると、男は背筋を伸ばしてからお辞儀をした。

 長い前髪が垂れ、隙間から覗く切れ長の左目元には一つ泣き黒子がある。白い肌に薄く汗が浮いており、襟元をネクタイでかっちり締めているせいか、余計暑そうだ。後ろ髪も長く、一本の三つ編みにして背に流している。艶のある黒髪は手入れが良く行き届いており、陽光を反射して天使の輪が出来ていた。

 ブラックスーツを身に纏った姿は、凡そ幽霊屋敷を探索する格好に見えない。


「先日入社しました、夢野愁作と申します。本日はよろしくお願い致します」

「よろしく。私は綾辻雪乃。一応所長に並んで最古参になる」

「えっ」


 驚き目を丸くする男――愁作を視線だけで見上げ、雪乃は目を眇める。


「なにか?」

「ええと、うちは明治時代から続いている会社だと伺ったのですが……」


 聞き間違いか、それとも冗談のつもりかと思いつつ問えば、雪乃はさして気にした様子もなく「ただの事実だ」と答えた。


「当時はバイトなんてものも殆どなかったからな。中卒の働き口なんざこういう裏口ばかりだ」


 信じられない気持ちで見下ろす愁作から目線を外して敷地内に入りながら、雪乃はぐるりと周囲を見回した。


「なにはともあれ大卒様からしたら中卒なんて格下だろうが、此処では私が先輩だ。不本意だろうと従ってもらうぞ」

「あ、いえ、そんなつもりは……」


 正直な話、愁作は自身の学歴を誇りこそすれど、他者の学歴がどうであろうと己を上にも下にも置いたことがなかった。社会に出れば学歴など履歴書を飾るスタンプのようなものでしかないと知っていたし、ホワイトカラーの一流大企業ならともかく、探偵事務所では実力が物を言うのだから。

 愁作が言いたいのは、五十年前に出来た探偵社に中卒で入ったということ。そして目の前にいる人物が、どう見ても還暦越えの人間ではないどころか十代の少女にしか見えないこと。

 しかし女性の外見に関してあれこれ訊ねるほど無神経に出来ていない愁作は、気を取り直して意識を目の前にそびえる屋敷へ向けた。


「これが、悪夢を見るという屋敷ですか。確かに雰囲気はありますけど……」

「病院案件かどうかは調べればわかることだ。行くぞ」

「は、はい……!」


 雪乃に続いて、愁作も玄関扉へと向かう。

 相談者から鍵を受け取っていたお陰で、正面から堂々と入ることが出来た。調査の対象によっては所員に鍵開けを頼むか窓を割らなければ入れないこともあるのだが、不法侵入の憂いがないのは心情的にも手間としても助かるというもの。

 扉を開けた先には奥へと廊下が延びており、左右にいくつか扉が見える。


「扉の間隔からして、此方が居間だろうか」


 玄関から見て右側の扉を雪乃が開けると、中は広々としたリビングだった。

 ダイニングキッチンと一間続きになっており、平時であれば明るくて雰囲気の良い空間だっただろう。だがいまは窓が全て打ち付けられている上、家具にも床や壁にも埃が積もり、其処ら中に蜘蛛の巣が張り、とても寛げる状態ではない。暖炉には灰か埃かもわからないほどくすんだ塵が山と積もっており、ロッキングチェアにかかっている膝掛けも埃塗れになってしまっている。

 ダイニングテーブルの上にはフルーツバスケットが乗っているが、全て腐り切ってグズグズに崩れ、甘ったるい異臭を放っている。キッチンも同様に、流しに置かれた食器も調味料棚も、恐らくは電気の通っていない冷蔵庫の中身も。

 此処にあるもの全てが、時の流れを残酷に伝えている。


 ふと、愁作がついてきていないことに気付き、雪乃は背後を振り向いた。


「……どうした?」

「どうって……良くそんなもの調べられますね……」


 愁作が青い顔をして見つめる先には、天井から滴り落ちる赤い雫と、それを全身で浴びて死んでいる虫の残骸があった。一般的に嫌われることが多い黒光りする家庭内害虫の上半分が転がっており、その特徴的な触角のせいで遠目でもわかってしまったらしい。


「ああ、これか。どうもこの家、二階にも水場があるらしいな」


 水どころではないものが滴っていることには触れず、雪乃が天井を見上げる。

 ぽたりぽたりと一定の間隔で生臭い水が落ちる床には、腐敗した赤黒い水たまりが出来ている。そのせいで周囲の床が腐食し始めており、傍にはネズミの死骸も落ちている。わざわざ開けて見るまでもなく、汚水が染みているシンク下の棚や床下収納は更にひどい有様だろうと想像させた。


 雪乃が一度リビングまで戻ると、愁作が難しい顔をして飾り棚を見ていた。棚には陶器のマリア像や十字架、仏像や神棚に飾る札などが所狭しと並んでおり、和洋折衷どころではない雑多な有様となっている。よくよく見れば、最近詐欺で団体の幹部が逮捕起訴された新興宗教の名が刻まれた金色の仏像に似たなにかもある。作りが雑でメッキも安っぽく、顔も子供が作った粘土細工レベルであまりにお粗末だ。しかし、こんなものにも縋りたくなるほどのことが起きたのだと思えば、騙したほうを愚かと思えど騙されたほうを糾弾する気にはなれない。


「これ、前の住人のものでしょうか……? 随分と、その……節操がないというか、片っ端からという感じがするのですが」

「それだけ必死だったんだろう。結局神とやらは救ってくれなかったようだが」


 苦々しげな顔をして呟き、リビングを出る。

 正面の扉を開けると、中は雑物置き場となっていた。

 最奥にはかつてはクローゼットだったと思しき埃塗れの棚があり、板で打ち付けていたのを無理矢理こじ開けたような跡がある。折れた箒や前輪だけとなった自転車、なにかに使うつもりだったと思しき板が数枚に、スプリングが飛び出たソファなど。とにかく捨てるに困ったものを片っ端から此処へ収めていたようだ。

 壊れた自転車の前に冊子が三冊落ちていて、近付いて見てみれば、どうやら個人の手記のようだった。裏表紙の内側にサインが書かれており、うち二冊はバグウェルという異国の人物のもの、一冊は野中智という日本人のもののようだ。

 軽く見比べたところ、野中智は探偵であり、此処を彼が訊ねたときにバグウェルの手記を見つけ出した。そして手記から役立ちそうな情報を書き出そうとしたところでなにか不測の事態が起き、一端手記を放り出して対処に向かったのだろう。

 明らかに書き写す途中とわかる半端な書き損じが、ページに残っていた。何らかの魔術が屋敷に施されていることは間違いなさそうだ。


「バグウェル氏というのは、此処のだいぶ前の住人ですよね?」

「ああ。問題は此処でなにが起こったかだが……」


 そう、雪乃が呟いたときだった。


「うわっ!?」


 二階でけたたましい音がして、愁作が思わず声を上げた。

 更に続けて、なにか硬いものを手当たり次第放り投げているような音が響く。時折窓が割れるような、硝子の砕ける音もする。


「誰か、入り込んでいたんですか……?」

「行ってみればわかる」


 ボディバッグに三冊の手記を無造作に詰め込みながら、雪乃は廊下を進んだ。

 雑物置き場の隣は、事前にもらっていた地図が確かなら浴室とトイレであるはず。行きがけに扉を開けて覗いてみたが、ひどく汚れている以外の異変はなかった。

 突き当たりの階段を上って行くと、まずトイレがあった。扉は何処かへ消えているようで、用を足す姿が丸見えとなる仕様になってしまっている。そして水漏れの主は血だまり噴水と化した便器だった。下水から上がってきているのか、それとも超常の力が働いているのか、壊れたウォシュレットのような有様である。

 トイレを調べようにも異音がうるさいため、二人は通りすがりに横目で見るだけに留めて、まずは謎の物音を調査することにした。


「此処か」


 トイレの隣に扉が開け放たれたままの主寝室があり、異音は其処でしつこく響いていた。だが、部屋を覗いても中には誰もいない。

 暫くすると、二人が見ている前で音がピタリと止んだ。室内を見てもなにか壊れたものがある様子はない。窓も一階と同じく打ち付けられていて、割れた硝子が落ちているということもない。

 室内に寝具はなく、此処で一泊した不動産屋の男が使用した真新しい寝袋が半端に開いたまま中央に転がっているのみ。当然、寝袋が勝手に歩き回ったわけでもない。

 ただ、異様なものは確かにあった。


「何ですか、これ……?」


 愁作が、信じられないと言いたげな声を漏らす。

 室内にはぎっしりと隙間なく目覚まし時計がひしめいていたのだ。大小様々、音が連続して鳴るもの、止めるまで徐々に大きくなっていくもの、スマートフォンと連動するデジタル時計、一度止めても数分後にもう一度鳴る二度寝防止機能がついたものなど。寝袋を取り囲む形で並んだ時計は、全てがその寝袋を『見つめている』ように盤面を向けていた。


「さっきまで鳴っていたのは、これですよね……?」


 愁作は屈んで一つの目覚まし時計を手に取ると、小さく呟きながらふらりと室内に入り、辺りを見回した。


「おい、勝手に動くな」

「そんなはずは……なにか仕掛けがあるんでしょう? 目覚まし時計なら時間設定が出来るんですから、調査時刻にあわせるとか……」


 雪乃の制止も聞かずふらふらと部屋の中央に進む。その度に足元の目覚まし時計が押しのけられて、ガチャガチャと耳障りな音を立てながら重なり合っていく。すると足蹴にされたことを怒ったかのように目覚まし時計が一斉に鳴り出した。と同時に、部屋の中を凄まじい腐敗臭が満たす。釘で打ち付けられているはずの窓が、バンッと激しい音を立てて開いた。


「えっ……?」

「夢野、戻れ!」


 雪乃が叫び、愁作が振り向く。が、遅かった。


「っ!?」


 見えないなにかに首根っこを掴まれて放り投げられるような格好で、夢野は窓から落下していった。

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