第16話 初殺人

 *


「ったく……なんでこんなことに」


 ディラン・ジョンソンはアパートの一室で、頭を抱えていた。

 彼が強盗殺人事件を起こしたのはつい三日前。酒代欲しさにある商店を襲った時の出来事だった。殺す気はなかったのだ。ただ、金を奪うだけ。しかし、ちょっと目を離した瞬間、店員の男は反撃をしてきた。その際に、誤って発砲してしまった。


 我ながら、バカなことをしたと、今更になって彼は反省していた。せっかく二十年もの時を過ごした忌まわしい刑務所からおさらばしたというのに、娑婆に出てまた一週間で送り返されようとしている。しかし、幸か不幸か、彼にもまだ運気が残っていた。

 実はつい先日、刑務所で知り合ったブローカーの男と連絡を取ることに成功したのだ。あと数時間で彼が手配した出航する船に乗り、国境を超えることができれば――まだチャンスはある。


「フーッ。フーッ。オーケー、大丈夫、大丈夫」


 ディランはうわごとのように、ぶつぶつと自分を鼓舞する言葉を唱えている。

 実は彼、今から数十分前に麻薬コカインを摂取していたのだが、粗悪品ということもあり、悪酔いバッドトリップを起こしていたのだ。気分転換のためにブローカーの男から勧められたものだったが、かえって不安や焦燥感が何倍になって襲ってくる。まさしく、最悪の気分を味わっていた。


「……ん? なんだ?」


 その時、ディランはある異変に気付く。

 なぜか、部屋が――霧が発生したかのように、霞んでいたのだ。一瞬、火事の煙かと思ったが、それにしては異臭は一切していない。


「な、なんだこれ……?」


 山中にでも迷い込んだかと疑うほどに、霧は濃くなっている。まさか、薬の影響で、幻覚でも見ているのだろうか。とりあえず、窓を開けて換気でもしようと、ディランは立ち上がる。

 刹那、彼の視界が揺れた。


「うッ――⁉」


 突然、空気中の酸素が突然消えたかのような窒息感が、ディランを襲った。そのまま立っていられなくなり、床に倒れこむ。


「な、んだ……こ、れ……」


 まったくもって、何が起こっているのか分からなかった。異常に息が苦しい。まさか、これも薬の影響なのだろうか。


「あ、の野郎……い、今すぐ、ぶっ殺して……!」


 ディランの心中はブローカーの男に対する敵意で溢れていた。いい加減な男だとは思っていたが、まさかこんな粗悪品のコカインを掴ませるとは……もう船は手配してある。

 つまり、ここでやつを始末しても、何も問題はない。既に一人は殺してしまっているのだ。もう一人増えたとしても、そこまで大差はないだろう。


「こ、殺して――や――」


 しかし、ここでディランの意識は途絶える。もう彼が二度と目覚めることはなく、永遠の闇の中へ、その身を捧げた。


「――よっと」


 ディランが絶命して数十秒後、室内の霧が晴れると同時に、突如としてミラムが姿を現す。


「死んだ?」


 生死を確認するために、ディランの脇腹に蹴りを入れる。僅かな呼吸音が、彼の口元から零れた。


「ちっ。まだ生きてるの。まったく、どうしてこうもクズってのはしぶといんだろうね。ま、いいや。どうせ血は吸うし」


 そう言うと、ミラムは口を開き――倒れているディランの首元に噛み付いた。


「んっ……んっ……」


 彼女が喉を鳴らすたびに、徐々にディランの顔面が青ざめてゆく。そして、十秒も経たないうちに、彼は失血死により、絶命してしまった。


「ふう……まっず。こいつ、直前にキメてやがったな。これだからヤクチュウって嫌い」


 悪態を吐きながら、ミラムは玄関へと向かい、内鍵を外した。


「はい、終わったよ」

「……まさか、これほどまでとは。本当に、霧になれるのか」


 外で待機していたスミスは部屋の奥で亡骸と化しているディランを発見し、驚愕の声を漏らす。


 ミラムが所持する吸血鬼の力。それは自身の肉体を霧へと変化させるものだった。


 はっきり言って、暗殺という分野において、これ以上の能力はないだろう。粒子状に分解された肉体はどのような密閉空間にも侵入することができる。更に、先ほどのように、人間の呼吸器官にまで入り込めば、抵抗をされることなく、速やかに静かに殺すこともできる。

 攻撃性能のみならず、防御においても特出している。霧という実体がない相手ではいかなる武器も意味をなさない。まさしく、攻防一体の無敵形態。ドロティアがあそこまで信頼を置いていたのも納得できた。


「ほら、ぼさっとしてないで、さっさとそいつを袋に詰めて」

「あ、あぁ」


 スミスは手に持っていた死体袋にディランを収納する。


「しかし、これを持って外に出るのは目立たないか? 誰かに見られたら、どうするんだ」

「その時は私の力で記憶を消すから、へーきへーき」

「……人の記憶まで消せるのか。つくづく、吸血鬼というものは恐ろしいな」

「でっしょ~?」


 褒められて上機嫌になったのか。ミラムはふんと鼻を鳴らす。


「他にも、私は写真や監視カメラとかの情報媒体に姿が映らないし、しかも最終手段として――」


 ガチャリ


 ミラムが自慢話を始めたまさにその時、室内で――扉が開くような音が響いた。咄嗟に、二人は背後を振り向く。


「おい、さっきからやかましい――ん? 誰だ、お前ら」


 水が流れる音と共に、トイレと思わしき部屋から現れたのは――顔にタトゥーを掘っている人相の悪い男だった。


 実は彼はディランに逃走用の船を手配したブローカー張本人である。出発まで残り数時間ということで、付き添いも兼ねて、一時間前からこの部屋にいたのだが、ちょうどミラムが侵入してくる寸前のタイミングでトイレに行っており、姿を消していたのだ。


 その突然の来訪者に、一瞬、室内の時間が止まる。三人は互い顔を見合わせ、目の前の相手が誰なのか、様々な可能性を巡らせていた。


「――ッ⁉ う、動くなぁ!」


 先に動いたのは――ブローカーの男だった。

 彼は本能的に、目の前にいる男と少女が只者ではないということを察した。実際に、二人は人間ですらないのだから、その勘は正しい。

 即座に懐から拳銃を抜き取り、二人に向けて構える。


「なっ――」


 その動作で、ミラムは遅れて、目の前の男がディランの仲間だということに気が付いた。

 厄介なことになってしまった。拳銃程度の武装なら、この男を殺すのは造作もない。しかし、場所が問題だ。

 見るからに安アパートのこの建築物の壁はだいぶ薄いだろう。もしも、彼が発砲してしまったら、まず間違いなく……銃声がアパート中に響き渡る。


 ミラムが使える記憶を消す術は催眠に近いものだ。一対一ならともかく、不特定多数を対象にすることはできない。つまり、ここで発砲されるのは非常にまずい。暗殺が露見してしまう。

 どうにかして、男が銃撃をする前に、行動不能にする必要がある。こうなったら――〝最終手段〟を使うしかない。ミラムが合図を出そうとした瞬間、それは起こった。


 シュンッ


 突如、ミラムは背後から突風を感じた。

 否、その正体は風ではない。彼女の後方にいたスミスが全速力で室内を駆けた際に発生した衝撃波だ。

 そして、目にも留まらぬ速度でブローカーの男に接近したスミスは彼が反応するより先に、その首を掴み――軽く曲げた。


 ボキッ


 骨が軋む音が響く。ブローカーの首は九〇度折れ曲がり、自分に何が起こったのか、理解できぬまま、彼は絶命した。


「…………へ?」


 その光景に、ミラムは困惑の声を漏らす。彼女もまた、何が起こったのか分からなかった。


「え……ちょ……な、何してんの?」

「……首の骨を折った。これなら、騒がれることもないだろう」


 スミスはベッドの上にブローカーの男を放り投げる。既にそれは意思のない肉の塊と化していた。


「い、いや……そうじゃなくてさ。ただ見られただけなら、記憶を消すだけでいいんだけど。何も、殺さなくても……」

「あの男は銃を構えていた。いつ発砲してきてもおかしくなかったはずだ。それに……」


 ちらりと、スミスは死体へと目線を移す。


「……恐らく、こいつは殺しても問題ないだろう。そこの袋の中にいる男の仲間ならな」


 顔から首まで伸びたタトゥーに加えて、拳銃を携帯していたことから、スミスはその男を本能的にディランの同胞、殺しても何も問題はない区分の人間だと判断した。

 実際に、その直感は正しかったと言えるだろう。彼が殺害したブローカーの男は数年前に出所していたが、現在でも裏社会にかかわる仕事をしており、多くの犯罪者を国外へ逃がしてきた実績がある。ここで始末しておかなければならない人間だった。


「そりゃどう見ても一般人の顔つきじゃないけどさぁ……普通、即殺す? お前、今日が初仕事でしょ」

「……おかしいか?」

「ちょっと、ね。ま、まあ……いいや。結果的には無事に終わったし」


 予想外の事故アクシデントはあったが、これにて任務は終了。あとは死体を回収し、店に戻るだけ。しかし――ここで、問題が発生した。


「あれ、でも……こいつの死体はどうしよう」


 そう、用意している死体袋は一つだけ。しかし、現在は余分に死体が増えてしまった。

 さすがに、丸裸のまま運ぶというのは抵抗感がある。どうにかして、収納する必要があるだろう。


「……いや、入んないな。これ」


 やはり、二人を入れるというのは無理がある。どう詰めても、ディランかブローカー、どちらかの死体は諦めるしかない。


「うーん。一度、車まで運んで、袋から出して、また戻ってくる? でも、結局は袋が足りないんだよなぁ。トランクに入るかすら怪しいし」


 ブローカーの体格が大きいということもあり、そもそも、車のトランクに二人分を詰め込めるのかという問題もある。そうなると、死体とドライブすることになるが――さすがに、これは見逃せないリスクを背負っている。

 ミラムが頭を悩ませている一方で、スミスはじっと、ブローカーの死体を眺めていた。そして、ごくんと――喉を鳴らす。


「……ちょっと、いいか。提案がある」

「ん? なに?」

「そこの男を……俺がというのはどうだ」

「……え?」

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