京極探偵事務所の超常的日常譚

宵宮祀花

夢魔の棲む家

追い縋る悪夢


「――――悪夢に追いつかれる、ですか」


 応接室には普段から様々な匂いが漂っているが、いまは客人に出された珈琲の渋く苦味を帯びた香りが充満している。書棚に整然と並ぶ本の匂いも、先日咲いた部屋の片隅を彩る観葉植物の香りも、上品なアンティーク家具独特の、落ち着いた匂いも。全てが鳴りを潜めて、静かに応接室という空間の維持に徹している。


 そんな中、真剣な顔をして向かい合う男が二人。

 一人は憔悴した様子で話す、よれたスーツ姿の男。年の頃は三十代半ばほど。だが目元に浮かぶ隈や手入れを怠っている髪のせいで、五歳は老けて見える。

 もう一人はゆったりと構えて客の話を聞いている男。上等な黒いシャツとベスト、ダークカラーのスラックスを着こなしており、一見しただけである程度の地位を持つ人間だとわかる出で立ちをしている。

 それもそのはず。誰あろう、彼はこの探偵事務所の所長なのだから。

 相談者のほうはどうやら纏まらないまま話しているようで、先ほどから「悪夢が」「何日も眠れていない」「寝るとあれに追いつかれる」と繰り返すばかり。時折思い出したように「警察は相手にしてくれなかった」「上司の命令で一泊したが、二度とごめんだ」と酒の席のように愚痴をこぼすが、すぐまた錯乱状態になってしまう。


「本当に……本当に見たんです……覚えていないだけで……あ、悪夢が……恐ろしい悪夢が……もうすぐ追いつかれる……俺は死にたくない……」


 俯き頭を抱えて訴える声は、殆ど涙混じりになっている。大の男が啜り泣きながら「もの凄く怖い夢を見た」と怯える様を、所長は優しい表情で、しかし決して馬鹿にしたふうではなく真剣に見守っている。

 男は不動産業者に務めており、会社が抱えるシェアハウス用に改装ようとしている屋敷に、妙な問題が発生したのだという。

 何でも住人が次々昏睡状態となり、ゆっくりと衰弱しているのだとか。最初はこの男のように悪夢を訴え、徐々に眠る時間が延びていく。目覚めたときは恐怖によって心臓が早鐘のように打ち鳴らされ、冷や汗が溢れ、呼吸が荒くなっている。だが夢の内容は覚えていない。ただただ恐ろしかったという強烈な感覚だけがある。そうして眠ること自体に恐怖を覚えるようになった頃、今度は目覚めなくなるというのだ。

 恐らくそれが『悪夢に追いつかれた』状態なのだろう。

 住人のみならず、家を独断で購入した相談者の上司も昏睡状態となっており、彼がどんなルートで入手したのか知ることも出来なくなってしまったという。


「……なるほど、わかりました。此方で調査致しましょう」


 穏やかな声でそう告げた途端、相談者は弾かれたように顔を上げた。


「ほ、本当ですか……?」

「はい。つきましては、此方が依頼料となります。ご納得頂けましたら此方に押印とサインを……」


 テーブルの上ですっかり冷めた珈琲の横に、一枚の書類が並べられる。

 依頼料、前金、成功報酬などの文言が並んだそれを、果たしてしっかり読んだのかどうか。話が終わるより先に、相談者は了承のサインをした。

 もしも此処が悪徳金融業者だったなら、大変なことになりそうな振る舞いである。


「で、では、こ、こ、この、此方が、前金で……あの、お、お願いします……」


 ガタガタと憐れなほど震える手で差し出された封筒を受け取り、中身を改めると、所長は「確かに」と答えて立ち上がった。


「進捗がどうであれ、明日の昼頃には必ず一度ご連絡致します。更に調査が続くようでしたら、そのとき改めてお話し致しますので」

「はい……はい、よろしく、お願いします……!」


 何度も何度も頭を下げながら、相談者は帰っていった。


「所長、依頼ですか」


 相談者と入れ違いに、一人の少女が応接室に入ってきた。

 右側を黒、左側を白に染め分けた長髪を三つ編みにして右肩に流した髪型と緋色の瞳が特徴的だ。衣服は暗赤色のシャツに細い黒のリボンタイ、サスペンダーがついた黒のハイウエストパンツを合わせている。首にはハートの金具がついたチョーカーをつけており、その下に蜘蛛の巣のタトゥが見える。

 彼女は二人に珈琲を入れに一度部屋を訪れたあと外で待機していたのだが、防音が効いた壁を隔てていたため一連の会話は聞けていない。


「ああ。どうも彼の勤める不動産屋で管理している屋敷で眠ると悪夢を見るらしい。一度見ると、その後は何処で寝ようとも同じように悪夢を見続けるようだね」

「なるほど。……で、誰を向かわせるんです?」


 少女の問いに、所長は暫し考え込んでからにっこり笑って。


「そうだね。そろそろ頃合いだろう。愁作くんと行ってきてくれないか」


 そんな予感はしていた。と表情に出しつつ、少女は頷く。


「……わかりました。連絡は入れておいてください。現地で合流します」

「任せておくれ。行ってらっしゃい」


 笑顔で手を振る所長に向けて静かに一礼して、少女は応接室を出た。


 京極探偵事務所は、余所で断られた案件を取り扱う探偵社である。

 やんわりと精神病院を薦められたり、鼻で笑われたりするような、端的に言うならオカルト案件ばかりを請け負っている。

 先ほどの相談者のように心身共に弱り切った人間が最後に縋る場所でもあるため、相談の内容もまた、耳を疑いたくなるような現実離れしたものばかり。だがそれらが全て狂人の妄言であるなら、京極探偵事務所は今頃とうに廃業しているはず。

 有り得べからざる超常の世界は、案外と隣人の顔をして日常に紛れているのだ。


 そしてそんな事務所で所員として勤めている人間もまた、超常に片足を突っ込んでいる者が大半である。


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