第6話

 寧琅が告を抱えたまま軽やかに着地した森は、湿度が高く鬱蒼としていた。あたりの広葉樹は萎れ枯れ、暗色の地面には細長い草がくったりとくたびれている。近くではうっすら澱んだ小川がせせらいでいる。

 天界から落ちてたどり着いた森とは、国を挟んで反対に位置するそこは、不思議なほどに雰囲気が異なっていた。

 寧琅は少しの間地面を見つめてから、そっと手を振った。すると、あたりの景色がみるみると変わっていく。地面にはに新たな芽がにょきりにょきりと生え、あたりの萎れていた草木もゆっくりと体を起こしては瑞々しい色に染まっていき、ところどこに小振りの花も咲き出す。小川の水の色も澄んでいき、暗い雰囲気が一気に明るんだ。

 そういえば、寧琅は花・水・木に愛された神様だと霜天が言っていたことを思い出す。

 やわらかな草が生えた木の根元に、今度こそ寧琅は告を下ろした。それから、自分の纏う衣装の裾を大胆に千切って、水に浸した。

「寧琅様、なにをしているんですか!」

 驚いて声を上げたら、寧琅は深青の瞳をじろりと動かし告を睨んだ。なんで睨まれているんだ。

 困惑している間に、寧琅は布の水気を絞って、告のそばに戻ってくる。と、告の左の二の腕にやわらかく当てがった。

 そこでようやく告は理解する。寧琅が突然自身の衣装を千切ったのは、告のためであることに。

 濡れた布は薄暗い血の色にすっかり染まる。それから告が止める間もなく、寧琅はまた裾を千切ると、今度は告の腕の傷を覆ってきゅっと結んだ。

「すみません……」

「なにが」

「手間をかけさせてしまって」

 にわかに、寧琅の気配がぴしりと凍った。

「……お前は、魂が消滅するのが嫌だから、俺の試練についてきているんじゃなかったのか」

 なんで突然そんな確認をとるのだろうか。告がきょとんと首を傾げつつ「そうですよ」と答えると、寧琅は顔を思い切り顰めた。

「なんで、俺を庇うような真似をした。俺の身に何かあったら試練が果たせないと思ったのか」

「それは」

 今思い返してみれば、たしかに、寧琅の身に何かあれば試練云々どころではなかったかもしれないが。

「寧琅様が危ないと思って、気づいたら、体が動いてて」

 放たれた刃物を捉えたあの一瞬の間に、試練のことを考えている余裕なんてなかった。

 告の答えに、寧琅は瞳をきつく細めた。

 それから寧琅はひとつ息を吐きこぼし、足元に目を落とした。

「神は神器がなければ、それぞれが持つ別才を十分に発揮することはできない。これらも残滓にすぎない」

 本来の力が発揮できなくても、これだけ自然の元気を興し、瑞々しい草花を咲かせられるのか。告が神様の凄さに瞳を煌めかせる一方で、寧琅の表情はいっそう暗く重たくなる。

「だが、すべての神が共通で持つ力は変わりなく備わっている。不死も、そのひとつだ。神はどれだけの傷を負っても一定の時間を経れば回復する。特定の手順で処刑しなければ死なない……死ねない存在だ。だが、神守は違う。神守は神のお守りに過ぎず、神ではない……不死ではないんだ。傷を負えば、死ぬ。死んだら、魂は消滅する」

 静かに、淡々と、寧琅が言う。

「お前が逃れたいと思っていた未来がめでたくも訪れるわけだ。よかったな」

 ふんと鼻を鳴らして笑う様は、しかし、告を嘲っているようには見えなかった。むしろ、寧琅の方が傷ついているように見えた。

「寧琅様」

 告は無事な方の手を伸ばし、寧琅の頬に触れ、きゅっと摘んだ。寧琅の眉がぴくりと跳ねる。

「なにしてる」

「痛いですか」

「これぐらい、痛くない」

「これぐらい、ってことは、もっと甚だしくなったら、痛いってことですよね」

 寧琅が怪訝に眉を顰める。

 告は摘んでいた手をそっと離す。

「たしかに、魂が消えるのは、嫌ですけど。でも、結果的には無事でしたし。寧琅様にも痛みがあるのなら、寧琅様が傷つかなくてよかったって思っています。僕の痛みは僕が我慢すればどうにかなるけれど。寧琅様の痛みを、僕にはどうにかする術はありません。ただ見ていることしか、できないから。そっちの方が辛いから」

 深青の瞳が、まあるく見開かれた。それは告を捉えて微かに揺れた。やがて寧琅は、下瞼を震わせながら、日差しを仰いだときのように瞳を細めた。

「お前、本当に馬鹿」

「そんな率直に言わなくても……たしかに、学はないですけど」

「そういう話じゃない」

 この短時間でもう何度目か、寧琅は深いため息を吐く。

「……なにもかもずれてんだよ」

 寧琅は告の隣に腰を下ろすと、左膝を立てて座った。

 これまでにない近い距離にきた寧琅に、告は少しどきりとする。先抱えられた時には気づかなかったけれど、寧琅からはほんのりと甘い、花のような香りが漂っていた。花・水・木に愛された神様だからだろうか。

「お前、なんで死んだ。道に飛び出した猫でも助けたか」

 分からない例えに首を傾げつつ、告は答えた。

「乾いた村に、雨を降らすために」

「あ?」

「雨乞いの、供物になったんです。そのとき、その村で一番新鮮と呼べるものは、人間でしたから」

 立てた膝に頬杖をついた寧琅は、忌々しげに口端を下げた。

「自ら志願したのか」

「いいえ」

「……じゃあ、無理やりか」

「そういうわけでもないです」

「じゃあ、どういうわけでそうなって、死んだんだよ」

 神様の問いかけに、告はほんの少しだけ逡巡して、答えた。

 ——村が旱魃に悩まされて、雨乞いをしようと決まったとき。村人たちは神様に捧げる供物について、少しの間悩んだらしい。

 乾ききった村にはろくな家畜も作物もなかった。

 そしてついに誰か口火を切った、この村で唯一生きがいいと言えるのは人間だろうと。

 運がいいことに、村には唯一の天涯孤独がいた。一応しっかりと生きている上に、死んだところで悲しむ人間もいない。供物にするのにうってつけの子どもが。

 村の人たちからずっと、そこにいるのに存在しないかのように扱われてきた告は、そうしてようやく彼らの目に映った。

「怒りとか、憎しみとかが少しもなかったとは言えないですけど。でも」

 告は揺れる木々の淡いから覗く空をそっと仰いで、記憶と思いをなぞる。自分の中の傷に手を伸ばせるようになったのは、死んでからのこと。今でも、話そうとすると、心音が少し速くなって、少し舌がもつれそうになる。

「もしかしたら、また神様が来てくれるかもしれないって、雨が降るかもしれないって、思ったから。僕は、神様に会ったことがあったから」

「……だから、村のやつらのために供物になることを受け入れたって?」

「僕は遅かれ早かれ死んでいたと思うんです。村の人たちに見てほしいって主張することもできなければ、あの村から逃げ出すこともできなかったから。勇気が、なかったから」

 それでも、神様に出会って、告は少しでも生きようと思った。頑張って、命を延ばしてきた。

「神様に救われた命で、なにかをなしたかったんです。このまま無駄にするくらいなら、誰かの心を癒して死ねた方が素敵だと思ったんです」

 なぞる記憶に、痛みが、悲しみが、達成感が蘇る。

 それでも、雨が降らなかったことを告はちっとも恨んでいない。

「自己満足感謝の慈善活動です」

 微笑みかければ、寧琅はちらりと告を見て、なにか言いたげに口をもごりと動かした。地面に生えた草を撫でていた手をわずかに浮かした。けれど、寧琅はすぐに口を閉ざし、手を下ろし、瞳を逸らした。

「……人間からの信仰は、その神が別才を揮う際の力になる。それだけ思われていんなら、きっと、その神は今、強い力を持っている。それで十分恩返しだろ」

 告はじっと、寧琅を見つめた。

 それはきっと、彼なりの励ましの言葉なのだろうと思った。

 それが、すごく嬉しかった。

 あのやさしい神様との出会いの思い出は、告にとってかけがえのない宝物だった。大切で、大切で、敬愛している菁や愁眠にも、誰にも言わずに胸に秘めていたもの。

 寧琅との言い合いでつい口走ってしまったし、今も語ってしまったけれど、なにかが損なわれた感覚も後悔もなかった。むしろ、話してよかったとさえ思えた。

「そうなのですね。名前を知らなくても、姿を知らなくても、亡者からの信仰でも、力になれますか!」

 つい前のめりに尋ねる。

 と、寧琅は告を見て、べっと舌を出した。

「さあな」

「ええ、大事なところなのに!」

「俺は俺の姿名前を知らないやつからも、亡者からも信仰された経験はないから知らねえ」

「じゃあ、寧琅様は誰に信仰されているのですか」

 話の流れから気になった、純粋な問いだった。

 けれど、きっとそれは、寧琅にとっては触れてほしくない話題だったのだろう。

 寧琅の顔から、さっと色が失せた。草木がやわらかくそよぐ音だけが二人の間に流れる。寧琅は薄い唇をわずかに開いた。

「もう誰も俺を信仰しちゃいない」

「え」

「俺を信仰していたやつらは、みんな、俺を裏切った。俺を裏切って、死んだ」

 寧琅は立ち上がる。

「出血、落ち着いたな」

 視線の先には、寧琅がちぎった裾の布で覆われた左の二の腕がある。寧琅は手先が器用なのか、巻き方も結び目も綺麗だ。

 布には広範囲で赤いシミが滲んでいるが、寧琅の言うように落ち着いたらしく、茶褐色に変色し乾いているようだった。

「お前、ここしばらくろくにもの食ってないだろう。亡者は、天界のものが食べられないから」

「え、は、はい……」

「人間として顕現しているうちは、現界のものを食すことができる。なにか、とってきてやる」

 振り返ることなく、寧琅は足を踏み出す。告は咄嗟に手を伸ばした。その裾を掴もうと思った。しかし、告のためにちぎられた裾は短くなっていて、伸ばした手は空を切る。

「待ってください!」

 それでも、今の寧琅をひとりでどこかに行かせたくなくて、告は前に転がるようにしながら必死に手を伸ばして、今度こそ、寧琅の裾を掴んだ。

「この馬鹿、なにしてる!」

 草むらにうつ伏せに転げた告を見下ろした寧琅がぎょっと目を見開く。

「だから、そんな率直に馬鹿って言わなくても」

「お前が馬鹿な真似するからだろうが。せっかく落ち着いたのにまた血が出てきたらどうすんだ」

 屈んだ寧琅が告の体を起こすと、腕に障りが出ないよう気をつけた丁寧な仕草で木に凭れかけさせる。それからまた離れて行こうとする手を、告はしっかりと握りとめた。

「寧琅様がお食事をされたいのなら、止めないのですが。もし、僕のためなら、どこにも行かないでください」

 寧琅の手のひらはとても冷たかった。

 告も体温が高い方ではないが、血が巡ったりどたばたと動いたのもあって、今はだいぶ上昇していた。少し、呼吸が荒くなるほどに。だから寧琅との温度差をよりはっきりと感じる。

「いってしまったら」

 この熱で、寧琅を、少しでも温められたらと思った。

「僕が、寂しいです」

 体が冷たいと、余計に寂しくなるから。悲しくなるから。

 告の必死の懇願が効いてくれたのか。寧琅はおもむろにひとつ瞬くと、また告の隣に戻ってきて、腰を下ろした。

「少し離れるぐらいで寂しいって、ガキかよ……ガキだったな、ちんちくりん」

 ふん、と寧琅が鼻を鳴らす。その顔には、先よりかはずっと生気が戻っているように感じて、ほっとした。

「ちんちくりんはやめてください」

「事実だろ、ちんちくりん。俺から見たらお前なんて赤子同然だ」

「寧琅様は——」

 どのくらい生きているんですか。

 そう問おうとした言葉を、告はすんでのところで飲み込んだ。先の件で、寧琅の来歴に触れるのはよくないかもしれないと感じた。あれが、寧琅がやさぐれ、囚われるほどに至った傷の一部なのかもしれないと思った。

 触れずに放っていても、きっと、癒えるものでもない。だが、またあんな傷ついた顔をさせるのも、嫌だった。

 なら、どうするべきか。

 告は、かつて出会ったやさしい神様を思い出す。

「手、繋いでてもいいですか」

 神様は告にどうして泣いているのかと聞いた。それに答えられなかった告を見て、話題を変えてくれた。それでも、別れ際には、こう言ってくれた。

 ——もし、お前がその胸に抱えているものを明かしてもいいと思えるときが来たら、この社に呼びかけてみるといい。都合が合えば、もしかしたら。また、会いにこよう。

 告は結局、生きている間に自分の内側を曝け出すことはできなかった。神様にあのときの感謝を伝えるためだと思って、社と何度か対峙もしたけれど、騙し打ちをするみたいで嫌だったのと、やっぱり勇気が出なかった。

 そのうちに村は旱魃に苛まれ、雨乞いが決まり、古びた社は取り壊され、新たな社が建て替えられた。石碑には村の誰かが知っていたらしい水神の名前が彫られたけれど、それがかつて告が出会った神の名だったのかは分からなかった。

 その神様に雨を乞うために、その神様が食べやすいように、供物となった告は村人たちによって下された鉄槌により、命を落とした。

 告が自分の身の上を話せるようになったのは結局、死んで天界に行ってから。供物になったものの雨が降らなかったことを知って、告の中のなにかがひとつ、ほころんだ。それでも未だ、上手くは話せないし、多分、誰にでもも話せない。

 でも、寧琅に話せたのは、彼が神様だから、というわけじゃない。彼のやわらかさを知って、受け止めてくれると思ったから。

 寧琅もいつか、告に対してそう思ってくれるときがくるだろうか。寧琅が自身の傷を話したくなるときが、話していいと思ってくれるときが、この臨時神守をしている間にきてくれたら。

 過去を変えることもその傷を治してあげることもできないけれど。ただ、聞くことしかできないだろうけれど。寧琅が穏やかに告の話に耳を傾け、希望のある言葉を向けてくれたことに、告はたしかに慰められたから。

 それに——どうしたって美しくてたまらない寧琅の姿を見つめる。月光を浴びた水面の輝きを編んだような、銀の髪。川水よりも空よりもずっと深く、惹き込まれる、青い瞳。白雪のようにひんやりと澄んだ肌。研ぎ澄まされた刃のように鋭くも、花のようなやわい色香を持つ面立ち。

 それが怒りや呆れだけじゃなくて、安穏や心からの喜びを織りなしているところも見てみたいと思う。

 了承して欲しいと乞うように、告は繋いでいる手にそっと力を込めた。告に視線を向けた寧琅は、困ったように、やっぱり呆れたように、眉を顰めた。

「……本当に、寂しがり屋のちんちくりんだな」

 繋いだ手が離されることはなく、二人はしばらくの間、静かに穏やかな時間を過ごした。

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