第4話 怪物
「ここよ。入って」
女はやけに古びた建築物の前に止まり、鍵を取り出して扉を開く。どうやら、ここは古本屋らしい。店内に入ると、本棚に積まれた大量の本と、若干のカビの香りが男を出迎えた。
女は奥の客人用の応接室へと男を案内した。指示されるがまま、男は目の前のソファに腰を掛ける。
「紅茶で良かったかしら」
「……あぁ」
テーブルの前には女が用意した二つのカップが置かれた。腹の足しにはなると思い、男は一気に紅茶を半分近く飲み干す。
「そろそろいいだろう。俺について知っていることを話してくれ」
「そうねぇ。じゃあ、教えてあげるわ。あんまり、ショックを受けないでね」
女はカップから口を離し、男と目を合わせる。
「アナタ……もう死んでるわよ」
「…………は?」
「もう人間じゃないの。だから、一目で分かったのよ」
男は頭が真っ白になった。目の前の女が、何を言っているのか理解できなかったのだ。
もう死んでいる? それはどういう世迷言だ。実際に、自分はこうして動いているじゃないか。ゾンビ映画じゃあるまいし、現実の世界で死者が蘇ることはない。
まさか、この女は――この期に及んで、からかっているのか。
「信じられないって顔ね。ま、無理もないわ。じゃあ、証拠を見せてあげる」
そういうと、女は懐から、何かを取り出した。
それは照明に反射し、純黒に輝いており、一瞬、判別ができなかったが……すぐに、その正体が分かった。
「なッ――」
男は身構えるが、その動作より先に、女の人差し指が動く。
パンッ
乾いた破裂音が、応接室に響いた。
女が男に構えたのは――拳銃だった。そして、彼女は何の躊躇もなく、男に向かって発砲した。この至近距離では回避する暇もない。銃弾は男の胸元に着弾し、その衝撃で彼は倒れる。
「ほら、立ちなさい。このぐらい、屁でもないはずよ」
「…………ッ⁉」
男は自分が意識を失っていないことに気付く。
視界には天井が写っているが、間違いなく、まだ彼は生きていた。胸を撃たれたにもかかわらず。
「な、これは……」
咄嗟に、男は傷口を確認する。そこには――驚愕の光景があった。
「ね? これで分かったでしょ。アナタはもう死んでるのよ。今のアナタは動く死体。だから、銃で撃たれた程度じゃ死なないし、すぐに傷も治る」
確かに、男の胸には銃痕が残されていた。しかし、抉れている周辺の肉がうねうねと自我を持つように動き出しており、既に半分程度はその肉によって補修工事ならぬ補肉工事で埋められている。このような再生力は明らかに人間を超えている。
一体、自分の身体はどうなってしまったのか。これでは本当に……動く死体。化け物だ。男の心中では困惑、恐怖、驚愕といった様々なものが入り乱れており、感情の荒波に吞まれそうになってしまった。
「……俺は、本当に死んだのか」
「えぇ。間違いなく」
「……なぜ、俺が死者だと分かったんだ」
「ま、分かる人には分かるわ。独特の気配ってやつね。普通はアナタみたいな死人は人目を避けて、隠れて暮らしているのに、あんな堂々と駅の前でウロウロしているんですもん。よっぽどのバカか、蘇ったばかりで記憶が混濁しているか。その二択だとは思ったわ」
彼女の予想は見事に的中していた。
「……俺のように、蘇る死者は他にもいるのか」
「えぇ。確率的にはとても珍しいけど、アナタのような境遇の人はたまにいるわね。死んだ人間は大まかに分けて、二つの分類があるわ」
女は人差し指と中指を突き立てる。
「まず、
女は中指を折りたたむ。
「で、二つ目が
その言葉に、男は瞼を僅かに動かし、反応する。
他殺。彼が目覚めたのはゴミ山の上だった。自分は――あの場所で、誰かに殺されたのだろうか。
「怪物の特徴はその身体能力ね。主に再生力や筋力が人間のそれとは比較にならないほど強化されてるわ。ただ、実体があるから、頑張れば人間でも殺せちゃうのよね。簡単に言えば、ジェイソンみたいな感じかしら」
「……筋力、か」
そう呟くと、男は目の前にあるカップの取っ手を少しだけ――力を込めて握った。
刹那、パリンと、何かが割れるような軽快な音が鳴る。男の手には綺麗に毟り取られた取っ手部分が握られていた。
「……なるほど。確かに、怪力だな」
「ちょっと、勝手にカップ壊さないでよ」
男は取っ手のないカップを握り、残った紅茶を全て飲み干した。そして、大きく深呼吸をして、気を落ち着かせる。
「……一つだけ、聞きたいことがある」
「何かしら?」
「この……頭。髪が抜けているのも……その怪物化による副作用なのか」
「いいえ、それは違うと思うけど」
男の問いに、女は即答する。
「…………あぁ、そうか」
それを聞いて、彼はどこか――儚げな表情を見せた。
「まあ、ショックなのは分かるけど、そんなに悲観しなくてもいいんじゃない? 見方を変えれば、アナタは超人になったのよ。第二の人生を楽しんでもいいと思うけど」
落ち込む男に対して、女は慰めの言葉をかける。
「……どうすればいいんだ。俺はこれから。名も、故郷も、家族のことも忘れて、化け物として蘇ってしまったんだぞ。そのまま死んだ方が、まだマシだ。髪も抜けてしまって……この有様だ」
「だから、髪が抜けたのは前からだって。でも、まあ確かにそうねぇ。記憶を失ったままだと、色々不便よねぇ」
十秒程度、女は男の顔を眺め、何か考える素振りをする。果たして、それが彼に対する同情なのか、それとも打算的な思考があったのか。その答えは彼女自身にしか分からない。
「いいわ。じゃあ、とりあえず落ち着くまで、ここに住まわせてあげる」
にっこりと、女は男に向けて、笑みを浮かべた。
「……いいのか」
「えぇ。このまま外に放りだしたら、本当に野垂れ死にしちゃいそうだしね。お金は取らないから安心していいわよ。多少の雑用はしてもらうけど」
「それは、助かるが。だが……」
「え? 嫌なの?」
「……俺とお前が知り合って、一時間かそこらだぞ。そんな相手を家に住まわせるなんて……よほどのお人よしか、バカのどちらかだ」
先程の女の二択を返すように、男は尋ねる。率直な感想だった。なぜ、面識のない自分に対して、ここまで彼女は世話をかけてくれるのか。明らかに、不自然なほど、度を越しているようにしか見えなかった。
確かに、世の中には〝ド〟が付くほどの善人はいる。しかし、目の前の女がその部類に当て嵌まるかと問われたら――「NO」だろう。彼女は決して、そのような利益にならない行為をする人間ではない。根拠のない本能的直感だが、その推論は間違っていない確信が男にはあった。
「ま、困ったときはお互い様ってやつよ。貸しは作っておいて損はないわ。隣人は愛さないと」
「……貸し、か」
要するに――先行投資というやつだろう。ここで恩を売っておけば、それがいつか自分の利益として帰ってくる。気に入らないやり方ではあったが、もとより男に選択肢はなかった。
「……分かった。これから、世話になる」
結局、男はその条件を飲むことにした。これから浮浪者のような生活をするよりは、この女の世話になる方が幾分かマシ、というのが結論だった。
「交渉成立ね。じゃあこれからよろしく――って、あれ? そういえば、アナタのことはなんて呼べばいいのかしら」
ここで、女は男の呼び名がないことに気付く。当然、彼は自分に関するすべての記憶を失っているため、本名なんてものは覚えているはずもない。
「……好きに呼べばいい。今の俺は……何者でもない」
「え~ってことは……私が
数十秒間、女は男に対して、どのような名前を付けるか迷う。
「うーん。じゃあ、無難に『ジョン・スミス』にしておく?」
彼女が提案した名前。それはこの国でもっともありふれている名の一つだった。
「……あぁ、それでいい。どうせ、仮の名だ」
「じゃあ、これからよろしくね。スミスくん。あっ、そういえば、まだ私の名前を教えてなかったわね。私はドロティア。親しみを込めて、ドロって呼んでくれもいいわよ?」
「……世話になる。ドロティア」
もとより、スミスは彼女を愛称で呼ぶ気はなかった。それは彼が初対面の人物となれ合う性格ではないことも大きかったが、一番の理由は――ドロティアの名がスミスと同じく、偽名だと見抜いたからだ。
これも、ただの勘に近い。だが、嘘をついている人間というのは――瞳に濁りが出るものだ。なぜ、女が偽名を使っているのか。その真意は定かではないが、スミスを一目で死者だと見抜き、その事情も詳細に知っていたところ見るに、彼女は表の世界に住んでいる人間ではないのだろう。
「そうそう。そういえば、会った時からずっと気になっていたんだけど……スミスくん、アナタ、ちょっと臭うわよ?」
「臭う?」
「これも、多分怪物になった影響ね。きっと、身体が腐りやすくなってるのよ。バスルームがそこの奥の部屋にあるから、とにかく先にお風呂に入ってきなさい」
「……分かった」
自分では体臭の変化には気付かなかったが、駅前の通行人の反応を思い出すと、合点がいく。恐らく、今の自分は相当の体臭なのだろう。
彼女の指示に従い、バスルームへと移動する。だが、その前に――どうしても、ドロティアに尋ねたいことがあった。
「……最後に、もう一つだけ、聞きたいことがある」
「ん? 何かしら」
「お前は一体、何者なんだ。なぜ、そこまで事情に詳しい? お前も……俺と同じ、死者なのか」
ドロティア。彼女はあまりにも、不自然な点が多すぎる。
人間というよりも、まだ同じ怪物だという方が説得力があるくらいだ。
「うーん。そんなのどうでもよくない? 今、アナタが直面してる状況に比べたら、私の正体なんて、些細なものよ」
これ以上は詮索するな。彼女の瞳は確かに、そう訴えていた。
「……そうか」
ならば、もう聞くまい。少なくとも、今、このドロティアという女は彼の唯一の情報源であり、協力者だ。味方である以上は――その意思は尊重するべきだろう。
こうして、記憶を失った男スミスと、謎の女ドロティアの奇妙な共同生活が始まった。
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