第23話

 霜天の許可が降りてすぐ、寧琅は告の手を引いた。たどりついたのは清らかな湖だった。告と寧琅以外には、小鳥や蝶が二、三いて、静かに羽を休めているようだった。

 ほとりで立ち止まった寧琅は、一度告を見たが、なぜか俯いてしまう。

「寧琅様?」

「……いろんなやつの願いを叶えていたから、すぐに思い出せなかった」

 寧琅はぽつりと口にした。

「けれど、花を降らせて欲しいなんて細やかすぎる願いをしたのは、お前だけだった」

 そう言う寧琅はなぜか苦しげだった。どうして寧琅が苦しそうにしているのか、分からなかった。

 けれど、それは告もしたい話だった。やっと、伝えられる思いがあった。

「あのときであった神様は、寧琅様だったんですね」

「……ああ」

「寧琅様、あのときはありがとうございました。寧琅様のおかげで、僕は生きていけました」

 存在しないように扱われてきた告を認識し、やさしさをもたらしてくれた神様。ずっとこの神様に感謝を伝えたかった。

 しかし、寧琅はいっそうその表情を苦しげに……悲しげに、歪めた。

「どうして、呼んでくれなかった」

「え?」

「胸に抱えているものを明かしていいと思えるときがきたら、また呼びかけろと言った。そんな呼びかけは、一度も来なかった。生きる縁になったといいながら、お前は、俺のことを信頼していなかったのか」

 矢継ぎ早に告げた寧琅が、は、とした表情になる。白い眉間にまた切ない皺が寄る。寧琅は告の体をぎゅうっと抱きしめた。

「……八つ当たりだ。お前の言う神様が俺だったと気づいてすぐに、後悔したんだ」

「後悔、ですか?」

 それは告なんかの願いを叶えてしまったことに対する……ではないだろうことは、さすがに分かった。告を抱きしめる寧琅の手は、あまりに切実だった。

「お前のこと、助けられたのに」

「寧琅様は、僕のことを助けてくださいましたよ」

「でも、お前はあのあと、命を落としただろ。よりにもよって、神への供物として。俺はお前が泣いているのを見た。お前がただならぬ痛苦を抱えているのを見た。あのとき、俺がお前をどこかに連れ出していたら、たらればだって分かってる。でも、後悔が止まないんだ」

 上擦り震えた語尾が、胸をつく。

「もう一度あなたを呼べなかったのは、あの頃の僕は、苦しいことを口に出す勇気がなかったんです。もっと苦しくなってしまいそうで。それにやっぱり、見栄もあったと思います。美しいあなたが僕のことで、困ったり悲しんでいるところは見たくありませんでした」

 結果として、困らせ悲しませてしまったけれど。その申し訳なさはあるのに、告の中には嬉しい気持ちもあった。

「たしかに、僕は命を落として、幸福な人生だったかと言われたら……頷けません。でも、あなたに出会えたおかげで、不幸な人生ではありませんでした」

 それに、と告は続ける。

「あなたと旅をしていた時間は、僕にとって間違いなく幸福でした」

「……どこが幸福だよ。いいことなんて、なかっただろ」

「ありましたよ。口は少し悪いけれど、とんでもなくやさしい神様に出会えました。その方に、こんなにも強く思ってもらえました。こんなしあわせないこと、ないです」

 黙り込んだ寧琅は、告の肩口に顔をぐりっと押しつける。少しだけ、湿った感覚がした。

「……やさしいやつは、人を馬鹿馬鹿言わねぇだろ」

「どうやら言うみたいですよ。僕も今回の旅で学びました」

 揶揄する時の寧琅を真似て言ってみる。

「馬鹿」

 と、鼻を鳴らし、寧琅の手の甲をつねった。けれどそれはちっとも痛くない。

「寧琅様」

「……なんだよ」

「そのやさしさにつけいりたいわけではないので、嫌だったり、迷惑だったら、ちゃんと断っていただきたいのですが」

 そっと寧琅と体を離し、対峙する。ほんの少しだけ目元を赤くし、怪訝に唇を尖らせる寧琅を、まっすぐに見据える。

「もし、残り九十九の輪廻を終えて、天界の民になれたら、僕を寧琅様の神守にしていただけないでしょうか」

 青い瞳がぱちりと見開かれる。

「配達屋で働きたいんじゃなかったのか」

「もちろん、配達屋も大好きです。でも、寧琅様とともに過ごすうちに、もっと寧琅様のそばにいたいと、力になりたいと思ったんです」

 寧琅はわずかに眉を顰めて、瞳を伏せる。

「その記憶は直に失われる。九十九の輪廻を終えて出会うお前は、俺のことを好かないかもしれない」

「そんなわけないです!」

 つい声を上げれば、寧琅はまた目を丸くする。

「寧琅様は絶対なんてないとおっしゃるかもしれませんが。それでも、僕は思います。なにがあっても、何度でも、寧琅様に出会って心惹かれないぼくは、絶対にいません」

 わ告を見つめずかに細んだ青は、どこか泣きそうに見えた。寧琅は俯くと、深い息をひとつ吐いた。それから顔をあげ、きっと告を見据えた。

「俺がそれを受け入れたら、神との契約になる。反故はできないぞ」

「いいのですか……!」

「お前は何度輪廻しても馬鹿そうだからな。そんなやつがそばにいたら、退屈しなくていい」

 ぱぁっと表情を華やがせた告は堪らず寧琅に抱きつく。寧琅はしっかりと受け止めてくれる。

「ありがとうございます! 末長くよろしくお願いいたします」

 遠くから、高らかな鐘の音色が聞こえた。天課に戻らなくてはいけない時間だ。

 名残惜しさはあった。けれど、天課の先でも、寧琅にまた会える、寧琅にまた仕えられる約束がある。

「告」

 湖の辺りを離れて、霜天たちの元へ戻る道すがら、寧琅が呼んだ。

「どうせ、俺はこれからしばらく天帝にこき使われる。だから、お前もあまり急がなくていい」

 寧琅は少し面映そうに、けれどとてもやさしく、微笑んだ。

「告。お前の人生に、どうか、ありったけの幸があらんことを」


 

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