第3話 記憶喪失

 この世に初めて生を受けたものが最初に浮かべる感情とはどういったものだろうか。生への喜び――産んでくれた母への感謝――いや、このどちらでもないだろう。

 薄暗い母胎から解放され、外の世界へと放出されるという前提を踏まえるなら「」という感情が、生物にとって最古の記憶なのではないだろうか。


「…………んっ」


 奇しくも、彼が最初に感じたのはそれと同様の感想だった。

 目元に直撃する太陽光は瞼を貫き、視覚を直接刺激する。


「…………なん、だ」


 視覚の次に感じたのは嗅覚、彼の鼻孔は何らかの異臭を察知し、脳へと不快信号を送り出した。本能的に首を振り、視覚による情報を辿って現在の状況を確認する。

 彼がいたのは――異臭が漂う袋が積まれた空間。一般的にはゴミ捨て場と呼称される場所だった。明らかに人が寝る場所ではない。ベッドにしては最低の質だろう。慌てて飛び起き、重い身体を持ち上げる。


「なんだ……なんでこんな場所に。何が、あった」


 周囲を見回すと、どうやら人通りのない路地裏で眠っていたらしい。

 酒に酔ってしまったのか、それとも何らかの事情があってこんな場所で一晩を過ごしていたのか。記憶の断片を探り、男は昨晩の出来事を思い出す。


「――ッ」


 その時、頭蓋骨がひび割れるような、亀裂を想起させる頭痛がした。思わず、唸り声が漏れ、頭を押さえる。


 思い――出せない。しばらくの間、意識を失う前の出来事を懸命に辿ろうとしたが、ぼやけた霧のようなイメージしか出てこない。更に付け加えるなら、自身の名、出身、幼年期を記憶から、親の顔でさえ――何も、思い出せなかった。

 そう、男は世間一般で言うところの〝記憶喪失〟に陥っていた。


 *


「…………」


 じっと、男は街行く人々の様子を眺めていた。現在、彼がいる場所は「グランドセントラル駅」の前。この大都市ニューヨークの中でも、年間四千万人が利用するという記録を誇っており、常に人々が慌ただしく走り回っている。

 男の前を通り過ぎる人々は時折、視界に入った彼の姿を目で追うが、それはあくまでも反射的な行動であり、すぐにかかわりたくないと思い直したのか、視線を外す。都会の人間というのはまったく冷たいものだ。

 しかし、男はその件については責められないと思った。今の自分の服装はやけに乱れており、浮浪者のそれと変わらない。そのような人間に興味のある者は通報によって仕方なく駆け付けた警察ぐらいだろう。冷ややかな視線は居心地の悪さを与えていたが、仕方なく、男はその場に居座り、ただじっと、耐えることにした。


 記憶喪失だと発覚してから数時間が経過したが、一向に記憶が蘇る素振りはない。しかし、色々分かってきたことがある。


 まず、ここはアメリカのニューヨーク州のど真ん中であるということ。

 現在の日付は二〇一七年、十月十三日。自分は白人男性であり、年齢は加齢から察するに三十後半から四十程度。身長は百九十センチ台で、頭髪がない。なぜか、財布や携帯といった必需品を一つも所持しておらず、一文無しだということ。記憶喪失は自分の過去エピソードに関することが中心であり、一般的な知識や常識に関しては失われていないということ。

 身分を証明するものがあれば、すぐに自分が何者なのか解決したのだが、そう簡単にはいかないらしい。

 そうなると、やはり、自力で思い出せる範囲は限界があるだろう。警察や病院といった機関の手を借りるしかない。男はすぐにその結論に辿り着いたのだが――刹那、背筋に何か嫌なものを感じた。


 予兆、予感、虫の報せ、警鐘。とにかく、警察や病院には頼らない方がいいと、本能が告げていた。恐らく、それは失った記憶に大きく関与しているものだろう。彼は――その警告に従うことにした。とにかく、第三者の手を借りるのは最終手段。今は自力で記憶に関する手掛かりを捜索するべきだ。

 そこで、思いついたのが最も人口が密集する地帯に赴くという方法だ。これは単純な確率論、人が多ければ多い程、自分が何者か知っている者がいるかもしれない。そのような人物と遭遇するのが目的だった。


 しかし――それが途方もない無茶な計画だというのは薄々勘付いていた。いくら利用者が多い駅だと言っても、都合よく、ピンポイントで自分の知り合いと遭遇するというのは厳しいだろう。顔を知られている著名人ならともかく、ただの一般人なら、精々交流関係は数十人から百人程度。しかも、その者たちがこのニューヨークにいるという保証はない。まさしく、砂漠の砂から一粒の砂金を見つけるに近い行為だ。


「……腹が、減ったな」


 駅前で待機を始めてから一時間が経過し、男はふと呟いてしまった。時刻はちょうど昼近く。朝食も食べていないことから、かなりの空腹状態だった。空になった胃は食物をよこせと言わんばかりに、たびたび唸り声を上げる。

 しかし、我慢するしかない。唾液で水分を補給し、空腹を紛らわすように、男はごくんと喉を鳴らし、再び時計と睨めっこを始めた。果たして、自分を知る者は現れるのが先か、空腹で倒れるのが先か――根比べに近い心境だった。


 *


 周囲は宵闇に包まれ、あれだけ人が入り乱れていた駅前も、すっかり閑古鳥が鳴いていた。

 ふと、男は時計を確認する。もう日付が変わっており、人が消えるのも当然だ。


「…………はぁ」


 男は深いため息を吐く。結局、半日以上もここで時間を潰していたが、彼を知る者は現れなかった。当然と言えば当然だが、やはり、落胆してしまう。

 まだ地下鉄は走っているが、ここまで人が減ってしまうと、今日はここが潮時だろう。それより、今は記憶よりも重大な問題がある。この先の生活だ。


 現金どころか、身分証明書も持ち歩いていない以上、日銭を稼ぐことすらできない。つまり、このままでは路上生活者になるしかない。それとも、観念して、警察に行くか。その時、グウと、再び腹の虫がわめき始めた。

 実は今から六時間ほど前に、彼は通行人の好意から、十ドルほどの金銭を受け取っていた。どこか、自分がみじめに思えてしまい、最初は受け取るか躊躇したが、背に腹は代えられない。それほどまでに、耐え難い空腹に襲われていた。

 その後、近くの商店でパンと水を買い、一時的には飢餓を脱したのだが、どうやらもう消化してしまったらしい。ここで、男は自身が、かなりの大食漢だということを知った。


 とにかく、人が消えた以上、ここにいる理由もないだろう。公園かどこかで、今夜の寝床を探す必要がある。男は立ち上がり、撤退の準備を始める。

 今夜の食事に関しては――レストランか、スーパーマーケットの廃棄を漁れば、とりあえずは飢えを凌げるだろう。そして、明日もまた駅で知り合いを探す。

 明日が駄目なら、明後日、それでも駄目なら。明々後日……とりあえず、男はここで一週間は粘ろうと考えていた。手掛かりが見つからないようなら、それまでだ。また、新しい手段を考えればいい。


「ねぇ。ちょっと、そこの髪のない人」


 駅から立ち去ろうとしていたまさにその時、ふと、声をかけられた。


「……俺か?」

「えぇ、そうよ」


 声の主は女だった。しかし、その容姿を見て、男は不信を抱く。

 女は――非常に露出度が高い恰好をしていた。上着の胸元は大きく開いており、豊満な胸が露わになっている。おまけに、彼女の髪は夜の闇でも判別できるほどのローズピンクに輝いており、こちらも非常に自己主張が激しい。

 恐らく、彼女は娼婦だろう。男は直感した。大方、今晩の相手を探しているというところか。記憶を失っているといえ、自分がこのような女と交流があるとはとても思えなかった。


「……悪いが、今は手持ちがない。商売の相手を探すなら、他を当たれ」

「ちょっと、もしかして、私のことを娼婦か何かと思ってる? 失礼しちゃうわね」

「……違うのか」


 意外な返答に、男は少し戸惑いの声を漏らす。


「人を見かけで判断しちゃダメよ。それより、アナタ……もしかして、記憶喪失だったりする?」


 ぞくりと、男の背筋が僅かに震えた。

 なぜ、この女は一目で自分を記憶喪失だと見抜いたのか。外見から判断することは不可能のはず。まさか、記憶を失う前の知り合い……なのだろうか。


「なんで分かったのか。そんな顔をしてるわね」


 くすりと、女は笑みを零した。


「……お前は、俺を知っているのか?」

「いいえ。残念だけど、違うわ。今日が初対面ね」

「……なら、なぜ俺が記憶喪失だと分かった」


 この女とは初対面。余計に謎が深まってしまった。顔に「私は記憶喪失です」と書いてあるわけじゃあるまいし、超能力でも持っているとしか考えられない。


「……教えろ。なぜ、俺が記憶を失っていると分かった」

「うーん。どうしようかしら」


 女は怪しげな笑みを浮かべながら人差し指を顎に当てていた。その態度に男は若干の苛立ちを覚えたが、相手は自分の重要な情報を握っている可能性がある。ここで逃すわけにはいかない。


「ま、いいわ。ついてきなさい。アナタが何者なのか、教えてあげるわ」 


 女はくるりと振り返り、手招きをする。その姿はまるで、蠱惑的な魔女のように見えたが――彼には選択肢などない。案内されるがまま、男は彼女の背中を追った。

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