第7話

 日が傾くと、寧琅はすぐそばの枝木を折り集めて、火を焚いた。木と木を擦り合わせて地道に火を起こすその手つきはやけに慣れているように見えた。

「どうやって寧琅様の神器を取り戻しましょうか」

 告と寧琅は、寧琅の神器を取り戻すために現界に訪れている。

 天界の洞窟で出会ったときと比べると、寧琅との距離はどことなく縮んだように思う。寧琅と森の中で過ごした時間は穏やかで心地よかったけれど、いつまでものんびりしているわけにもいかない。ふたりの猶予には限りがある。

「もうあの街には戻れないだろうがな。どっかの誰かさんが、いかにも俺たちを怪しんでいる兵士に嬉々として神楽鈴のありかを聞いちまったから」

「つい……」

 兵士が蓮樹たち兄弟を追っているのではないかと警戒していたら、そうではなかったと安堵したところに、神楽鈴の話題が出て舞い上がってしまった。

「ま、国宝扱いされてんならどっちにしても、簡単に取り戻せるものじゃない」

「本来は寧琅様の所有物っていう証拠とか、ないんでしょうか」

 なぜか、寧琅はじっと告を見つめる。

 と、寧琅の手が告の胸元に伸びてきたかと思うと、衣をがばりと開かれた。

「寧琅様⁉︎」

 突然のことにびっくりして声を上げるが、寧琅はちっとも動じず、告の左胸に触れた。

「俺の所有物には、俺の印証が刻まれる。お前も、一応今は俺の神守だから、ほら」

 ぱちりと瞬いた告が寧琅が触れている部分に目をやる。鎖骨の下に手のひらほどの大きさの、いくつかの円を組み合わせた、花のようにも見える印があった。

 撫でてみてもせることはなく、凹凸もない。ただそこに白銀の線が浮かんでいる。

「俺の胸にも同じものが刻印されている」

「寧琅様とお揃いなのですね!」

「……そりゃあ、俺の印証だからな」

 寧琅はひとつ咳払いをして、告のあわせを直す。緩んでいた紺の腰紐も結び直してくれる。

「俺の神器にも同じものが刻まれている。が、それを主張したところで、意味はないだろうな。国宝を奪うためにくだらない屁理屈と細工を用意した阿呆だと思われ処されるのが関の山だ」

 たしかに……国の宝にまでなってしまっているものを、所有印があると主張したところで譲ってもらえるとは思えない。

「神器は俺の力に呼応するが、それも、神器を見せて触れさせてもらえなければどうしようもない。まぁ、それができたところで、俺が神様で、それが神様の神器だって、どれだけのやつが想像し得るか、信じてくれるか」

「でも、この国の方々は信心深い方ですよね」

 寧琅は意外そうにわずかに目を開いた。

「どうしてそう思った」

「茶屋のそばに小さな祠があったんです。綺麗に手入れされていたし、ちょうどお参りしている人がいたり、供物も置かれていたから」

 そういえば。あの祠でお参りしていた女性からも、寧琅から香るような花のにおいがしていたことを、ふと思い出す。

「へぇ、完璧にぽんこつってわけじゃないんだな」

 ちんちくりんと馬鹿だけでなくぽんこつとまで思われていたのか……いや、実際、先の失態を思えば、まったく否定しようもないことなのだけれど。

「たしかに、この国は信心はある方だろうな。迷子探しの最中に、街外れの廟について話してるやつらを見かけた。相当立派で出入りも多いらしい。それに、ここで祀られている神がわりと最近に来訪した気配が残っている」

「そういうの、分かるものなんですか?」

「ただ来訪したってだけじゃ、さすがに分からないが。力を使った痕跡があった」

「それって、誰かの願い事を叶えた、とか?」

 告の脳裏にはかつて出会った神様の姿が自然と浮かぶ。

「そんなに素晴らしいものじゃない……いや、人間からしてみれば、これだって十分素晴らしいものなのかもしれないな。ここには運気の神が祀られているって聞いたろ。そいつがばら撒いたであろう「運気」のを纏わせたやつが何人もいた」

「運気の気?」

「纏っていたら、少しだけいいことが起こりやすくなる。数日もすれば効果は切れるが」

「へぇ……! すごいですね! ここの神様はそんな力を大勢の人に与えているのですか」

 感心に瞳を煌めかせる告に、寧琅は呆れたように眉を顰めた。

「……別にあれ・・は慈しみややさしさからそうしているわけじゃねぇ。多方面で祀られているから暇じゃねぇが、これだけ大勢に信仰されたら、それなりの厄介も生まれる。ただひとりを厚遇したら、他のやつらが妬心し信心を失うかもしれない。そうなれば力を失ってしまうから、平等に、ほんの少しずつ、運気をばら撒いている」

「信者は一人でも多い方が、神様の力になるのですか」

「そうとも言えるし、そうじゃないとも言える」

 首を傾げる告に、寧琅は続けた。

「信仰心の総量が肝要だ。それなりの信心を持っている大人数に信仰されている神と、全てを捧げんばかりの信心を持っているひとりに信仰されている神が争いを起こした場合、互角に戦える」

 青い瞳がちらりと、こちらに傾く。

「この国と神の関係は前者だ。神という存在を大切にはしているが、すべてを捧げるほど信仰している人間がいるようには思えない。縋らなくちゃやってられないほど貧しくもなく、それほどの施しもされていない。それでいい均衡は取れているんだろうがな」

「へぇ……」

 信仰を集めている神様の在り方と、神様を信仰しているだろう国。未知の世界と価値観に少し驚きながらも、それでも、と告は思う。

「やさしさからじゃなくても。それが神様自身のためだとしても。みんなにに少しでもいいことが起こるよう施してくれるのは、やっぱりありがたいなことだなって思います」

「お前は神をいいように捉えるきらいがある」

 寧琅は少しむっすりとしながら、近くにあった木の枝をぽいと焚き火に放った。

「信心稼ぎにあえて災いをもたらして、窮地に駆けつけたふりをしたっていう神もこの世にはいるぜ」

「えっ、そんな神様もいらっしゃるのですか。それは……許されることなのですか」

「当然処された」

 ほっと胸を撫で下ろすと、寧琅は「ほら、そういうところだ」と言って、もう一本、枝を放った。

「人間がそうであるように神もさまざまだ。いいやつも、悪いやつもいる。種族で一括りにして見ていると、いつか、痛い目に遭う」

 寧琅が放った枝に火が燃え移る。焚き火が、熱と光を保つための糧となる。

「お前が〝すべての神様に感謝〟するに至った経緯は、馬鹿だと思うが、理解したし、否定する気もない。俺がもし悪計を愛する神だったら。お前なんか、今頃、何をさせられていたかわかったものじゃない」

 あたたかな光にちかちかと照らされる寧琅の顔を見つめる。

「でも、寧琅様は、悪いことを考えていないでしょう」

「は?」

「試練を拒もうとはしましたけれど」

 たしかに、寧琅様の言うことも、なんとなく、分かってはいる。神様だからって、全員が全員、やさしいわけじゃないんだろうってことは。でも。

「うまく、言えないんですけど。あのお方と、寧琅様と。僕は、やさしい神様にしか会ったことがないんです」

「は」

 ぽかんと丸くなった青の瞳が告を見る。

「俺がいつ、お前にやさしくした」

「えっ、本気で仰っているんですか? 寧琅様は試練を拒みたいのに、僕が消えたくないって話をしたら、神器探しをしてくれてるじゃないですか。兵士に囲まれそうになったとき、手を引いてくれたじゃないですか。手当てもしてくれて、それに、今は、僕のことを心配してくれているじゃないですか」

 寧琅の瞳がこぼれ落ちんばかりに見開かれれる。その眦が少し染まって見えるのは、火の光と熱に当てられてのものだろうか。

「実際には、下天に遊びにきている神様も遠目に見たことはありますけれど。でも、僕がちゃんと会って話したことがある神様は、お二方だけで。そのどちらにもやさしさを、救いを、与えてもらったから。僕はやっぱり、神様に感謝したいって思います。神様の力になれることがあったら、頑張りたいって、思います。自己満感謝の意慈善活動、上等です」

 告はきゅっと拳を握って見せる。

 寧琅は眉間に皺も寄せず、瞳を細めず、どこにも力が入っていないような顔で告を見つめた。

「……じゃあ」

 薄い唇が、ぽつりと声をこぼす。

「そいつと、俺だけを」

 何かを言いかけた寧琅が、は、と息を呑んで、手で顔を覆った。

 黙り込んだ寧琅に、告はきょとんと首を傾げる。

 やがて寧琅は深々と息を吐くと「とにかく」と言った。

「信心があるからといって、人智を越える力を前に「このお方は神様じゃないか」なんてめでたいことを考えるやつは、そうそういないだろ」

「えっ、そうなのですか?」

「……もしかしなくても、それだけで信じたのか、お前」

「えっと、なんというか……そうとも、そうじゃないとも言えるというか」

 告は社の前で泣いていたところ、かの神様に声をかけられて、出会った。

「僕がいた村には、僕に話しかけるような人がいなかったので。最初は余所から来た人かとも思ったんですけど。それにしては、なんか、その方の雰囲気が不思議だったというか」

「おい、まさかそれだけで」

「いや、ちゃんと、もしかして神様ですかとも聞きましたよ!」

「……」

「それに、ひとつだけ願いを叶えてやると仰られたので、お願いしたら、本当に叶えてくれたので」

「願い、ね」

 しばし、呆れた半目の視線が告を刺した。

「世の中、お前のようなバ……純粋なやつばかりじゃない」

「寧琅様、誤魔化せてないです」

「もしこういう国で、神を名乗って力を使ったら、最悪神冒涜している妖術師扱いされ即刻死罪だ」

 そういうものなのか。雨乞いを決意する前の告の故郷のように信心がない人間ならまだしも、神様を信じている人間でも神様めいた存在を前にして信じないものなのか。

 だとすれば、神器を取り戻すのは相当困難なことなのかもしれない。

「手っ取り早いのは、本当に盗賊になることだな。まぁ、もともと俺の神器だから、盗むもなにもねぇが」

 たしかに、もともと寧琅の神器だ。彼の視点から取り戻す、ということになる。

「でも、この国からしてみれば宝と認識されているものを勝手に持ち出してしまったら、禍根を残してしまうことにならないでしょうか」

 悲しい知らせと強い警戒が国中に広まれば、人々は暮らしづらくなるかもしれない。

 だが、それ以外にいい手があるかというと、浮かばない。

 正直、手詰まり。どうすればいいのだろうか、と呻きを零したとき。

 がさりと、草むらから音がした。

 獣でもやってきたのだろうか。

 告と寧琅はそれなりに長い間、森の中で過ごしていたが、獣の姿は見ていなかった。

 やがてそこから現れたのは、小さな男の子だった。

 背丈は蓮樹よりもいくらか高かった。だが、顔や手足の肉はだいぶ薄いように感じる。色白な右頬に切り傷の瘡蓋があり、それ以外にもところどころ細かな傷を顔や手足に負っている。衣服は質素で、茗蓉の人々が纏っていた蔦模様の意匠がない。

 目にかかるほどに伸びた黒髪から覗く、ガラス玉のように澄んだ瞳が印象的だった。

 男の子はふいにこちらに駆けてきたかと思うと、まるで隠れるように告の後ろに回った。

「へ」

 ぽかんとしていると、草むらがまた揺れた。そこから今度こそ、獣が現れた。耳をぴんと立て、鋭い目つきをした狼だ。

「現れるなり他人を盾にするなんて、ずいぶん肝のすわったガキだな」

 寧琅は告の背後に隠れた子どもをちらりと見てため息を吐く。それから、じろりと狼の方を睨んだ。

 狼と寧琅はしばしの間睨み合っていた。狼の気勢は次第に薄れ、やがて、くぅんと子犬のような声を零して退いていく。

「なにかしたんですか」

「別に、なにも。そんなことより」

 ふいに耳のすぐそばで、ぷち、と音がした。

 首にかけていた鎖がするりと抜ける。

 と、先の男の子が告の羅針盤を持ってどこぞへと駆けていく。

「へ、あ、ちょっと、待って! わっ」

 慌てて立ち上がったはずみに、衣装の裾が火に当たる。寧琅が咄嗟に鎮火してくれたおかげで少し焦げただけで済んだ。

「お前、そそっかしいな」

 ため息ひとつ、寧琅は告を片腕で抱えて駆け出す。

 男の子の背はすぐに見つかった。一瞬こちらを振り返った男の子は焦った表情をしながらも、すぐに正面に向き直って、草むらの中に飛び込む。寧琅がそこを手で漁るが、男の子の姿は見つからない。

「手慣れてんな」

 呆れた声で寧琅が言う。

 短く息を吐いた寧琅がそっと瞳を閉じた。

「あのガキ、どこいきやがった」

 静かになり、やわらかな夜風が吹き抜ける。

 やがておもむろに目を開いた寧琅は、少し眉を顰めながらも、ゆっくりとした足取りで、一本の木に近づく。その裏側を覗き込んだ。そこには、先の男の子が隠れていた。

 青い顔になった男の子は再び逃げ出そうとしたが、寧琅に襟首を掴まれ、つんのめる。

「さっき盗んだものを返せ」

「嫌だ!」

「どう考えても、お前の役に立つものじゃないだろう」

「六百耀にはなる」

 彼が口にしたそれは、告と寧琅が茗蓉を訪れてすぐに出会った古物屋が、告の持つ羅針盤を見てつけた値段だった。

「金が欲しい理由はなんだ。あの国で遊びたいのか」

 寧琅の問いかけに、男の子はきっとまなじりを決した。

「あんなクソみたいな国で誰が遊ぶか!」

 男の子は両手を大きく振り回し、足をばたつかせるが、寧琅はちっとも動じない。それどころか、告を傍に降ろすなり、空いた手で男の子の手からあっさりと羅針盤を奪い返した。

「返せ!」

「返せもなにも、元々お前のものじゃない」

 茗蓉に滞在していた時間は長くはないが、それでも、行き交う人々に貧富の差があるようには見えなかった。皆一様に、豊かな生活をしているだろう肌や肉体、衣服を持っていた。

 この身なりに、先のなかなかな言い様。彼は旅をしてきた者か、それとも近隣国の者だろうか——。

「あれ」

 ふと、男の子が動くたびに香るものを見つけた。

「花のにおい」

「あ?」

 寧琅が怪訝に告を見た。

「その子から、甘いにおいがして。寧琅様から香るみたいな、甘い、花のようなにおいが」

 わずかに驚いた顔をしたのは寧琅だけでなく、男の子もだった。

 じたばたとさせていた手足を止めると、口元ににやりとした笑みを浮かべて寧琅を振り返った。

「お前、花化症かげしょうに感染したのか」

「なんだそれ」

 きょとんとした告と寧琅に、男の子ははんと鼻を鳴らす。

「じいちゃんの言う通りだな。茗蓉は今、花化症のせいで休業者が増えいってて稼ぎがだんだん悪くなっているって。それでもあの上辺の華やかさを守るために、少しでも観光客を逃さないように花化症が流行していることを外には言ってないんだって」

 告と寧琅は顔を見合わせた。

 たしかに閉まっている店は多く、人の往来も道の広さに比べると少なく感じた。それはこの男の子のいうように、花化症というものが流行しているせいなのだろうか。

「……芙佳の呪い?」

 告の脳裏に、蓮樹の兄が別れ際に残した言葉がふとよぎった。

 ——あまりこの国に長居されないことをお勧めします。芙佳の呪いが、降りかかるかもしれませんから。

 彼が言っていた芙佳の呪いが、花化症というものなのだろうか。花化症とはいったい。

「あいつらが、俺たちの同胞を、殺したからだ!」

 顔を真っ赤にした男の子が叫んだ。もし寧琅に襟首を掴まれていなければ、今にも告の方に噛みついてきそうな勢いだった。

 彼の口から飛び出した物騒な言葉に、告は目を丸くする。

 霜天からも聞いていたように、茗蓉はいかにも治安がいい国という風情をしていた。まさか、人殺しが行われているなんて、ちっとも想像がつかない。

「その上に、茗蓉のやつらは俺たちとの繋がりを断ったんだ。あいつらは、俺たちの村に、食べ物や衣服が行き渡らないようにした。川の水も濁らせて、草木も枯らして、嫌がらせをしてきた……!」

 男の子はしばらく告のことを睨んでいたが、顔だけでぐるっと寧琅の方を振り返った。

「俺なら、花化症を治してやることができる。だから、代わりに、それを寄越せ」

 寧琅は短く息を吐いて、答える。

「やれないし、そもそも花化症とやらじゃない」

「そんなわけない。たしかにお前からは花のにおいがする。花のにおいがするのは、大体、芙佳族か花化症のやつだ。そして、お前は俺たちの同胞じゃない」

「花畑の世話をしているやつや、花を用いた匂い袋を持っているやつからだって、花のにおいはするだろ」

 男の子はぱちと目を見開いた。

「は、花畑なんてここいらにはないし。匂い袋? ってなんだよ」

「まぁ、俺から花が香るのはそのどちらのせいでもないが」

 寧琅がこちらを向く。

「試してみるか」

 その顔には薄い笑みが浮かんでいた。

 告がきょとんと首を傾げると、寧琅は告の方に羅針盤を投げ渡した。

「見てろ」

 空いた手で、指をぱちんと鳴らす。すると、突如、男の子の足元からにょきりと芽が生えた。五、六個ある芽が、男の子の腰ほどまで一気に成長し、白い蕾を膨らませた。

 男の子は困惑に目を白黒させていた。

 また寧琅が指を鳴らすと、白い蕾たちは一気に花開いた。夜の光を反射したその白い花は、とても、美しかった。

 寧琅が男の子の襟首から手を離す。男の子はその場に尻餅をついた。

「なに、なんだ、これ」

 怯えた顔で、男の子はおずおずと寧琅を見た。彼と視線が絡んだ瞬間、男の子は慌てたように立ち上がった。

「魔女だ!」

「誰が魔女だ」

 寧琅が呆れた声で突っ込む。

 試してみるか、というのはどうやら、神様の力を人に見せたら信じるかどうか、ということだったらしい。

 男の子はちっとも神様とは思わなかったようで、顔を青くして怯えきった様子で駆け出していった。

「獣を呼び出した狂言はできるくせに。びびりすぎだろ」

 ふ、と寧琅が鼻を鳴らす。

「どうする。あいつを追いかけるか?」

 この森には獣もいるし、それに芙佳の村や花化症とやらについても気になる——もしかしたら、手詰まりのこの状況にほんの少しだけでも、変化を起こせるかもしれない。

 追いかけましょう、と答えようとしたときだった。

 少し先を駆けていた男の子が横切ろうとした草むらが、がさりと揺れた。

 また狼が来たのかと告は身構えたが、しかし、そこから出てきたのはちいさリスだった。

 ほっと胸を撫で下ろしたのは束の間。寧琅が使った神様の力に怯えきったことで、彼の恐怖の沸点が下がっていたのかもしれない。男の子はリスの登場に大袈裟に驚き飛び跳ねた。その着地点が良くなかった。

「わぁ!」

 寧琅の力によって、ずいぶんと澄んだ色になった川。その縁に足をついた彼はそのまま体の均衡を崩し、どぼんと飛沫を立てて落ちた。

 川は流れこそはゆるやかだが水深がかなりあり、足がつかない男の子はじたばたともがく。

 告は咄嗟に、寧琅の方に羅針盤を投げるようにして返すと、川の中に飛び込んだ。

 必死に四肢をばたつかせて、男の子の元に近づく。やっと伸ばした指先が彼の襟首に触れて、なんとか引き寄せて小さなその体を胸に抱えた。

 そこで一安心した告は困ったことに気がついた。告は人生で泳いだことなど一度もなかった。しかも衣服を纏っていたこともあり、濡れて重くなったそれに引きずられて身動きが取れなくなっていく。どうしよう——。

「告!」

 寧琅に呼びかけられて、は、と告は顔を上げた。

 川縁に、顔を顰めた寧琅がいた。

「寧琅様、この子を」

 とにかくまずは、この子を陸にあげなくては。袖の重たさをなんとか堪えて腕を上げようとしたとき、ずきりとした痛みが走った。

 傷が開いたらしかった。寧琅が巻いた布から滲み出るようにして血が溢れていた。川の流れに合わせて、赤色がゆらゆらと流れていく。

「あ」

 男の子もそれを捉えると、引き攣った声を上げた。ガラス玉のような瞳からぽろぽろと零す。

「大丈夫、大丈夫ですよ。寧琅様が、助けてくれるから」

 川に溺れて、しかも血を見るなんて。余計に怖い思いをさせてしまっただろう。慰めの言葉を紡ごうとしたが、血が流れたからか、頭がぐらりとする。

 鈍いくらみに襲われる頭に、ぱちんと手を打つような音がした。すると、川水が突然、告たちを囲うように渦を作った。それから川水は告たちの体を下から押し上げたかと思うと、川縁の方へと流し下ろす。

 濡れそぼった告と男の子を残して、水だけ川のほうへと引いていく。

「大丈夫か」

 寧琅が傍で膝を折る。告は、胸元の男の子を見る。男の子は今にも泣き出しそうな顔で、告を見ていた。

(ほら、やっぱり。寧琅様が、助けてくださった。寧琅様は、怖い方じゃないですよ。だって、寧琅様は)

 男の子にそう教えてあげたかった。安心させてあげたかったのもあるけれど、こんなにもやさしい寧琅が怖がられたままのは、悲しかったから。けれど、告は頭がくらくらとして、言葉を紡ぐことができなかった。瞼が重い。思考がどんどんとまとまらなくなっていく。

「告!」

 切羽詰まった声で、寧琅が呼ぶ。

(そういえば、さっき、はじめて寧琅様に名前を呼んでいただいたな)

 胸の中にあたたかなものがじんわりと広がっていくのを感じながら、告は瞼を閉じた。

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