神様

第15話

 人間が好きだった。

 上天には現界の様子を眺めることができる湖がある。寧琅は幼神の頃よくそこに通っては、上天から派遣されていた幼神生育専門の神守に落ちてしまわないようにと注意されていたものだった。

 天界の民と比べると短い生を持つが故か、天界の民よりも豊かで起伏の激しい情緒を持ち、思いもよらぬ行動をとる。自己だけでなく他にも重きをおき、嬉しいことがあれば喜びをわかち、分かり合えないことがあれば傷つけ合い、親しい相手との別れを悲しむ。そのすべて新鮮な光景だった。不完全で、一生懸命で、興味深く、愛しい生き物だと思った。

 やがて神器を手にし成神するなり、寧琅は現界に降りた。天帝からは天界を離れることがあるのならば神守を雇うことを勧められたが、断った。幼神時に派遣されていた神守が小言が煩く、性格も合わなくて、神守というものにあまりいい印象がなかった。自由に現界を巡りたい身には、邪魔になると思った。

 現界での生活は楽しかった。人間に混じって、人間のふりをして、生活をしていた。偽りの姿に、偽りの声に、偽りの名前を掲げていた。

 いろんな職についたが、大道芸をすることが一番多かった。神器である神楽鈴を持って舞って、路銀を稼いでいた。

 神楽を使って舞えば、寧琅の別才が湯水の如くふるわれ、あたりに花が咲き誇り美しい光景を生み出した。ときに奇術師と疑われ目をつけられることもあったが、大抵は関心と感動を集め、どの神に通ずる舞いかと尋ねたら〝花・水・木の寧琅神〟と自ら名を広めた。舞って、人間を楽しませることが楽しかった。人間にも、自分を思って舞ってほしいと思っていた。寧琅は次第に信仰を集めて、強い力を持つようになった。

 神の中には本物の人間のように年齢経過までも再現する変身術を使えるものがいる。だが、どれだけ神として成長しても、力を持っても、寧琅にはそれができなかった。人間を愛しているのに、人間になりきれないことを皮肉だと思っていた。

 寧琅の中には常に、人間に尊敬し頼られたい気持ちと、人間に混じり特別視されることなく共存したい気持ちが共存していた。後者の方に秤は傾いていたから、各地に数年滞在しては、知人たちに怪しまれないうちに移動をする、というのを繰り返していた。親しんだ者たちとの別れは惜しかったが、土地により民の暮らしや性質が異なるのを見るのは興味深かった。

 前者の欲求も、寧琅はときどきに満たしていた。衣装を着込んで正体を隠し、神として人の前に現れ、願いを叶えていた。

 そうして旅しているうちに、寧琅は有ヶ薙という国に辿り着いた。

 どこを巡っても多種多様な花が年中咲き誇り、清らからな川や湖もあちこちにある。民も気性が穏やかで、毎日歌って踊って宴をして、とても明るく豊かな国だった。寧琅は有ヶ薙がとても気に入っていた。

 寧琅は各地を訪れるたびに、学校や書庫があれば進んで訪れた。その地の学びや歴史を知ることが好きだった。だから、有ヶ薙が隣国と冷戦状態にあることは住み着いてすぐに知り、もう何年も争っていないと聞いていた。ならば、これからも戦火が飛び交うことはないだろうと思っていた。

 寧琅はこれまでの旅で争いを経験した地に訪れたことは何度もある。だが、偶然にも、戦争の渦中にある地を渡ったことはなかった——寧琅は、寧琅は争いというものをあまりよく知らなかった。

 有ヶ薙を気に入っていた寧琅は、常よりも長く、その地に滞在した。それでも、そろそろ離れればならないと感じるときは訪れた。この地にいつになく思い入れがあった分、祝福を捧げてから去りたいと考えた。だから寧琅は装束を着込んで、神として、国主の前に姿を見せた。

 寧琅がこの国の中でいっとう親しい関係を築いていたのが、国主だった。

 国主は半ば正体がバレている形だけのお忍びでよく街に赴いていた。この国に越してきたばかりの寧琅に声をかけてきたときもまさにその只中だった。すぐに馬が合ったふたりはよく酒を酌み交わし、一緒に歌い、踊っていた。国主は寧琅の舞をいたく気に入り、寧琅神を崇める大きな社も建ててくれていた。

 国主は唐突な神の来訪に驚いていた。神から願望を尋ねられた国主は難しい顔をして黙り込んだ。この国はすでに十分に豊かだから願いなんてないのかもしれない、と寧琅は思った。

 そうして国主の返答を待っている間に——強風が吹き抜けた。有ヶ薙は夏時期には時々強風が吹く地だ、国主と対峙したのは彼が秘密基地解いている丘陵でのことだった。

 強風により、寧琅が顔にかけてきた布がはらりと捲れ上がる。その一瞬に、国主と目が合ってしまった。

 人間の皮を脱いでいたから、国主はそれで寧琅があの親しい人間で合ったことには気づかない。だが、寧琅の方は堪らなくなってしまった。もっと彼と、彼らと、一緒に過ごしたいと思ってしまったのだ。

 この国の民は優しく穏やかだ。彼らならば神であっても、受け入れててこれまで通りに接してくれるのではないか。寧琅は、そう信じた。

 実際、最初こそは国主も、その後に報告した国民も、寧琅が神であることに、寧琅が披露した神としての力に驚いていた。だが、寧琅がこの国に住み続けたい、これまでと変わらずに接してほしいと頼めば、彼らはそれを受け入れてくれた。変わらずに、接してくれていた——それが、神のご機嫌を取るための演技だなんて、ちっとも、思いもしなかった。

 寧琅が神であることを明かしてから、国の空気が次第に変わっていった。歌が、踊りが、宴が、街から少しずつ消えていった。女は炊事や裁縫に勤しむようになり、男は肉体を鍛える訓練に勤しむようになった。

 寧琅はしばらくの間にそれに気づかなかったが、さすがに銃撃の演習の音が響いたときにはなにかがおかしいと思った。そして、国主に尋ねれば、彼は厳しい面持ちで隣国と戦をするつもりでいると話した。

 寧琅は驚いた。どうして、これまでで十分平和だったのに今更冷戦を崩そうとするのか、理解できなかった。

 呆然としているうちに、国主は厳しい表情を崩して微笑んだ。それに、寧琅は期待した。冗談だと言ってくれるのかと思った。だが、違った。

 ——寧琅神よ、我が国に勝利を齎してくれ。これが、私の願いだ。

 胸が切なく冷えた。

 自分はちっとも、民の一人として受け入れられていなかった。

 どうしようもなく、神として見られていた。期待されていた。

 彼が旗を上げたのは、寧琅という神を得たからなんだ。

 それでも、寧琅は信じる気持ちを捨てられなかった。

 有ヶ薙の民は穏やかでやさしい。戦なんてやめようと誰かが言い出し、他のものも賛同し、また歌が、踊りが、宴が戻ってくるのではないかと期待した。

 けれど、そんな日は来ず、有ヶ薙と隣国の間に戦火が灯った。

 戦の最中、国主は寧琅に命令するように何度も願った。あいつを殺せ、こいつを殺せ。我々についてくださっている神ならば、我々の勝利を運んでくれ、と。

 たしかに寧琅はこの国に報いたくて、国主の願いも尋ねた。だが、寧琅には人を殺すことはできなかった。だって、人間が好きだった。

 美しい花や植物は燃やされ、朽ちた。水や湖は淀み、異臭を発した。見る影もなくなる。寧琅はただ争いをやめてほしいと叫び続けることしかできなかった。

 そして、有ヶ薙は敗北を喫した。

 荒廃した地で呆然と彷徨いていた寧琅は、血に塗れた国主の姿を見つけて駆け寄った。骨がいくつも砕け、皮膚は激しく抉れていた。もう長くないだろう彼に、最期の望みを尋ねようと思った。それを叶えた後に、埋葬してやろうと思っていた。だが、彼は落ち窪んだ目で寧琅を捉えるなり、悲痛に声を荒げた。

 ——よくしてやったのに。社も建てたのに、願ったのに。どうして、私たちを裏切った。

 寧琅は裏切ったつもりはないと訴えた。たしかにこの国を愛していたと訴えた。すると、国主は皮肉たっぷりの笑みを浮かべた。

 ——そうか。ならば、私たちの運がなかったということか。無能の神を讃えてしまった、私たちの落ち度か。

 それから国主は息絶えるまで口汚く寧琅を罵った。

 寧琅の心はすっかり、凍りついていた。

 自分が信じた者は、愛した者はどこにいってしまったのだろう——最初から、いなかったのか。

 自分が失敗してしまったのか。神であることを晒してしまったことが罪なのか。

 それでも。

 それでも。

 それでも。

 人間が好きだった。

 喜びを分ち、痛みを分ち、悲しみを分つ、不完全で、一生懸命で、興味深く、愛しい生き物だと思っていた。

 けれど、その生き物と実際に触れた寧琅の中には、途方もない嫌悪、後悔、憤怒、あらゆる感情が黒々と渦巻いた。悲しかった。悔しかった。痛かった。苦しかった。裏切られたのは自分の方だと思った。

 その激しい情動に寧琅はすぐに耐えらなくなり、すべてが嫌になって、そして——ただでさえ荒廃した地に持ちうる神力を全てを使って災いを降ろした。

 寧琅が慕ったかの国は更地と化し、隣国までも朽ち果てた。

 それが天に咎められ、落神となった。

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