花雨

第8話

 光の気配に少しの気怠さをもって瞼を持ち上げると、右方の壁に設られた窓牖から朝日が注いでいた。

 天井は藁葺きだった。見た瞬間、告の胸は引き攣った。かつてあの村で——孤独に暮らしていたあの村で、告が暮らしていた家の屋根も、藁葺きだった。

 今視界に映っているのは、告の記憶にあるものよりもずっと劣化していない。それに、こんなにやわらかな布団を掛けたことも、背を預けたこともなかった。告の家にあったのは、綿が潰れきった煎餅布団だった。

 両親がいたころからずっとそうだったから、それが普通だと思っていた。けれど、供物になる前夜、心身を清めるためにと与えられた空き家の布団はふんわりとしていたから、きっと、あの村の中でも告の家はいっとう貧しかったのだろうと知った。

 どうして貧しかったのかは、定かではない。ただ、告の両親がまだあの村にいたころ、彼らが毎日ちっとも楽しそうじゃないことだけは……むしろ、日に日に鬱屈とした雰囲気を醸し出していることだけは、なんとなく感じていた。あの人たちには、あの村での人間関係や生活が、合わなかったのかもしれない。その末に、告の両親は村の財を盗んで夜逃げした。いつものように寝て、いつものように目覚めて、藁葺きの天井を見ながら体を起こした告は、いつもとは違う家の中の景色に呆然としたのを、思い出す。

 両親は鬱屈としながらも、それでも、告にはやさしく接してくれていた。けれど、告のことは連れて行ってはくれなかった。

「告様、起きられましたか」

 左側から、女性の声がした。

 目を向ければ、そこには、妙齢の女性がいた。黒い髪をきっちりと引っ詰め、面立ちは柔和。右頬に泣きぼくろがある。

 当然の如く、知らない顔。だが、瞳の色にはどこか覚えがあった。

「あの、ここは」

「芙佳の村です」

「芙佳……」

「私は弥生やよいと申します。うちの子が大変ご迷惑をおかけしたようで。本当に申し訳ございません」

 弥生と名乗った女性は、深々と頭を下げる。

「うちの子って」

「……うちの弟が、告様の大切なものを盗んでしまったにもかかわらず、川に落ちたところをお助けいただいたと伺いました」

 あ、さっきの子、と思い至る。

 今そばにいるのは彼の姉で、ここは芙佳にある彼の家らしい。

 上体を起こすと、細く開いた襖の隙間からじっとこちらを窺う気配を見つけた。

 目にかかるほど伸びた黒髪、そこから覗くガラス玉のような澄んだ瞳。視線が絡むと、それはぎょっと見開かれて、左右に彷徨う。

 そこにいたのは、あの森の中で告と出会った男の子だった。姉弟ゆえか、未助と弥生はとてもよく似た目の色をしている。

未助みすけ。おいで」

 弥生も気づいたようで、少しだけ厳しくなった顔つきで男の子を手招いた。

 す、す、すとゆっくり襖が開かれる。姿を現した未助と呼ばれた男の子は、肩を縮こまらせて俯きがちに、告の方に近づいてきた。

 未助は弥生の横で正座する。姉に促されるように背をさすられると、未助がぽつりと言う。

「……ごめんなさい」

 綺麗な瞳の表面にぷっくりと涙が浮かぶ。

「お兄さんのもの、盗んでしまって、ごめんなさい。お兄さんに、ひどいことを、してしまってごめんなさい」

 時雨の降りはじめのように、ぽつ、ぽつと未助は謝罪の言葉を零す。未助の瞼は上下ともにすっかり赤く腫れていた。告が目覚めるまでにも、さんざん泣いていたのだろうと思う。

「あなたは……未助様は、無事でしたか?」

「はい……」

「それなら、よかったです」

 未助のきゅっと握られた拳に手を重ねる。未助は少し驚いた顔で告を見て、それから、涙を零した。

「えっ、えっ、ど、どうしましたか。実はどこか怪我していらっしゃいましたか?」

「お前が責めないからだろ」

 飛んできた声は聞き馴染みのある低音だった。開いた襖のところに寧琅が立っていた。

「そいつのせいでお前は川に飛び込んで、そいつのせいでお前の傷は開いて、そいつのせいでお前は意識を失った」

「ね、寧琅様、そんな言い方」

「事実だろ。こいつだってそれを分かって、罪悪感を抱いていた。お前のことを、心配していた。なのに、お前が起きて真っ先にしたのは、先の出来事を責めるどころかこいつの心配とくりゃあな。こんなガキなんかは、感情のやり場がなくなって泣きもする」

 歩み寄ってきた寧琅は未助の横に腕を組んで見下ろす。

「誰かのために頑張ろうとする気持ちは自体は悪くねぇ。だが、自身を危険に晒して、第三者に迷惑をかけて。もしお前が、怪我をしたら、恨まれ仕返しをされたら。お前の行動は、本当に誰かのためになっていると言えるか。むしろ心配や迷惑をかけてやいないか」

 未助は寧琅を仰いで瞳をまあるく見開くと、しょんもりと項垂れた。その痛ましい姿を見てもなお、寧琅は容赦なく続けた。

「そこんところを考えられていない頑張りは、ただの自己満。空回り。馬鹿のやることだ」

 じろり。寧琅の瞳が告の方に一気に傾いた。告の背に嫌な汗が滲む。

「泳げもしないくせに川に飛び込んだ馬鹿にも言っている」

 ……言われずとも。

 しかし、思考よりも勝手に体が動いてしまったのだ。いや、そのあまりにも衝動的で反射的すぎる行いを、寧琅はただの自己満、空回り、馬鹿のやることだと言っているのだろうが。実際、もし、あの場に寧琅がいなかったら。告はただ未助を追って飛び込んだだけの人になっていたかもしれない。未助のことを助けられず、一緒に溺れていくだけになっていた。

「ご迷惑をおかけしました……」

「お前はもっと視野を広く持て」

「視野」

「あのときお前には他にも選択肢があった」

 他にも選択肢があった。というと。

 きょとんとする告に、寧琅はむっすりと目を細めた。

「お前には、俺が見えていなかったのか」

 告はぱちぱちと瞳を瞬かせた。ずっと隣にいたのだから、見えていないわけがなかった、けれど。

「えっと」

「……」

「それは、もしかして」

「……」

「いや、でも」

「チッ!」

 寧琅は盛大に舌打ちをすると、告の傍にしゃがんで、告の頬を摘んだ。

「今思ったことを、はっきりと、言え!」

 躊躇はありながらも、凄まじい圧におされるままに、告は脳裏に浮かんだそれを口にした。

「た、頼っても、いいってこと、ですか?」

「そう言ってんだろ!」

「でも、寧琅様のことを……?」

「……そもそもこっちは、お前に巻き込まれてこの旅路についた。それなのにこの程度のことに遠慮すんのか」

 寧琅はもともとこの試練に乗り気ではなかった。彼自身は試練を放棄しこのまま刑期が訪れて処刑されてもいいと、むしろされたいと思っているようだった。

 それでも、寧琅は今、告に同行してくれている。告の消えなくないという思いのために、同行してくれている。

 そして告は、寧琅に少しでも前向きになってほしいと思っている。そのために告にできることがあるかと言われたら、分からない。

 ただ、巻き込んだ挙句、寧琅の力に甘えて頼って迷惑をかけてうんざりさせてしまうのがよくないことなのは想像つく。

 告がなにも言えずにいると、寧琅はいっそう眉を顰めた。

「お前にとって俺はそんなに頼り甲斐がないやつか」

「そんなわけないです!」

 これだけさんざん助けられておいてそんなこと思っているはずもない、ないけれど。寧琅はどうして、こんなにも怒っているような、困っているような面持ちで食い下がってくるのだろうか——そう考えてからようやく、は、と理解した。

 寧琅は何事かに傷つきやさぐれながらも、面倒見よくやさしい心をその根に持っている。だからきっと、目が届く範囲で告の身になにかあれば、今後も助けてくれてしまうだろう。

 だが、なにかがあってから動くとなると、どうしたって焦りなどが生まれ、心身ともに負荷がかかる。それなら余裕がある状態のうちに予め頼られた方がまだマシだと、寧琅自ら少しでもうんざりしない方を主張してくれているのかもしれない。

「なるほど」

 告はぽんと手を打った。

「想像が至らなくてすみません」

「……」

「僕、ちゃんと寧琅様に頼れるように、頑張ります!」

 寧琅の意見を無下にせず、少しでも彼に迷惑がかからないように頑張らなくては。

 拳をきゅっと握って寧琅を見れば、彼は呆れきったように深々とため息を吐いた。

「へ、なんかダメなこと言いました?」

「ダメっつうか……馬鹿なこと考えただろうなと思っただけ」

「ちゃんと寧琅様にご迷惑をおかけしないようにしないとって考えてますよ」

「そういうところだ、馬鹿」

「どういうところですか⁉︎」

 寧琅は肩を竦めるのみで、そういうところがどういうところなのかは答えてくれない。

 いったい寧琅は告の何に引っ掛かっているのか、もとい、馬鹿だと思ったのか。さらに食い下がってみるも、寧琅は呆れきった様子で瞳を閉じてぞんざいな相槌を打つばかりだった。

 と、ころころと鈴の鳴るような笑い声が聞こえた。口元に手を当てていた弥生は、告と寧琅が揃って向けた視線を受けると、はっと頬を染めてへこへこと頭を下げる。

「すみません、お二方の会話が、なんだか微笑ましくて、つい。お助けいただいた礼には不十分かとは思いますが、お身体がよくなるまで、ここでお寛ぎいただけたらと思います」

「そんな、お気にならさらずとも、もう——」

「川に溺れて濡れもしたんだ。無理はするもんじゃない」

 告の言葉を遮って、寧琅が言う。それに弥生もこくこくと頷いた。

「そうですよ。傷に菌も入ってしまっているでしょうし、そんな状態で無理をして風邪をひいたりしたら、大変なことになります」

 ふたりの告を慮ってくれる言葉は嬉しかった。だが、腕が少し痛い程度で、意識も頭もすっきりしている。わざわざ一室を借りて静養させてもらうほどのものでもない。

 そう言おうとしたら、寧琅の手が告の手の甲に乗り——きゅっとつねられた。

「ね、寧琅様?」

「さっきの様子を見てなんとなく気づいていると思うが、こいつはちょっと面倒くさいくらいに遠慮深いやつなんだ」

 そう言うと寧琅は、告の耳元に唇を寄せた。

「どうせ真っ向から突っ込んだって、神器は取り戻せない。だが、盗賊になるわけにもいかないんだろ」

 ならば、どうする。

 と、寧琅が告の耳元から口を離すと、青い瞳を細めて告を見た。その続きは、自分で考えて理解しろ、とでも言わんばかりに、少し挑戦的に。

 天から課された試練として、寧琅の神器を取り戻さなくてはいけない。だが、神器がある茗蓉に戻ることは難しく盗賊になるわけにもいかない。

 そんな手詰まりの折、未助に出会い、茗蓉と芙佳のただならぬ関係を知った。

 茗蓉で出会った蓮樹の兄は、茗蓉に長期滞在すると芙佳の呪いが降りかかるかもしれないと言っていた。

 芙佳の民である未助は、芙佳の呪いは茗蓉が先に同胞を殺したことをきっかけに起きたもののように言っていた。

 芙佳の呪いとはおそらく花化症とやらだろう。

 ふたつの国に横たわるその因縁は根深そうに感じるし、それに触れたところで、告と寧琅の試練に繋がるとは限らない。

 だが、軽率に茗蓉に近づけないこの状況なら、それでも茗蓉に近づく術を探すために、芙佳で彼らの因縁について調べてみるのもありかもしれない。

 寧琅の中にはその考えが既に浮かんでいて、滞在しようと言ったのだろうか。

 顎に当てていた手を外して寧琅の方を見れば、彼はおもむろにひとつ、瞬く。

「すみません。僕からも、お願いいたします」

「ええ、もちろん。たいしたおもてなしもできませんが」

 弥生がにっこりと微笑みを浮かべたが、未助から聞いた話ではこの村の状況はよくない。そのために、未助は告から羅針盤を盗もうとした。他人にもてなしなんてしている余裕はきっとないだろう。

 むしろ、こちらの都合で滞在させてもらいのだから、こちらがなんとかお礼をしたいくらいで——。

「とりあえず、朝食にいたしましょうか。さっき、寧琅様が木の実ときのこをずいぶんとたくさん採ってきてくださったんです」

「へ」

「ここらの森は少し前から萎萎としていたのですが、一部だけ元気な場所があるなんて、驚きました。村人たちで探索しても見つけられなかったのですが……お二方は旅をしているんですよね? あちこちを転々として生活している方は、やはり、そういった生きるのに必要な場所を見つける目や勘が優れているものなのでしょうか」

 それはもしかしなくても、茗蓉から逃亡して降り立ったあたり、寧琅が力を使って豊かにした場所ではないだろうか。

「早速支度をして参りますから、少々お待ちくださいね」

 弥生はすっと立ち上がる。

 そのとき、ふんわりと甘い、花のにおいがした。

「未助もきなさい」と弥生が呼ぶと、まだ告のことを気にした様子の彼が、ちらちらとこちらを見ながらも腰を上げる。森で出会ったときにも感じたように、彼からもまた、花のにおいがする。弥生と未助のにおいはとても似ているように感じた。

 二人が部屋を出てすっと襖が閉ざされるなり、告は半目で寧琅を見た。

「……寧琅様」

「なんだ」

「ひとりで遠くに行かれたのですか」

「俺たちはこの村に用がある。一日二日ならまだしも、現界にいる間ずっと野宿生活するのもごめんだ。そもそも、こんな小さな村に余所者が何度も出入りしていたら、怪しい」

 寧琅が三つの指を折り曲げて言う。

「だから、賄賂を用意した。あのガキが食料に困っているって言ってたから、それを差し入れたら滞在ぐらいは許してくれるだろうってな」

 神様が賄賂とは。

 なんともいえない気持ちになるが、しかし、寧琅の行いは自分たちにも、そして未助たち家族にも、益になっている。なっているけれど。

「……痛くは、なかったですか」

「さぁ、どうだろうな」

「どうだろうなって」

「ここからあの森までそれなりに距離もあったからなぁ」

「あ」

「お前が意識を失っていなけりゃあ、連れて行けたんだがな」

「おああ……」

 川に飛び込んだ後に寧琅に助けてもらっただけでなく、痛い思いまでさせてしまっていた。霜天から下された契約により、寧琅は告との間に距離が生じるとその身に痛みが走るようになっている。もう二度と、彼にその痛みを味わせたくないと思っていたのに。

 衝撃的だったし、申し訳なさで胸がいっぱいになる。

 謝ろうとしたら、それより先に寧琅が「意識を失ったことを責めてるわけじゃない」と言った。

「もう二度と俺に痛い思いをさせたくなかったら、もう二度と俺から目を離すな」

 寧琅がじっと告を見つめる。そのまっすぐさに、青色の深さに、吸い込まれそうになる。心臓がどきりと鳴る。

「——って言ったところで、もしまた川に落ちたガキがいたら、お前は俺のことを考えるより先にどうせ飛び込む」

 そんなことない、と反論したい気持ちはあったが、否定しきれないとも思ってしまった。

 寧琅からの注意は身に染みたし、迷惑をかけないようにしたいとは間違いなく思っている。

 だが、告はちっとも器用じゃない自覚があり、すぐに衝動を飼い慣らして理性を呼ぶ隙間を作れる自信はなかった。

「……でも、お前がそういうやつだから」

 寧琅はぽそりと呟くと、告の頬を指の背でそっと撫でた。ひんやりとした滑らかな皮膚がやわらかく擦れるのは心地いい。

「仕方ないから、俺がお前を見ててやる」

 短く息を吐いた寧琅が、言った。

「へ」

「お前がどれだけ突っ走って空回っても、尻を拭ってやるって言ってるんだ。だから、お前はやりたいようにやれ」

 この世界には、海というものがあるらしい。

 告は一度も本物を見たことはないどころか、天界で霜天に借りた物語を読んではじめて存在を知った。そして、海とはどういうものかという絵も見せてもらった。

 それがとても、美しかった。

 川や池とも違う。深々とした青を讃え、太陽の光に水面を煌めかせながら、広くおおらかに波打つ存在。

 世界の七割をも占めているらしく、一度海に出れば世界を巡れるという。

 ふっと笑った寧琅の、やわらかく細んだ青い瞳は、あの憧れた海を彷彿とさせた。

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