第11話

 真夜中、ぺち、と頬に冷たいものが触れて目を覚ますと、寧琅が告に覆い被さり顔を覗き込んでいた。

 どれだけ美しい相貌だとしても——いや、それ故にか——覚醒直後に間近に現れたらとてつもなくびっくりして、思わず叫び声をあげそうになったが、寧琅の手のひらに塞がれる。

「叫ぶな、馬鹿」

 寧琅が低く囁く。彼の手のひらは大きく、告の鼻と口をまるまる覆っていた。そこから花のいい香りがして、驚きと緊張はあっという間に引いていく。

 もう大丈夫だと伝えるように寧琅の手が外れていく。遠ざかる花の香りに、少しだけ名残惜しさを感じた。

「寧琅様、どうなさったのですか」

 この家にあるのは居間と普段は寝所に使っているという部屋のみで、告と寧琅は寝所を貸し与えられていた。壁一枚隔てた向こうの居間で寝ている弥生と未助を起こさないように告も声を顰めて尋ねる。

「ちょっと出かけてくる」

「え、どこに」

「東の森」

「東の森って……近づかないよう言われたところじゃないですか」

 日中に会議でひやひやしたばかりだというのに、この髪さはまどうして早速禁忌を犯そうとしているのか。なんとも言えない気持ちになるが、しかし、寧琅とて理由なく行動するわけじゃない。告よりもずっと回る思考と鋭い観察眼を持っている。

「何か気になることでもあったのですか」

「本当に気になる程度のことだ。直感、と言ってもいい——あの村長は何か隠している」

 たしかに、村長は腹に逸物を抱えている印象はあった。そういうところも、霜天に似ているように感じた。

「隠しているって、なにを」

「さぁ。だが、わざわざ立ち入るなと言ってきたんだから、そこに秘密が隠されているかもしれない」

「それは暴いてしまってもいいものなのでしょうか……」

「さぁな」

「さぁなって……さっきからそればっかりじゃないですか」

「秘密を暴くとなれば危険が伴う。それでも、それが利用できるものである可能性は零ではないなら、触れてみる価値はあるんじゃないのか」

 告はぱちりと瞬く。

「可能性がどれだけ希薄でも、手を伸ばさなければ、何も手に入らない。そう言ったのはお前だ」

 寧琅がふっと微笑む。

「また勝手に出かけたらお前、怒るだろう。だから一応、声をかけにきた」

「え、お一人で行くつもりだったのですか」

「怪我人は寝てろ」

「嫌です、駄目です!」

 思わず声量をあげてしまい、告は咄嗟に自身の口を塞いだ。おず、と隣室の壁に目を向けるが、特に音はしなかった。

 ほっと息を吐いてから、告は寧琅を仰いだ。

 寧琅の美しい白銀の髪は、あの村会議の最中に切ったそのまま、左右非対称となっている。

 短くなった方の髪にそっと触れると、胸がぎゅうっと締めつけられる。

「……申し訳ありません」

「なんの謝罪だ」

「寧琅様を、傷つけてしまいました」

「お前に傷つけられた覚えはないが」

 寧琅が機転をきかせてくれたおかげで、村人たちからの糾弾を免れ、この村に滞在することを許された。

 髪が切れたとて、痛みもなければ血がでることもない。けれど、それも間違いなく寧琅の一部であり、寧琅に体を張らせてしまったのは事実だった。

「寧琅様、ありがとうございます」

「礼を言われるようなことをした覚えもないな」

「してくれたでしょう? 寧琅様がいなければ、僕はあの村会議で追いやられていました」

「それに対する礼はさっき聞いた」

「それだけじゃありません。川に溺れたときも、茗蓉で兵士たちに囲まれたときも、助けてくれて」

「その礼ももう聞いている」

「寧琅様がいらっしゃらなければ、僕はとっくのとうに死んでいました……いや、もう、死んではいるんですけど」

 試練の舞台からあっさりと降り、死よりも切なく虚しい、消滅の一途を辿っていたに違いない。

「それは、俺も一緒だろ。お前がいなかったら、俺はそもそも、この試練を放棄していた。消滅していた」

 しかしそれは、寧琅にとっては本望だったはずだ——。

「俺は、人間が好きだった」

 曇り空から雨粒が一粒落ちるような静かな声で、寧琅が言った。

「生まれてからずっと、現界でのあちこちを巡っては人間と共生していた。その中でもある国を気に入って、しばらく滞在していた。その最中に、神であることがばれてからも、その村のやつらは俺と親しんでくれていた……親しんでくれていると、俺は信じていた」

 はじめて聞く寧琅の過去に、告の胸がさわりとざわめく。

「だがあいつらは、俺を戦争の兵器と見做した」

「……戦争の、兵器って」

 過去を無理矢理に探る気はなかった。けれど、寧琅が話し出してくれると、なにがあったのか、気になっておずと尋ねてしまう。

 寧琅はおもむろに瞬いて、続けた。

「その国には対立している国があった。だが、長く冷戦状態にあって、俺が住んでいたその国は平和そのものだったから、俺はさほど気にしていなかった。国民も、たまに向こう方の悪口を言うだけで争おうとしているようには、見えなかった……だが、本当はずっと、戦火を灯す機会を窺っていたんだ。そこに神が現れたものだから、縋られて……火が、悲鳴が、血が、死が、そこいらに溢れた」

 細んだ青い瞳は、告を、この世界を見ていないようだった。どこか遠く——かつて見たのだろうその景色を思い浮かべているようだった。

「挙句、戦争に敗れた暁には、俺が振り向かなかったせいだと喚き散らかされたわけだ」

 寧琅は嘲るように笑ったが、その表情は、声は、告の胸を酷く切なくさせた。

「俺は今でも、神に戻りたいとは思っていない。人とはかけ離れた力を持つことも。人に信じられることも、期待されることも。利用され、裏切られることも。俺はもう疲れた」

 長い睫毛が、深青の瞳にそっと影を落とす。計り知れない痛苦が告の胸をつく。

「でも」

 少しして寧琅は告の上から退くと、傍に腰を下ろした。告が上体を起こすと、寧琅の手がまたそばに寄ってきて、告の額に触れた。先からの寧琅の仕草を理解できず不思議に思いながらも、前髪を撫であげられるのを甘んじて受け入れた。

「お前の輪廻の天課は何回だ」

「へ……えっと、百です」

「残りは?」

「九十九です」

「お前、これがはじめての死だったのか」

 寧琅はわずかに驚いたように瞳を見開いた。

「輪廻をすれば、前世の記憶は消える。再び死んで天界に戻ってきても、その記憶を引き継ぐことはない。そうだとしても——今のお前は、あと九十九回、輪廻することを受け入れられるのか」

 告の人生は、きっと、幸福に括られるものではない。

 菁も、愁眠も、告の前世での待遇をはじめて聞いたときは、今の寧琅のような切ない表情を浮かべていた。

 告も、幸福だったかと聞かれると頷くことはできない。素敵な神様に出会えた僥倖はあれど、村人たちに忌避されてきた日々の苦悲は、鉄槌を落とされたときの痛みは、告の内側にはっきりと残っていて、輪廻するまで消えることはないだろう。

「……叶うならあのあたたかな配達屋にずっと居続けたいって思っていました。前世で、誰とも関われない苦しみを知ったから、輪廻が怖くて……でも、その苦しみを知ったからこそ、もう二度と誰とも関われなくなるのが嫌だと思うんです。魂の消滅は嫌なんです。そうなると、輪廻する他ないでしょう」

「難儀なやつ」

 額から寧琅の手がそっと離れていく。持ち上げられていた告の前髪がはらりと落ちる。

「輪廻の度に記憶の継承はせずとも、悪行や心を荒む経験をすれば、魂は濁っていく。あまりに濁ると、義務を果たす前に処分されることもある」

「えっ、そうなんですか」

 それは、初耳だった。

「だが、お前は九十九の輪廻を繰り返しても、変わらなさそうだな。ずっと、馬鹿そうだ」

 寧琅はくすりと笑った。それは、これまで何度も見てきた嘲でもなければ、作り物でもない、はじめて見る色をしていた。

「お前は馬鹿なまま九十九の輪廻を越え、その先でまた配達屋でもやっていそうだ」

 寧琅の表情にすっかり見惚れていた告は、寧琅の言葉を一拍遅れに咀嚼し、瞬いた。

「輪廻の天課を果たしたら、また配達屋になれるんですか?」

「無事義務を果たした魂には、天界民となる権利が与えられる。配達屋をしていたのに、天界で悠々自適に暮らしている元人間にあったことないのか」

「それは会ったことがありますが……どういう経緯で天界民になったのかは、聞いたことなかったです」

 でも、それなら、九十九の輪廻の先には、またあのあたたかな職場に就職できるかもしれない未来が待っている。そう思うと少し心が弾む。が、しかし。寧琅も今しがた言っていたことが壁となって立つ。

「でも、輪廻したら配達屋をしていたことを忘れてしまうんですよね」

「天界民覚えおているから、その時はまた雇ってくれって頼めばいいだろ」

「……輪廻九十九回分の時が過ぎても覚えていてくれますでしょうか」

「お前らにとって九十九回の生は途方もないだろうが、俺たちにとっては大した年月じゃない。まぁ、その配達屋でのお前の影がよほど薄かったか、お前の雇い主らが義理のないやつらだったなら、ない話じゃないがな」

「影……は分からないですけど。でも、愁眠様も菁様もとても素敵で、やさしい方々でした」

 心から慕い尊敬できる彼らに出会い共に働けたことは、告の人生……今持っている記憶において、二つ目の僥倖だった。

「俺は、神に戻りたい気持ちはない。だが——お前が本当に変わらないまま九十九の輪廻を超えるか、配達屋として働くのかには興味がある。その未来を見届けるまでは、生きるのも悪くないと思っている」

 寧琅は自身の短くなった髪を指先でさらりと弄ぶ。

「面白い魂の観察権利を手に入れられるかもしれない礎としちゃあ、これぐらい安いものだ」

 ふ、と微笑む寧琅に、告の胸はきゅっと締まる。

 寧琅は今、出会ったときほど消えたいと思っていないということだろうか。それは——告に関心を持ってくれてたから、なのだろうか。

「は、おい、なんだその反応」

 寧琅がぎょっと目を見開く。それに反射した自身の姿を見て、告は今、自分が泣いていることに気づいた。

 寧琅は困惑しながら後ろ頭をがしがし掻くと、自身の袖を引っ張り上げて告の目元にそっと押し当てた。

「今のどこに泣く要素があった」

「嬉しくて」

 深青の瞳がわずかに細む。滲む光は、どこか呆れたようで、困ったようで、面映そうにも見えた。

「馬鹿馬鹿言われて、何が嬉しいんだよ」

「そのおかげで寧琅様が少しでも僕に興味を持ってくださったんでしょう。とても嬉しいことです」

 寧琅の唇がつんと尖る。

「馬鹿」

 これまで寧琅に馬鹿と言われるとむっとしていた。自分が賢いとはちっとも思っていないけれど、それはそれとして、雑言を向けられるのはあまり気持ちのいいことではない。けれど、今の寧琅が紡ぐ「馬鹿」は、十分に熟れた木の実を食んだときのような甘さを感じた。頭がちょっぴり痺れて、胸がほうっと温かくなる、よろこびがあった。

「……また天界に行けたら、寧琅様に会いたいです。観察だけじゃなくて、顔を合わせたいです」

「お前は覚えていないのに?」

「僕の未来を見届けると言ってくださったんですから、寧琅様は覚えていてくださるんでしょう?」

 告が微笑みかければ、寧琅は目を眇める。それから、寧琅は告の鼻をきゅっと摘んだ。

「なにするんですか」

「お前みたいな馬鹿はそうそう現れないから、忘れたくても忘れられないだろうよ」

 天課を果たして、もしまた、天界で仕事に就けることになったら。

 また配達屋になれたら、楽しいと思う。けれど、告の中には、もうひとつ、興味のある仕事が浮かんでいた。

 今まさに、仮という形で就いている、告にとって報いたい存在である神様の役に立てる仕事——神守。

 今回はあれよあれよという間に臨時の神守を託されたが、本来はどういう敬意でなれるものなのか知らない。だが、神様に使えるとなれば、きっとそう簡単になれるものではないとも思う。

 それでも、もし。告に少しでも可能性があるのならば、神守になれるのであれば、寧琅に仕えたい。

 今、苦楽をともにしているから。寧琅に何度も救われたから。彼をとても素敵で、やさしくて、やわらかな神様だと思うから。報いたいと思う。彼が前を向けるように、傷つかないように力になりたいと思う。

(寧琅様には神守はいないのかな)

 洞窟で出会ったとき、寧琅はひとりぼっちだった。菁や愁眠、霜天、そして寧琅自身が、彼の神守について触れることもなかった。

 気になるけれど、寧琅の過去に無理やり踏み込まないと決めた。あなたの神守になることに憧れを抱いている、と未来を口にする勇気も持てなかった。

 寧琅から馬鹿と言われても、もうむっとしない。睨まれても、呆れた顔をされても、傷つくことはない。

 けれど、もし、寧琅の神守になりたいと申し出て拒まれたら。とても、衝撃を受けてしまいそうな恐れがあった。

 寧琅が、告に興味を持ってくれたから。告の未来を見たいと言ってくれたから。親しみを抱き、抱いてくれた相手に拒まれるのが、怖い。

「……僕と離れることで生じる痛みより、僕がついていく方が、寧琅様にとって邪魔になりますでしょうか」

 暗い方向に心が傾いた副作用か、ひんやりとした冷静が苦い分析を産む。

 告は寧琅に痛い思いをさせたくない。だが、寧琅と共に行動すると、彼に自分を守らせてしまう。

 寧琅は少しでも面倒が膨らまないように告に頼るように言ってくれた。だが、そもそも告がそばにいなければ寧琅は告を守ることなく自由に動き回れるのではないか。その方がいいと思ったから、寧琅は今、一人で森に向かおうとしているのではないか。嫌われたくなかったら、拒まれたくなかったら、このまま彼を見送るべきなのではないか。

 でも、寧琅をひとりにしたくない、寧琅についていきたい自分がいる。それは、寧琅に痛い思いをさせたくないという願いだけによるものなのか。ぐるぐるぐるぐるぐる……壺の中で暗い液体をかき混ぜているような心地だ。

「そりゃあ、ひとりの方が行動はしやすいだろうな」

 目が回ったみたいにぼうっとしていた意識が、正直な言葉にぐさりと刺される。

「そ、そうです、よね……」

「それに、怪我人を真夜中に連れ回す趣味もない。だが、それで「はい分かりました」って素直に頷いてくれるお前じゃないことも知っている」

 寧琅は腕を組んで肩を竦める。告は寧琅の迷惑になるのであれば、遠慮する、できると口にしようとした。だが、おもりでもついたみたいに口がなかなか動いてくれない。それどころか、すぐそこにある寧琅の袖を掴んでしまいたい衝動に駆られる自分がいる。

 寧琅に痛い思いをさせたくない、だけじゃないのかもしれない——告がただ、この神様と離れたくないだけなのかもしれない。それこそ、自分勝手な我儘だ。母から離れられない幼子じゃあるまいに、本当にどちらがお守りなんだか。その呆れに背中を押されるように、重たい唇を開く。

「それに俺も、お前がいねぇと試練に臨むやる気が起きねぇ」

 が、告が何を言うよりも先に、寧琅が言った。

「だから、お前がついてくるというのなら、拒まない」

 告はぱちりと瞬く。寧琅は柔らかく細めた瞳で、告を見る。

「先にも言った通り、俺がお前を見ててやる。お前が何をしても、俺が守ってやる」

 大きな手のひらが告の頭に乗った。寧琅は告の髪をくしゃりと混ぜると、立ち上がる。

「で。一緒に行くのか」

 この神様は何度自分のことを救ってくれるのだろうか。

 暗く沈んでいた心はさっぱりと明るい場所に引き戻される。まるで告の心を読んだみたいに、拒まないと明言してくれた寧琅を仰げば、その眩しさと暖かさに胸が張り裂けそうになる。

(……前を輝かせるために努力せよ)

 胸元できゅっと拳を握り締めて、告はぱっと立ち上がった。勢いがよすぎて意識がぐるっと歪み立ちくらんだが、寧琅が背を支えてくれた。

「早々お前を支えることになるとは思わなかった」

「えへへ、すみません」

「えへへ、じゃない、馬鹿。気をつけろ、馬鹿」

 責めるときの癖なのか、寧琅は告の鼻をまたもやきゅっと摘むと、ぱっと離した。

 今の告にはちっとも想像できないが、それでも、この試練を無事に乗り越えたら、輪廻をすれば、そのときは訪れる。前世の記憶も、天界での記憶も、寧琅とこうして試練に立ち向かった記憶も、全部消えてしまうときが来てしまう。

 ならば——寧琅の神守となって、彼に報い力になりたいと思うのならば、この記憶があるうちに、掛け合ってみるほかない。

 試練が終わったら、伝えてみよう。その結果がどう転んでも、寧琅が相手ならば、告はきっと、受け入れられる気がした。

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