第14話

 それからまた未助について獣道を行くと、そう経たないうちに細く硬そうな草木が複雑に絡み合った、奇妙な壁に着いた。

 そこで立ち止まった未助が、告たちの方に振り向くと、俯きがちに言った。

「ごめんなさい」

「なんの謝罪だ。まさか、ここまで連れてきておいて、花化症を治す術を本当は知らない、とか抜かすのか」

 俯いたまま左右に視線を泳がせていた未助は、やがて意を決したように言った。

「知らないわけじゃない……けど。それが本当にあるのかは、本当に治せるのかは、分からない」

 おもむろに持ち上がった顔が、草木でできた壁に向く。微かに震える瞳からはおそれが滲んで見えた。

「同胞の土に咲く真紅の実、それだけが毒花の刃に錆を入れる——姉ちゃんの机の上にあった古い本にそう書いてあった」

「弥生さんの?」

「そのそばにあった姉ちゃんの手記には、祖の塚にその実があって、花化症の薬になるんじゃないかって書いてた。姉ちゃんは花化症の治し方をずっと調べていたんだ」

 東の森にある祖の塚は危ない場所であり、祖の眠りを妨げてはならないことから、村民も立ち入り禁止になっていると村長から聞いていた。

 村長が告と寧琅にもわざわざ忠告したのは、未助の話を聞いた今、それだけが理由なのだろうかと疑念が滲む、けれど。

「どうして、弥生さんが花化症について調べていたのでしょうか。この村の方々は花化症にはならないんですよね」

 村長の忠告と同じくらい、そのことが告の中で引っかかった。

 わずかに唇を尖らせた未助が言う。

「茗蓉に、好きなやつがいるんだ」

 なんとなくことを察した告は目を見開く。告を見て浅く頷いた未助に、それは確信的なものになる。

「その人は、ヤオ兄が死んだとき——一番最初に胞子を浴びた。最初の花化症患者だ」

「え、それって」

「お前の姉貴の懸想相手が、お前の同胞を殺したってことか」

 思わぬ点と点の繋がりに告はぽかんと口を開いたまま呆然とした。一方で寧琅はちっとも動じた様子はなく、冷静に未助に尋ねた。

「お前の言い分だと、その懸想相手だけが悪いわけじゃないんだろう。お前は〝ヤオ兄〟とやらは天に行けないと判断したんだから」

 未助の狭い眉間に切なく皺が寄った。

「ヤオ兄は俺とよく遊んでくれた。姉ちゃんが忙しいときは面倒も見てくれてた。俺はヤオ兄のことを本当の兄ちゃんみたいだと思っていたし……ヤオ兄が姉ちゃんのことが好きなのも知っていた。だから、あの日も、ヤオ兄は俺にだけ言ってたんだ。茗蓉に敵情視察してくるって」

 小さな手を胸の前できゅっと握り、未助は俯く。

「ヤオ兄は気前がよくて、いい人だったんだ……ただ、ものすごくお酒に弱くて。緊張することとか困ったことがあるとすぐにお酒に頼っちゃって、飲んだらちょっと……荒っぽくなるところがあった。村で宴会もするときも、みんな結構、手を焼いてた……ヤオ兄が殺されたその日のうちに茗蓉から来た伝令が話してた事件現場も、居酒屋の近くだった。目撃した人たちも、酔っ払ったヤオ兄があの人に絡んだって。ヤオ兄が持ち出した割れた酒瓶を、あの人が取り上げようとして、揉み合いになって……」

「村のやつらは、ヤオ兄とやらの性質をよく知りながら、事件のあらましを聞きながら、同胞だからと熱心に肩を持っているわけか」

「みんな、茗蓉が茗蓉人を庇って、でっちあげたんだって言ってる」

 ふんと寧琅が鼻を鳴らした。

「ひとりの恩仇には皆で相応に報いよ、ね。それも行き過ぎればご都合主義の思考停止だな」

 容赦なくそう言う寧琅に、未助はむっと顔を顰める。だが、これまでのようにすぐに反駁することはなく、未助は苦く瞳を伏せた。

「……俺も、でっちあげだって思ってた。思っていたかった。でも……俺、見ちゃったんだ。夜中に姉ちゃんが、何かを読んで、泣いているところ。姉ちゃんが留守の隙に、姉ちゃんが何を読んでいたのか探して……多分、これだっていうのを、見つけた。姉ちゃんが好きな人からの手紙だ。そこには、謝罪と……重たい病を患ったからそれを報いとして受け入れるって、もう会えないって、書いてあった。俺はヤオ兄のこと、応援してたけど。でも、姉ちゃんが好きな人にも会ったことがあった……いい人だった」

 ぽた、と地面に雫が落ちて土を濡らした。未助の瞳から、涙が溢れていた。

「それからすぐに茗蓉で花化症が流行して、交流が断たれた。村の中での茗蓉への敵視はどんどん高まっていった。俺も、その流れに乗ったけど……姉ちゃんだけは一度も茗蓉の悪口を言わなかった。家の中でだけ、時々ぽそっと、本当に茗蓉だけが悪いのかなって、言ってた。その理由を、俺は、知っていた。ずっと、苦しかった……!」

 未助の涙は止まることなく、次から次へと仲間を引き連れて、地面を黒く染めていく。その姿が悲しくて、告は寧琅の腕から降りようとした。だが、寧琅はそれを許さなかった。

「寧琅様」

 困惑混じりに呼ぶも、寧琅は浅く首を横に振るのみ。

 しばらくして、未助は自分の手の甲で目をごしごしと拭い、ずずずっと鼻を啜り、おずおずとこちらを見上げた。まだ濡れている瞳は空から注ぐ月星の光を反射してきらきらと照っている。

「姉ちゃんの手記を見つけてから、いつか祖の塚に行こうするんじゃないかって、ずっと見張ってた。それで、姉ちゃんは実際にここまできて、俺もひっそり後をつけた。地図とかはなかったけれど、人が歩けそうな道はこのひとつだけだったから。それを辿っていったら、ここに辿り着いた。それで、この壁をかき分けて、向こうに出たとき、なんか変な狼が現れたんだ」

「変な狼?」

「体が大きかったのもあるけど、それだけじゃなくて。なんか、普通の狼とは違う雰囲気がするっていうか、目が合うだけで、肌がひりひりして、胸がぎゅうってなって……」

 もどかしそうに言葉を連ねた未助は、躊躇いがちに寧琅を仰いだ。

「お前の変な魔法を見たときにも、似た感じがした」

 ぱちりと瞬いた寧琅が、少し思案顔を浮かべる。

「姉ちゃんがそれに襲われそうになって、俺は慌てて飛び出して、必死にその狼を追い払って、逃げるので精一杯で。この向こうが祖の塚かも分からないし、実も見つけられなかった。あの場所に行ったのは二人だけの秘密って姉ちゃんには言われてたから。村の人たちはやさしいけれど、きまりを破るのは、駄目だから。誰かに教えてもらうこともできなかった。だから……本当にその実があるのか、分からない。あっても、それで本当に治せるのか分からない」

 告と寧琅を仰いだ未助の眉がくんと下がる。

「ごめんなさい」

「別に、謝ることはない」

 間もなく、寧琅が切り返す。

「確信がないだけで、なにも知らないわけじゃなかった。羅針盤をやれるほどの厚さはなくても、俺らの道案内としては十分な情報だ」

 寧琅が草木の壁に目を向ける。未助がきょとんと目を丸くする。

「え、まさか、この向こうに行く気じゃないよね?」

「この向こうに行かないと、花化症を治す術を手に入れられないだろ」

「話聞いてた⁉︎ 変な狼がいるんだよ! その実が本当にあるのか分からないし、あっても効くかどうか分からない! それなのに、行くなんて」

「可能性がどれだけ希薄でも、手を伸ばさなければ何も手に入れられない。俺のお守りがそう言っていた」

 寧琅が告を一瞥して、ふっと微笑む。

「それに、俺なら、そいつらと話し合う余地があるかもしれない」

 告と未助が揃って首を傾げると、寧琅は言った。

「この壁の植物に何度か語りかけてるが、返事がない。死んでいるわけでもないのにだんまりってことは、俺より強い力を持つ何者かに支配されている」

 寧琅より強い力を持つ何者か。そう言われて思い当たるのは、ただひとつ。

「神様がここにいるってことですか?」

「おそらくな。こいつが見た変な獣も、俺の力と同じ気配がしたっていうなら、神獣だろう。いったいどこのどいつがどういう意図でここに居着いているのかは、聞いてみないことには分からないが」

 体をわずかに傾けた寧琅が、告をおろした。久々につけた地に足を馴染ませるように告は二、三浅く足踏みをする。

「ガキ。お前は村に帰れ」

「え、でも」

「夜中に村のガキ連れ出したってバレたら、それこそ追い出される。そうなったら俺らも困るし、お前らも困るんだろ。姉弟揃ってやけに俺たちを庇って家に置こうとする。なにを期待しているのかは知らないが」

 寧琅の言葉に、未助は少しだけバツが悪そうな顔をした。

「……茗蓉で、花化症で苦しんでいる人、もう何人もいるって聞いた。あの人は一番最初にかかったから……何度も様子を見に行こうと思ったけれど。どういう状態になってるか想像するだけで怖くて、たしかめられてなくて」

「でも」と未助はきっと顔を上げた。

「告さんが起きたあと、姉ちゃんとご飯の準備、してたとき。姉ちゃんが言ったんだ。告さんと、神様もどきのこと、とても強かでやさしい方々だねって。もしかしたら、この村を動かす新しい風になってくれるかもしれないねって。俺、もし、あの人がまだ生きてたなら、助けたい。村の元気も、取り戻したい。もう、これ以上誰にも、不幸になってほしくない!」

 今にも溢れ出しそうな涙を、しかし、未助の下瞼は力強く支えている。

「そのすべてを叶えるのは無理だな」

「っ、だから、神様もどきはもっと希望のあることを——」

「だから、せいぜい祈っておけ。この向こうにその実とやらがあることを。俺たちがそれを無事回収し、お前らの家に無事に戻れることを。それが今のお前の役割だ」

 寧琅は未助の髪をくしゃりと混ぜた。

 未助はぽかんとしたように寧琅を仰いで、また泣き出しそうに瞳を潤ませながらも、大きく頷いた。

「東門のすぐ近くの家で飼ってる鶏が、日の出とともに鳴き声を上げるんだ。それで村の人たちはみんな起きる。だからそれまでには帰ってきて」

 未助は頬を少し染めながら一生懸命そういうと、くるりと踵を返した。

 それからすぐにまたこちらを振り返ると。

「よろしく、お願いします」

 気恥ずかしげなら、それでもまっすぐな声と表情でそう言うと、獣道を下っていき、その背はすぐに見えなくなった。

「じゃあ、行くか」

「僕もついていっていいんですか」

 つい尋ねると、寧琅は胡乱げに告を見た。

「そりゃあ、本当はお前も返したいところだがな。お前があの道を一人で辿れるとも思えないし、あのガキに支えてもらうにも限りがあるだろ」

 それは、たしかに。告と下山となれば、未助に余計な心配やら怪我をさせてしまうかもしれない。

「だからって、ここに一人で置いておくのも不安だ。お前、目を離したらすぐになにかしらの厄介に巻き込まれそうだ。ここにはろくに獣がいついていないが、お前はそのほとんどいない獣すらも呼び寄せそうだ」

「さすがにそんなことはないと思いますが……」

 しかし、自分の運気に自信がないのもたしかで、語尾はひょろりと窄む。

「まぁ、お前がついてきたくないのであればここに結界でも張るが」

「余計な力、使っちゃ駄目ですよ! というか、そういうわけじゃなくて」

 ぶんぶんと手と首を横に振る告に、寧琅がわずかに眉を顰める。

「じゃあ、どういうわけだ」

「この向こうには寧琅様より強い神様がいるかもしれないんですよね。そこにいくのに、足手纏いになってしまったら、申し訳ないなって」

「そもそも今の俺と比べたら大抵の神は強い。皆、ちゃんと神器を持っているだろうからな。だが、お前一人守れないほど、弱いつもりもない」

 毅然と寧琅は言い放つ。

「お前が俺についてくるか否かを決めるのは、お前が俺のそばにいたいのかいたくないのか、その気持ちだけだ」

「寧琅様のそばにいたいです」

 そう問われれば、答えは当然に決まっていた。即答すれば、寧琅もまた告がそう答えるのをわかっていたかのように鼻を鳴らした。

「この壁をかき分けたら一気に乗り込む。この先の様子は俺の力でも窺えないし、もしかしたら、向こう方の結界が展開されているかもしれない。万一にも離れないように、お前は俺の袖を掴んでついてこい。向こうに出たらすぐに抱え上げるから、暴れるなよ」

 寧琅は草木に手をかけ勢いよくかき分けた。その中を潜っていく寧琅からはぐれないように、彼の袖をぎゅっと握って告もその後をついていく。

 草木が腕や頬に擦れて少し痛かった。草木の壁は思ったよりも厚く、三、四歩歩いたところでようやく開けたところに出る。

 そこは短い草が一面に生える、ひらけた丘だった。村やここまで歩いてきた森とは違い、その草はすべて瑞々しい緑色をしている。よく見れれば、ところどころに白詰草も咲いている。

 宣言通り、寧琅はすぐさま告を抱え上げた。そのはずみに仰いだ空に、告は目を丸くした。

「寧琅様。空が、紫色に染まってます」

 さっきまでの濃紺の星空はそこにはなく、紫色に染まった空が水面のように揺れている奇妙な光景がそこには広がっていた。

 あの草木の壁ひとつ越えただけ別世界に来たようだった。

「……結界だ」

 その返答の声が妙にか細かった。仰ぎ見た寧琅は眉間に深い皺を寄せ、苦しげな表情をしていた。

「寧琅様、どうなさったのですか⁉︎」

「あまり声を荒げるな。頭に響く」

「す、すみません……でも」

「どうやらここにいるのは俺と相性が悪い神らしい。そのうえ、結界内の神気が馬鹿みたいに濃くて気持ち悪ぃ」

 もともと白い顔がいっそう青白くなり、滑らかな額にはじんわり脂汗が滲んでいるように見えた。

「引き返そう、なんて言うなよ。これぐらいたいしたことない」

 寧琅は青い瞳を細めて不敵に笑う。と、その視線をふいに正面に向けた。

「あれだな。ガキが見たのは」

 寧琅の視線を辿れば、いつの間にか、三匹の獣がそこに現れていた。四、五尺離れた位置でこちらを睨んでくるのは、見た目こそは灰色の毛をした大きな狼だった。

 真っ黒な瞳と視線が絡むと、心臓を鷲掴まれるような得体の知れない恐怖を覚える。

 狼たちは毛を逆立てて、わずかに開いた口から白く大きな犬歯を覗かせ唸っている。こちらが微動でもすれば、すぐに襲いかかってきそうだったが、それは飢えによるものというよりも警戒、この向こうにあるなにかを必死に守ろうとしているように見える。

 寧琅がぱちんと指を鳴らすと、狼たちの唸りは止まったかのように思えた——が、ほっと息を吐くことは出来なかった。次の瞬間には、素早く駆けてきて、三方向から告と寧琅を取り囲む。

「ずいぶん縄張り意識が強いご主人様に飼われているみたいだな」

 寧琅はひらりと片手を上げた。

「別に、この土地を奪いにきたわけじゃない。俺たちは探し物をしにきただけだ」

「神獣様は言葉が理解できるものなのですか」

「場合による。人語を話せる神獣は人語を理解できる。人語が話せない神獣は現界で飼われている犬猫みたいに、特定の音で特定の行動をするよう躾けられている」

「左様。人語を話す獣は私は好かんから、こいつらは後者じゃ」

 割って入ってきたのは、艶やかな女性の声が響いた。その声の方向がわからず、顔をぐるぐる彷徨わせて改めて正面を向いたとき、鼻先が触れそうな距離に女性の顔が現れた。

 驚きのあまり声も出ずにいると、寧琅が素早く一歩下がって距離を取る。

「まだ卦蘭は出払っていると聞いておったのに、神の気配がすると思って見てみれば。誰じゃ」

 閉じた扇子を口元に当て、値踏みするように見据えている女性は美しい相貌をしていた。白粉を塗った様な白い顔、くるりと弧を描く長いまつ毛、目元と唇には鮮やかな紅が差してある。綺麗に巻かれた桃色の髪には、紅玉や細かな細工があしらわれた金の髪飾りをつけている。纏う衣装も赤と金がよく映える派手で豪奢なものだった。

「花水木の寧琅だ」

「花水木……ああ、人間に欺かれた神楽鈴か!」

 紅水晶の瞳を見開いた女性は、高らかな笑い声を上げた。

「妾は享楽の鳴李なきり。どうぞ、よろしゅう」

 ぱっと扇子を開いた鳴李は、寧琅を見据えてわずかに腰を屈めた。

「まさかこんなところで噂の御仁に出会えるとはのう。落神になったと聞いたが、神守まで連れて現界にいるということは、回復されたのかえ?」

 にやにやといやらしい笑みを浮かべる鳴李に、寧琅は容赦なく反駁する——と告は思っていた。

「回復のための試練の最中だ」

 だが、寧琅は落ち着き払った声音でそう答えた。鳴李はまた呵呵と笑い声を上げる。

「なるほど、なるほど。この頃は無聊じゃったが、ふむ、なかなか面白い現場に立ち会ったのう。して、妾の領域に立ち入ったのもその一環かえ?」

 狼たちはいつの間にか告たちから離れ、鳴李のそばに控えていた。

「ああ。其方の領域を奪う気など毛頭ない。ただ、探し物をさせてもらいたいだけだ。この森の下にある村の祖の塚を探している。そこに、真紅の実が生えていると聞いた」

「ああ、あれか」

 鳴李はあっさりと心当たったように言った。

「真紅の実は、本当にあるのですか」

 つい声を上げると、向かいの紅水晶の瞳がすっと細んだ。

「ずいぶんと躾のなっていない神守を飼っているようじゃのう」

「昨日今日なったばかりの臨時神守だ」

「ほう? 貴様だけでなくこれも訳ありというわけか」

 鳴李はこちらに一歩近づくと、ぱたりと畳んだ扇子で告の顎を掬い上げ、じっと見つめる。先に狼と目があった時のような、得体の知れない恐怖が蘇る。だが、一人じゃない、寧琅がそばにいると思うと、耐えられない恐怖じゃなかった。

「失礼な振る舞いをしてしまって、申し訳ございません」

 顎を救われているからお辞儀はできない、その代わりに鳴李を真っ直ぐに見つめ返した。鳴李はさらに瞳を細めると、ふっと笑った。

「なるほどな」

 鳴李は告の顎からそっと扇子を外すと、元いた位置に下がる。

「大して旨味のあるものでもない、貴様らにやるのはやぶさかではないが」

(やるもなにももともと芙佳の祖の塚のものなのでは……)

 そう思うものの、すぐそこにある好機を失うわけにもいかず言葉を飲み込む。

「ただで渡すのは、ちと惜しいのう。貴様らがそれを求めるのは試練のためじゃろう?」

「……其方の要望を叶えろと?」

「 試練として然るべき障害があるべきではないかえ? なに、天の羽衣を持ってこいとは言わんから安心せえ」

 そばに控える狼をの体をゆったりと撫でながら、紅水晶の瞳が告を捉えて、三日月形に細んだ。

「その神守を譲ってもらおう」

「断る」

 告が何を考えるよりも先に、寧琅が鋭い声音で言い放った。鳴李は目を大きく見開くと、こてんと首を傾げた。

「そやつは元人間の亡者じゃろう? それを、人間に欺かれた神楽鈴がどうしてそれを庇う」

「俺を欺いたのはこいつじゃない。そもそも、こいつがいなくなったら俺がその実をもらう理由もなくなる」

「ふむ、呉越同舟も試練のひとつなのかえ? じゃから、そうも大切にしていると?」

 開いた扇子で口元を覆った鳴李が、寧琅の腕に抱えられている告を見る。その眼差しは、新種の花実でも前にしたように興味深げだ。

「一蓮托生だ」

「その人間がよほど蠱惑的なのか。それとも、有ヶ薙あがなぎの乱はさしたるものではなかったのか」

「……神の噂好きは相変わらずだな」

「長い生のささやかな楽しみじゃろうて」

 不愉快そうに眉を顰める寧琅に反比例するように、鳴李の笑みは深まる。

「たいていの落神はそのまま消滅し、消滅しなかった者も自身の憐れで愚かな深淵を語るまい。故に、転落にまつわる噂は噂でしかなくなる。それもほどほどに無聊を慰めるものにはなるが、当事者から真相を聞けるのは、非常に稀有で愉快な機会じゃ」

 鳴李が広げた扇子をこちらに向ける。

「第二の道を提示してやろう。そやつを貰わない代わりに、有ヶ薙の乱の顛末を妾に教授せよ」

 有ヶ薙の乱。その言葉自体には心当たりはなかったが、しかし、話の流れから察するに、寧琅が落神になるに至った出来事なのだろう——きっと、寝所で寧琅がしてくれた話だ。人間を信じ、人間に裏切られた、寧琅を巣食う深い深い傷。

 頭がぐわりと重くなり、指先がちりちりと痺れ、喉が痛いほどにひりついた。全身が燃え上がっているように熱かった。寧琅の傷を面白半分に聞き出そうとしている鳴李が許せなかった。

 だから、声を上げようとした。

 けれど、告の口は大きな手のひらに塞がれた。悲しいほどに、やさしい花の香りがした。

「それを話せば、実を開け渡すと約束を結べ」

「抜かりがないのう」

 鳴李が扇子を持っていない方の手のひらを地面に向けて翳した。すると、鳴李と寧琅の足元に光の輪が浮かび上がる。

「貴様は虚偽なく有ヶ薙の乱の顛末を晒すこと。妾はこの土地を開け渡すこと」

「ずいぶんと大盤振る舞いじゃねぇか」

「ここいらの人間にも風景にも飽いおったところじゃ。それに、しばらくすれば卦蘭が帰ってくる。そろそろ移動しようと思っていたからのう。ああ、久々に天界の居に戻って貴様の物語を広めるというのも悪くない」

「勝手にしろ」

 吐き捨てる寧琅に、鳴李がにっそりと微笑む。

「さて、約束はこれで問題ないかえ?」

「ああ」

 鳴李は地面に翳していた手を自身の口元に運んだかと思うと、尖った歯でかぷりと噛みつく。そこからぷくりと溢れた血を輪の中に落とし入れた。寧琅も同じように、告の口を塞いでいた手に噛みついて血を落とす。輪は眩しく光り輝くと、文字のような模様を浮かべながら浮き上がり、収縮し、弾けた。

「約束は成立じゃ。さぁ、存分に語るといい。貴様の深淵を」

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