生還の誉れ

 元凶の消失を見届けてから、雪乃は背後で不出来なオブジェのように固まっている愁作を振り返り、横っ面を軽く引っぱたいた。

 鉄火場では手加減一つするのも難しかったが、いまなら落ち着いて殴れる。意識が戻らないようならもう片方もと手を振り上げたところで、視点の定まらなかった目にフッと意思の光が宿った。


「いっ……! あ、……え……?」


 要領を得ない声をあげつつ辺りを見回す愁作が、ヒッと短い悲鳴を上げた。今度は何だと思って視線の先を追えば、部屋の奥に男の死体が一つ転がっている。無造作に投げ捨てられた形で落ちているそれには、死者に対する敬意も尊厳も感じられない。


「ああ、やっぱり此処にいたのか」


 すっかり萎縮している愁作に代わって死体を検分すれば、案の定。懐から財布やら携帯やらの個人情報がまろび出てきた。財布と一緒に名刺入れも入っており、見れば一階に落ちていた一冊の手帳と同じ名前が記されている。

 雪乃たちと同様、地下に元凶がいると踏んで乗り込んだはいいものの、返り討ちに遭って憐れな餌にされたのだろう。もしかしたら、バグウェルの手記にあった魔術の類を、単なる病んだ年寄りの妄言と決めつけていたのかも知れない。

 野中の死体は無数のガラス片を飲み込んでおり、目は恐怖に見開いていた。口内はガラスでズタズタになっていて、途中で正気に返ったのか喉を引っ掻いた跡もある。バグウェルはそんな彼の様子も嘲笑い、最後にはその命を食らったのだろう。野中の顔には何日も眠っていない人のような、濃く黒い隈がくっきりと刻まれていた。


「先輩。壁際になにか落ちてます」


 愁作に呼ばれて向かうと、丁度バグウェルを叩きつけた場所に赤い石のブローチが落ちていた。血を煮詰めて作ったと言われても信じてしまいそうなとろりとした深い赤色が美しい宝石を、金の装飾が縁取っている。

 バグウェルが虫のように伏せていたため見えなかったが、どうやらローブの胸元につけていたらしい。


「……ふむ。悪い物ではなさそうだ。持ち帰って調査しよう」

「えぇ……」


 次々訪れる超常現象に追いつけていない様子の愁作を余所に、雪乃は周囲を改めて見回した。中央にはバグウェルの寝床と思しき木製の祭壇があり、奥には小さな机が一つある。書き物机というよりは、花瓶や装飾品を飾っておくような二十センチ四方程度の正方形の机だ。祭壇の四方には燭台があるが、蝋燭は何年も前に溶けきって、崩れた蝋の跡だけが残っている。

 机の上には古い紙が乗っており、下手に触れると此方も塵と化しそうだった。壷も燭台も装飾が剥げていて、所々無機物にあるまじき腐食が見える。

 そして一番の特徴は、祭壇全体を覆う天蓋だった。内側が星空になった、天鵞絨で作られた立派な天蓋。貴婦人のベッドにでもあれば雰囲気があっただろうが、これは残念なことに地下の怪しい儀式の間にかかっている。


「こういうのは薔花さんのほうが得意なんだよな……」


 渋りつつ古紙を開いてみれば、中身は占星術に使う盤面のような絵図だった。

 しかし、それがなにを意味しているのかまではわからず、また、此処で調べている時間もないため、雪乃は慎重に開いた状態で愁作に写真を撮らせた。


「よし、撤収する」

「は、はい」


 悪夢の主を常夜に帰し、二人は暗い地下から地上に出た。

 腐臭のしない新鮮な空気を吸い込み、溜息と共に吐き出す。死に塗り潰された肺が生き返る心地だった。

 ふるふると頭を振り、髪についた死臭を剥がそうと試みる。ジャケットもはたいて埃と臭いをはたき落とし、いつもは服に臭いがつくのが嫌で避けていた中華料理屋の排気口傍を、わざとゆっくり歩いて抜けた。死臭をニンニクで上書きするのは化物に魔物をぶつけるようなものだが、どちらがマシかとなれば言うまでもなかった。


「あの……」


 そうして帰路につく道すがら、ふと愁作が口を開いた。

 足を止めて隣を見れば、落ち込んだような表情で雪乃を見下ろしている。


「すみませんでした。俺、何のお役にも立てなくて……」


 実際愁作は、雪乃のあとについてきただけだった。キッチンには入らずリビングで立ち尽くし、二階では敵の罠にはまって落下し、地下では恐怖で固まったままなにも出来ずに終わった。

 探偵としての仕事ぶりを採点するなら間違いなく零点だろうが。


「初仕事で生きて帰ったなら上等だろう」


 この探偵事務所は、超常現象や異常の存在を相手にする。

 一歩間違えば野中探偵の二の舞になってもおかしくない世界にある。そんな中で、大きな後遺症もなく生還したのだ。問題なく及第点と言える。


「あとは、一ヶ月続けば……だな」

「そ、そんなに離職率高いんですか……」


 再び歩き出しながら、雪乃は「理由はもうわかっているだろう」とだけ言った。


「…………そう、ですね……」


 わかっている。あんなものと日常的に対峙しなければならないなら、多少退屈でも猫探しや浮気調査をしているほうがいいに決まっている。実際に、刺激を求めてきた者もオカルトを否定的に見て侮っていた者もいたのだろう。

 愁作もほんの数時間前までは、屋敷で眠るだけで悪夢が追ってくるなどと大袈裟な言い方をされていても、単なるモスキート音やシミュラクラ現象を勘違いして勝手に怯えていただけだろうと思っていた。

 それが全くの誤解だと身を以て思い知る羽目になろうとは予想もしていなかった。化物を前にしたときの感覚も、悪夢から覚めたときの感覚も、どちらも同じ。未知に対する根源的な恐怖だった。


 前方に探偵事務所が見えてきた。

 雪乃は数歩前に出てから足を止め、愁作を振り仰ぐ。


「逆に言うなら、逃げるならいましかないということだ。身に染みていると思うが、あの手の輩を相手にぼうっとしていたら一瞬で刈り取られるのが常だ。残念ながら、私はいつでも守ってやれるわけじゃない」


 子守は最初で最後だと付け足せば、愁作はぐっと目元に力を入れて雪乃を見た。


「……今日見たものは、現実なんですよね」

「ああ」

「俺の見間違いでも幻覚でもなく、屋敷の前住人が仕掛けた悪意ある罠でもなく……あんなものが、当たり前に存在しているんですよね」

「そうだな」


 揶揄っているふうでもなく、至極淡々と、雪乃は愁作の問いに答える。

 大きな緋色の瞳は僅かも揺るがない。大学で囓った程度の心理学でもわかるほど、雪乃の心は凪いで見える。

 嘘を言ってはいない。都合の良いところだけ切り取って答えているわけでもない。即ち「動いて喋り、悪意を接着剤にして虫と人を混ぜたような、悍ましい化物が存在している」という、信じ難い真実が肯定されたのだ。

 科学万能のこの時代に化物だなどと、数日前までの愁作であったなら一笑に付していたことだろう。けれど、最早グズグズと言い訳を重ねる余地もなくなった。

 この目で見て、肌で感じたあの恐怖は、紛れもなく現実だったのだから。


「そうですか……」


 雪乃に続いて探偵事務所の扉を潜る。

 それが、雪乃の「逃げるならいまだ」という言葉に対する、愁作の答えだった。

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