第5話
木々に囲まれた道を抜けると、街に出た。
「ここが、霜天様が言っていた国……茗蓉、ですかね」
幅広の道は石造りに舗装され、その両脇には馬小屋や商店、切妻屋根の邸宅がいくつも立ち並ぶ。
八百屋に置かれた茄子や小金瓜、あんずの実はまるまると大きい。花屋の店先に置かれた花は色が鮮やかで瑞々しい。
道をまばらに行き交う人々は、皆、長い髪を美しく結い、清潔で瀟洒な衣装を纏っていた。色形は様々であるが、よく見てみると、どの意匠にも共通して蔦柄の刺繍が施されている。
なるほど、本当に豊かな国らしい。
「あれが、王宮でしょうか」
黄瑠璃瓦で葺かれた屋根が乗った、一際大きく立派な建物が遠くに見えていた。首にかけた羅針盤を開くと、赤い針がそちらを指して、さっきよりもぴんぴんと震えていた。寧琅の神器に近付いている、ということだろうか。
美しいものを愛する豊かなこの国で寧琅の神器が回収されていた場合、国宝として保管している可能性が高いと霜天は言っていた。あれが王宮ならば、もしかして、あそこに。
「お兄さん、いいもの持っているね」
かかった声に顔をあげると、口元に笑みを浮かべた男がいた。彼は告が手に持っている羅針盤を黒い瞳でまじまじと見つめる。
「素材もよく、作りも精巧。五百、いや、六百
「あ、えっと」
告がつい身を引けば、男もぱっと半歩引いて、頭を掻いた。
「いや、失敬。つい興奮してしまってね。俺はそこで古物屋を営んでいる者だ」
男は骨ばった手で、近くに立つ赤い屋根の屋台を指す。その下には独特な意匠の壺や鏡など大小さまざまな道具が置かれていた。
「お前たち、その衣装からして余所者だろう? この国に遊びにきたんなら、金は欠かせない。その羅針盤も素敵だが、各娯楽場の景品もなかなか捨て難いものだ。今は都合で休業しているところも多いが、開いている店にも十分いいものはある」
男が立板に水が如く魅力的な景品や娯楽場の楽しさについて語りだすが、借り物の羅針盤を売れるはずもない。告は断る機を見計らいながらふと思い至る——古物屋ならば、この国のものの流れを把握しているかもしれない。
「寧琅様の神器ってどのようなものなのですか」
寧琅に声を潜めて耳打ちをすれば。
「とても美しいもの」
なんとも大雑把な回答しか得られなかった。
「もっと他にないんですか……! そもそも、神器に関して全然知らないので、大きさとか、形とか、全然想像つかないのですが」
「さまざまだ」
「さまざまって」
「武器のような形をしているものもあれば、壺や鏡や傘の形をしているものもある」
「寧琅様のは?」
「小さくはない」
なんではっきりとした答えを教えてくれないんだ、この方は。
「もしかして、長い間手放しすぎて忘れちゃったとか?」
ぽつりと零せば、寧琅は瞳を眇めた。
「……鈴だ」
「鈴って、あの小さくて、かわいい音が鳴る?」
「小さくないし、かわいくもない。神楽で使う鈴だ」
「神楽?」
「お前、神楽も知らないのか? ずいぶん無知だな」
嘲るように鼻を鳴らす寧琅に告は頬を膨らませる。
「学舎に通っていなかったのだから、仕方ないでしょう」
もともと文字の読み書きすらままならなかったぐらいだ。天界では不思議な力が働いているのか、目に映る文言すべてが理解できて、霜天に本を借りて物語や図鑑を読むの型のが楽しかった。そういえば、彼の蔵書の中に神様にまつわる書物というのは見かけなかった気がする。天界に住んでいると、あえて神様に関する書物を読んだりはしないのかもしれない。
そんなことを考えながら、再び寧琅を見ると。なんとも妙な顔をしていた。わずかに目を見開いて驚いたような、困ったような、厳しいような。
「どうなさったのですか?」
尋ねると、寧琅はそっぽを向いた。
「神楽鈴は売ってるか」
寧琅ははっきりとした声で、古物屋の男にそう言った。
男はひとつ瞬くと、「いいや」と首を横に振った。
「そんなものは売ってないね」
「仕入れなどで見かけた記憶は」
「ないね」
「だそうだ」
寧琅は腕を組んで、その場を離れる。
「あ、ちょっと」
「君、若いのにずいぶんと恵まれてるねぇ」
寧琅を追いかけようとしたら、店の男がにったりとした笑みを浮かべていった。
「どこかの富豪子息だろう、君。優れた意匠の羅針盤に、あの美丈夫。兄弟や従者というふうには見えないが……ああ、もしかして、早速高級男娼を買ったのか?」
「男娼?」
「お
この国の物価は分からないが、少なくとも、寧琅の髪三寸の価値は天界から賜った羅針盤を遥か上回るらしい。
たしかに霜天の術によって艶を取り戻した髪は青みがかった白銀をしており、誰にも踏み荒らされていない新雪のように美しい。
それに、神様の髪というのも縁起がよさそうではある。
だが、男は寧琅を神と知らずに言っているのだから、この国では髪が重宝されるものなのかもしれない。あたりを行き交う人々は長髪しかいないのもそういう理由か。告がかつて暮らしていた村では、皆さっぱりとした髪型をしていたから、新鮮な価値観だった。
「それだけ十分に手入れされた麗しの男娼を買うだなんて、いやぁ、純朴そうな顔をしてすみにおけないねぇ。たしかに、花街は遊戯と並ぶうちの名物だ。さすがは美を愛でる豊国、茗蓉ってね。まぁ、最近は必死に美を守っている豊国でもあるが……」
ぼそぼそと続いたにがそうな声に告はきょとんと首を傾げる。古物屋は繕うように笑みを浮かべた。
「しかし、あれだけの美丈夫がいたってんなら、とうに噂になっていそうなものだが、俺が知る噂のどれとも当てはまらない見目をしている……もしかして、普段は表に出ない売り惜しみの高級娼か」
「おい」
いつの間にか寧琅が立ち止まってこちらを振り返っていた。その顔は相変わらず厳しい。出会ってこの方、彼の綺麗な白い眉間にはずっと皺が寄っている。そのうち刻みついて取れなくなってしまうのではないかと心配になるほどである。
「さっきから胸糞悪い妄言並べてんじゃねぇぞ」
ドスの聞いた低い声で言う寧琅に、店の男がひぃと声をあげて縮こまる。何をそんなに怒っているのか分からない告は、とりあえず店の男に数言礼と詫びを口にして寧琅の元に駆け寄った。
「どうしたんですか、寧琅様」
尋ねるが、寧琅は答えない。
「あの古物屋の方が、何か失礼なことを仰っていたのでしょうか。ええっと、男娼? というのは悪口か何かなのでしょうか」
寧琅はちらりと告を見て、また正面に視線を戻す。
「さぁな」
返事はそれっぽっち、寧琅はむっすりとした表情のままずかずかと先を行く。
長く艶やかな白銀を靡かせながら歩いていく彼を、すれ違う人々がちらちら見ていた。中には自分の髪と見比べるような仕草をする者や、頬をほうっと染めている者もいる。見惚れるほどの美貌。だからこそなのか、このもやっとした惜しい気持ちが湧くのは。
「寧琅様はお美しいのに、すぐ怖い顔をして。なんだかもったいないです」
「面白くもねぇむしろやりたくないことをやらされている状況でヘラヘラして歩けってか」
「ヘラヘラはしなくていいですけど。寧琅様の笑顔は見てみたいです」
ぴたりと立ち止まり、告の方を向いた寧琅が、瞳を細めて口端を持ち上げる。
「これで満足か」
それはたしかに、美しいかんばせが作る美しい微笑みだった。けれど。
「なんか、違います」
「あ?」
腕を組んで少し考え、あ、と思い出した言葉を告は口にした。
「布団が吹っ飛んだ」
「……」
「……」
「……」
「……えっと、どうですか?」
「どうってなにが」
寧琅は心底訳が分からないといった顔を浮かべる。
「これは駄洒落と言って、似た音を持つ言葉をかけて遊ぶ、言葉遊びなんですって」
「それは分かってる。なんで今言った」
「駄洒落は人を笑わせたいときに使うと愁眠様に教わったんですけど……」
寧琅の心には響かなかったらしい。他の駄洒落は教わっていない。
なにかほかに寧琅から笑顔を引き出す術はないだろうか。出会ってこの方むっすりした顔しか見たことがないから
寧琅の横顔見れば、なんとも形容し難い表情をしていた。唇の端がむずりもぞりと動い酩酊る。
どうしたのか、なにか体に不調でも出たのだろうか——。
「ひゃっ」
「へ」
告の足にとすんとなにかかぶつかる。そこには、大きな白いかたまりがいた。よく見れば、それは白くて大きな頭巾のついた外衣を纏った小さな男の子がいた。
彼は告の足からゆっくりと顔を上げる。黒くて大きな丸い瞳とぱっちり目が合う。
「兄上」
舌足らずな言葉とともに、そこにうっすらと水の膜が張って、ぷっくりと雫が溢れる。
「兄上、どこに行っちゃったの?」
「わ、え、えっと、はぐれちゃったんでしょうか……?」
告がおずおずと尋ねれば、男の子はこくりと頷いた。
「迷子だな」
寧琅が淡々と言った。
ぐるりとあたりを見回してみるが、誰かを探しているようなそぶりをしている人は見当たらない。ここから離れた場所ではぐれてしまったのだろうか。
告はこれまで子どもの相手をしたことがなかった。幼い容姿をした妖精などは配達屋の顧客などにいたけれど、彼らの見目と年齢は合致せず、手のひらほどの大きさの幼い者も実は告よりもはるかに長い年月を生きている。
どうしようと惑った告の脳裏に過ぎったのは、かつて出会った神様の姿だった。
告はしゃがみこみ、自分の袖を掴んで、男の子の目元にそっと当てる。かつて出会った神様が、泣いている告にそうしてくれたように。
「僕は告と申します。この方は、寧琅様です。あなたのお名前を、お伺いしてもよろしいでしょうか」
今にもしゃくりあげそうな様子でありながら、しかし、男の子はちゃんと輪郭のある言葉で答える。
「
「とても素敵なお名前ですね」
にこりと微笑むと、蓮樹は少し面映そうにはにかんだ。
「蓮樹様が探している兄上様はどんなお方ですか?」
「とても大きくて、かっこいい」
う、ううん……なんとも大雑把な回答。
つい先にも似たような感想を抱いた気がする。愁眠と霜天から子どもだと揶揄されて怒っていた神様に。
「お前今なんか失礼なこと考えたな」
青い瞳にぎっとに睨まられて、告は「なんのことやら」とぱっと目を逸らした。
「ええっと……色とか……髪の色は、蓮樹様と同じですか?」
白い頭巾から覗く赤毛を見ながら問うと、蓮樹はこくりと頷いた。
「瞳の色は、告さんと似てる。葉っぱみたいな色」
告はぱちりと瞬き、それから小さな笑いをこぼした。突然笑い出した告に、蓮樹は首を傾げる。寧琅は怪訝な顔をした。
「なんだ突然。気色悪い」
「気色悪いは言い過ぎですよ」
「事実だろ」
この神様は本当に、冷たいことを言ってもちっとも悪びれもしない。その態度にだんだんと慣れてきた気さえする。
「僕も天界の鏡ではじめて自分の目を見たとき、この子と同じ感想を抱いたなぁって思ったんですよ」
前世で住んでいたボロ屋に鏡なんてものはなく、自分の姿は淡く歪んだ水面ぐらいでしか見たことがなかった。だから、告がはじめてしっかりと自分の姿をたしかめたのは、配達屋にあった姿見を通してのことだった。何度も鏡の前でくるくると回っては、歪みも時差もなく反射する自身に感心して、愁眠にはけらけらと笑われ、菁は少し呆れたように微笑んでいた。ただその後、鏡を見る習慣などはつかず、起床のたびに菁に寝癖を見つけてもらってはなおしてもらっていたけれど。
「てんかいってなに?」
舌足らずな声に鸚鵡返しにされ、告ははっと青褪めた。天界から来たことを人間に知られてはならない、と霜天から釘を刺されていた。
「あー、えっと、その……村! 僕たち、いろんな場所を巡っている旅人で、その中で立ち寄った村がそういう名前だったんです」
「告さんと、寧琅さんは、旅人なの」
「はい!」
男の子の大きな瞳がぴっかりと煌めく。
「どんなところを旅してきたの」
「へ」
「僕、この国の外のこと知らない。知りたい」
「墓穴」
寧琅がふんと鼻を鳴らす。告は背に汗が滲む。
「えっと……とても綺麗な森とか、湖とか。綺麗なお花がいっぱい咲いた畑とか」
「へぇ〜!」
「……」
何か言いたげな視線が注がれる……全部天界のことだろ、とでも言いたげな。
だって、仕方がない。告とて、前世で住んでいた村以外に行ったことがある場所は天界しかないのだから。
村で存在しないかのように扱われて辛かったけれど、そこを離れることもできなかった。
勇気が、なかった。
村の周りは鬱蒼と木々が茂る森になっている。地図なんてものも見たことがなかったから、どこをどう行けば次の人里に出られるかがわからず、誰かに会う前に獣に食われる可能性の方が高かった。
それに——この村で告が忌み嫌われる理由は分かっていた。だが、この村の外でも、誰も自分のことを見てくれなかったら。じぶんはこの世に存在すべき人間じゃなかったという烙印を押される気がして、怖かった。
だから告は、あの村から外に出たことは、一度もなかった。
「……ごめんなさい。本当は、旅をはじめたばかりで、まだそんなにたくさんの景色は見ていないんです。生まれ育った場所と、その次に着いた場所と、ここしか、僕もまだ知らないんです」
「じゃあ、これからいろんな景色を見に行くんだ」
こてんと首を傾げた蓮樹の瞳は希望に煌めいている。それは、告の胸をついた。
村から出ることを尻込み諦めた告は、そのまま気を病んだ。自分は存在しないものとして扱われたまま、消えて行くのだと思った。
けれど、神様に出会った。
あの神様との出会いにより、告は供物となるまで生きた。はじめて見た村の外の世界——天界では、やさしく素敵な出会いに恵まれた。配達屋の仕事も楽しかった。はじめてしったこのあたたかな場所に、いつまでもいたいと思った。
だから、本当は、ずっと、輪廻することが怖かった。
あたたかな場所から一歩踏み出せば、そこにはまた悲しいことが待っているかもしれない。もう傷つきたくない。
でも、消えるのはもっと怖い。
もう二度と、誰ともかかわれない透明になりたくない。消滅という結末を迎えるのは嫌だったから、告は輪廻しなくては行けない。
嘆いたころで現状は変わらず、そもそも未来だってどうなるか予知できるわけでもないのだから、憂いたところで仕方がない。前を向いた方がよっぽど建設的だ。
分かってはいても、暗く粘っこいものはいつまでも告の胸底に絡みついて離れてくれない。
だから度々下を向いてしまうけれど、それじゃあ駄目だと奮起する時の癖、告は両手で自身の頬をぱしっと叩いた。
(後ろに道はなし。ならば、前を輝かせるための努力をせよ)
ぱっと顔を上げて、明るい光を瞳にとらえながら、笑ってみせる。
「蓮樹様の兄上様を探しましょうか」
蓮樹はきょとんとしながらも、こくりと頷いた。視界が高い方が見つかりやすいだろうと彼を抱えあげ、腰を上げる、と。
「え、あれ」
告はぐるりと辺りを見回した——さっきまであったはずの寧琅の姿がどこにもない。
胸に抱えた蓮樹が告の袖をくいっと引っ張る。
「寧琅さんなら、向こう、行った」
蓮樹が指差した方向を見るが、街に入ったときとは逆の方向。家や商店がずらりと並び、まばらに人が行き交う広い道に、あの美しい銀髪はちっとも見当たらない。
どこに行ってしまったのだろうか。
(まさか、蓮樹様と話している間に逃げた……?)
寧琅はもともと試練に前向きではなく処刑されることを望んでいたから、そんな疑念がつい生まれる。
だが寧琅は、この試練には告の魂の消滅もかかっていると知ると、口の悪いことは言いながらも重たい腰を上げてくれた。先の商人の男に自ら神器のことを尋ねてくれた。
(先に蓮樹様の兄上様を探しに行ってくれた、とか)
ある……だろうか。あまり想像がつかないけれど。普通の神様ならそうしてくれそうだけれど、彼は神様らしくないというか。いや、でも、神様だって多種多様で、神様の全てが困っている人すべてを助けてくれるとは限らないのも知ってはいる。
裁判の時に、閻魔様に教えてもらった。どんな供物を捧げたとしても、それに喜ぶ神様も大して関心をもたない神様もいれば、嘆願にはできるだけ応えたいと思う神様もいる。神様にも様々ある、と。
ある神様は告を見つけて、声をかけて、願いを叶えてくれたけれど、ある神様は告の村に雨を降らしてくれなかった。
寧琅には寧琅の心や思考がある。寧琅のしたいこと、したくないことがある。
……どれだけ考えても、寧琅がなぜ離れてしまったかは分かるはずもないから、仕方ない。
(なにはともあれ、まずは蓮樹様の兄上様を探しださなくては)
よし、と意気込んで早速歩き出し、目についた人に声をかけようとした。
「待って」
しかし、蓮樹に引き止められる。
「人には、声をかけないで」
どうして、と思った。だが、蓮樹の顔は真剣だった。なにか訳ありなのかもしれない。どういう訳を抱えているのか、経験上、あまり明るい想像はできなかった。ただ、蓮樹の纏う外套はとても品質よく、赤毛の髪は艶やかで、頬はふっくらとしている。貧しいところから逃げ込んできた、とかではなさそうだ。
心配にはなるけれど、尋ねるにしても幼い子ではなく、せめて彼が探している兄に尋ねるべきだろう。
事情があるらしい蓮樹が少しでも人目に晒されないように抱え直して、歩き回る。
赤毛に、葉っぱ色の瞳。すれ違う人たちをつぶさに観察する。
なかなか目ぼしい人が見つからない中、告の体には違和感が生じていた。頭の中にぴりぴりとした痺れを感じていた。それは歩けば歩くほど、強くなっていく。
ついに堪えきれなくなった告は、茶屋の前で立ち止まった。蓮樹が不思議そうな顔で見上げてくる。
「告さん、どうしたの」
「いえ……」
なんでもないです、と答えようとした。しかし、告の視線は蓮樹を抱えている胸元に向かなかった。何かに引き寄せられるように、頭が勝手に、通りの方を向く。
広々とした道にはまばらに人が行き交っている。両脇に店や家屋がいくつも並んでいるが、まだ日中だが商い終了の看板を立てている店もいくつかあった。
ふと、茶屋と隣家の間の奥まったところに目が止まる。そこには、綺麗に手入れされた小さな祠があった。ちょうど一人の女性が参拝しているところだった。
目を閉じて、両手を合わせ、何事かを熱心に呟いている。
それから彼女はぱっと顔を上げると、一礼して、祠の前から離れて、告たちがいる通りの方に出てくる。
神妙な面持ちの女性が告の前を通りすぎた、一瞬。わずかに奇妙なにおいが漂った。ほんのりと甘い、花のようなにおい。
去っていく彼女の背をなんとなしにしばし見つめてから、告は再び祠に視線を向けた。供物台には、白い饅頭と団子が置かれているのが目に入った。
ふと。自分が向いているのが先に蓮樹が指差していた方向——寧琅がどこかへ行った先ではないかと気づく。
そして、そこでようやく、告は思い出した。告と寧琅の間には、霜天によって契約が施されていることを。
告は寧琅の居場所を直観的に把握することができ、寧琅は告との間に生じた物理的距離に応じてその身に痛みを覚えるというもの。
その契約が今、告に寧琅の場所を訴えているのか。違和感が強くなっていったのは——どんどん寧琅との距離が空いていったから?
告は自身の血の気が一気に引くのを感じた。霜天は幼子には教育が必要だとかなんだとか言っていたが、それでも、告との間に生じた距離に応じて痛みが走るなんて酷な契約だと思った。そりゃあ、勝手に離れられたら困る、試練から逃げられても困るけれど……それでも、痛いは辛い。
告は、今際に与えられた痛みを思い出して、思わず身を強く抱きそうになった。だが、今は告の胸の中に蓮樹がいる。押し潰してしまうわけにはいかない。
ただでさえ寧琅は心にも瑕疵を負っている、それなのに身体にまで痛みを負わせるなんて嫌だと思った。早く、見つけなくちゃ。けれど、蓮樹のことも放っておけるはずがない。
どうしよう。
どちらかを選んで一歩を踏み出さなくては、もう片方もいつまでも解決しない。なのに、そのどちらも選べずに、告は硬直してしまっていた。焦りと困惑が鉛のように全身にのしかっていた。
どうしよう、どうしよう——。
「告さん、泣きそうな顔してる」
ふいに、頬に柔らかな手が触れた。
小さな、蓮樹の手だ。
は、と重たい霧が晴れるような感覚とともに、蓮樹を見る。
「大丈夫?」
その声は、眼差しは、とてもやわらかく、あたたかい。
「お団子、食べる?」
「お団子、ですか」
「ここの団子、美味しいから。食べよう。美味しいもの食べたら、元気が出る」
蓮樹の笑顔に告の気持ちはゆっくりと浮上していく。
「蓮樹様はすごいですね」
「すごい?」
「ええ、とても」
ある意味で、告も今、迷子になっていた。道を選べずにいっぱいいっぱいになって固まっている告に比べて、この子はどうだ。告にぶつかってくるより前だって、兄を探して走り回っていたのだろう。今だって、兄を見失い不安だろうに、告のことを気遣ってくれている。とても、立派な子だと思う。
はにかんだ蓮樹に尊敬を抱き、情けない自分に叱咤をし、告は深呼吸をした。
今の告は神守だ。神様のお守りをするのが、告の使命だ。それならば優先するべきは寧琅だろう。
だが、寧琅だって考えなしで動いたわけじゃない、と思う。
やさぐれていて、態度も悪くて、人々が抱く神様の想像からは外れたお方だけど、垣間見た思慮深さは偽物じゃないはずだ。
もちろん、どれだけ考えたって寧琅の本心は告には分からないけれど。痛い思いをさせてしまっているのは心苦しいけれど。それでも、告が勝手に信じて、甘えたい。意図的に離れた寧琅には何か考えがあるだろうと、不慮で兄と逸れてしまったこの迷子をまずは助けてあげてもいいだろうと。
ようやく括った腹を持って、もう一度深呼吸し、しゃんとした顔で蓮樹と向き合う。
「蓮樹様の兄上様が無事見つかって、それから私の……主人様も見つかったら。そのとき、いっしょにお団子を食べましょう」
告の言葉に、蓮樹はぱぁっと表情を明るくした。
「約束!」
掲げられた小さな小指に、告は戸惑う。
「えっと」
「指切り、知らない?」
「なんか、物騒な名前ですね……えっと、それは一体、なにをどうするものなのでしょうか」
「小指と小指をくっつけて、約束破っちゃだめだよ、破ったら針千本飲ますよってするの」
「ぶ、物騒だ……!」
幼い子どもから軽い調子でとんでもない思い契約をふっかけられた。ともすれば、霜天が告と寧琅の間に結んだものよりも重たいのではないだるか。だって、本当に針千本なんて飲まされた死んでしまう。
軽率に応じるべきではない内容だ。しかしにこにことしている蓮樹の誘いを断れば、悲しませてしまうかもしれない。
「指切りぐらい、普通にしてやればいいだろ」
呆れた声が、降ってきた。
へ、と間抜けた声を零しながら顔を向ければ、そこには腕を組んだ寧琅がいた。頭に感じていた痺れは、いつの間にか姿を消していた。
寧琅のそばには、ひとりの男がいた。背丈は寧琅と比べて少し低く、蓮樹が着ているのをそのまま大きくしたような白い外衣を纏っている。かぶっている頭巾で影になってはいるものの、顔立ちは整っているように見える。年齢は生前の告より少し年上に見える、二十歳くらいだろうか。覗く髪はさっぱりとした赤毛、瞳は葉っぱ色だった。
「兄上様!」
蓮樹が嬉々とした声をあげて、その男に両手を伸ばす。男は困ったような呆れたような笑みを浮かべて、その手を取った。
「お前、また勝手に私のそばを離れたね」
「ごめんなさい」
悪びれのない謝罪に思わず苦笑していると、男——蓮樹の兄は告を見て、一礼する。
「旅の御仁、この度は私の弟を助けてくださりありがとうございました」
「あ、いえ、僕は何もしてないです」
むしろ励ましてもらっていたくらいだ。と、蓮樹が告の首元をきゅっと引っ張った。
「一緒に兄上様を探してくれたよ。おしゃべりもいっぱいしてくれた」
告は目を丸くし、蓮樹の兄はくすくすと笑った。
「この子がこんなに懐くなんて珍しい。とてもお世話になったみたいですね」
抱えていた蓮樹を受け渡す。こうして並べてみると、瞳の色こそは違うけれど、造形にはたしかに地のつながりを感じていた。
「せっかく助けてもらったところすみません、そろそろ行かなくちゃいけなくて……」
「ええー、お団子食べる約束したのに」
蓮樹がぷっくうと膨らませた白い頬こそお団子のようになっていた。それについ笑いそうになるのを堪えながら、蓮樹の小さな手を握る。
「また次に会えたときに、一緒に食べましょう」
ちらりと蓮樹の兄の方を見たら、やわらかな眼差しで答えてくれた。蓮樹もまだ不満げでありながらも、こくりと頷いた。
「うう……分かった。約束だよ」
また小指を出されて、告がわたわたすると。
「小指同士を絡めるんだよ」
と、寧琅が教えてくれた。その通りに小指を立てて蓮樹のものにそっと絡め合わせると、蓮樹はにこっと笑った。
「ゆびきった!」
蓮樹はひらひらと手を振り、彼を腕に抱えた蓮樹の兄はその場を離れようと一歩踏み出した。
「あの、旅のお方」
が、そう言って、彼は再び、告と寧琅の方を振り向いた。
「あまりこの国に長居されないことをお勧めします」
「え、どうしてですか?」
彼はわずかに視線を彷徨わせると、ぽつりと呟いた。
「……
ぺこりとお辞儀をすると、彼は今度は振り返らずに、駆けて行った。
「あの方々は、結局何者だったんでしょう」
それに芙佳の呪いとは、一体。首傾げる告に、寧琅が言う。
「お忍びってやつだろう」
「お忍び?」
「鈍感」
それから寧琅は眇めた瞳でちらりと告を見た。
「というか、勝手に動いてんじゃねぇぞ。あいつを見つけたと思ったら、今度はお前らを探すハメになった」
「勝手に動くなって、そもそも言われてないです——」
反論している最中に、告ははっとした。そしてたまらず、その胸元に掴み掛かった。
「ね、寧琅様! 大丈夫ですか!」
「大丈夫って、なにが」
「お体ですよ! 痛かったですよね⁉︎」
「別に」
寧琅はあっさりと答える。あまりあっさりとしているものだから、もしかして霜天が口にしていた契約内容は虚仮威しなのかと思ったが。
「気にするほどのものじゃない」
「やっぱり痛くはあったんじゃないですか!」
それがどれだけの痛みだったのかは分からない。ただ、なんとなく、寧琅の気にするほどの痛みではないは信用してはならないような気がした。だって、処刑を受け入れてしまうような神様だ。
告の胸裏には様々な罪悪感が行き交った。うっかり目を離してしまったばかりに、寧琅を一人でどこかにいくことを許してしまったこと。それで、痛い思いをさせてしまったこと。最終的には寧琅は試練から逃げだしたわけではないと信じようとしたけれど、それでも、蓮樹の兄探しに行ったかどうか疑いを抱いてしまったこと。
この神様は告が思うよりも、ずっと、やさしい。やさしいから、よりいっそう、胸が痛い。眼窩が熱くなって、目の淵に涙が滲む。
「ごめんなさい」
「あ? なんの謝罪だよ」
「寧琅様が痛い思いをしているって分かっているのに、僕、すぐに動くことができなくて」
「……」
「それに、寧琅様のこと、心から信じられていませんでした」
寧琅は目を丸くする。
「……試練から逃げだしたとでも思ったか」
こくりと頷けば、寧琅はふんと鼻を鳴らす。
「間違っちゃいねぇよ」
「へ?」
「だからお前に動くなって言わずに離れたんだろ。本当はお前が目を離している隙に逃げ出そうとした。でも、偶然、たまたま、あいつを見つけたから……それを放っておくのはなんか、気分悪いから連れてきただけだ」
「それは、本当ですか」
深い青の瞳をまっすぐに見つめる。
「それは、寧琅様の本心からのお言葉ですか」
寧琅が告を見つめ返した。しばらくの間、やがて、そっと逸らされる。チッと寧琅は舌を打つ。
「……なんなんだよ、お前」
低い声で、寧琅が何かを呟いた。しっかりと聞き取れなかったそれに告が首を傾げたとき。
「貴様ら、余所者だな」
背後から声をかけられた。振りむくと、そこにはごつごつと鎧を武装した男が立っていた。無精髭の男の表情はなんともものものしい。この国の兵士だろうか。しかし、どうして兵士が告たちに声をかけた——まさか、と告は先の兄弟を思い浮かべた。もしかして、本当に彼らは身分を隠してこの国に潜んでいる立場だったとか。それと関わっているのを見て声をかけてきたのだとしたら……背中に変な汗が滲む。
「えっと、なんでしょうか」
警戒たっぷりに応じると、兵士は言った。
「神楽鈴を探している余所者というのは、お前たちか」
告はぱちっと瞬く。それから、胸に湧き上がる希望のまま兵士の方へ身を乗り出した。
「神楽鈴の在処をご存知なのですか! もしかして、あの宮殿の中にあったりするのでしょうか」
兵士は一瞬虚をつかれたような顔をした。そしてなぜか隣の寧琅の方からはため息が漏らされた。
「お前、馬鹿」
「え?」
「我が国宝の神楽鈴を狙っている輩はこいつらだ! ひっとらえろ!」
「えっ⁉︎」
兵士が声を上げると、あたりに散らばっていた彼と同じような格好をした男たちがこちらに駆け寄ってくる。あたりは騒然とし、告が一歩後ずさるだけでどこからか悲鳴や「盗賊を逃がすな」という声が上がる。
「盗賊なんかじゃありません!」
必死に訴えるが、疑念に満ちた兵士たちは引いていくどころか続々と集まってくる。
「盗賊じゃないと言うなら、何のために神楽鈴を探している!」
「芙佳からの刺客だったりして」
「あいつら、しがない小村の癖して、どれだけ俺たちを苦しめれば気が済むんだ!」
近いところにいるものは腰に帯びている剣を抜いてこちらに向けてきた。
ふいに、寧琅が告の右手を掴んだ。
そのまま言葉なく一歩を踏み出した寧琅に、とりあえずこの場から逃げようとしているのだと察して告も足を動かす。
兵と剣の間を潜り抜け、寧琅に手を引かれるまま、駆けていく。
寧琅の足はとても早く、おもたそうな鎧を纏った兵士たちとの距離はどんどんと開いていった。
人の少ない通りに出て、家の並びはなくなり、木々が立ち並ぶ自然豊かな景色が見えてくる。どれだけまけたかと振り向いたとき、遠くの兵士がひとり、なにかをこちらに目掛けて投げてきた。くるくると回りながら飛んでくるそれは、そのままの軌道だと寧琅に当たってしまいそうだった。
判断してすぐ、告は寧琅の体を突き飛ばした。
「お前、何して——」
崩した体勢をすぐに整えた寧琅は、告の方を見ると青い瞳をまあるく見開いた。
飛んできた刃物が、寧琅を突き飛ばした際に出した告の左の二の腕を掠めた。赤い液体がじんわりと滲んでいく。
「突き飛ばしてしまって、すみません。けど、足を止めちゃダメです!」
せっかくここまで距離を取ったのに立ち止まって捕まってしまってはどうしようもない。
寧琅は思いっきり顔を顰めると、告の背と膝裏に腕を回した。それから、地面を強く蹴ると、高く高く跳ね上がった。常人にはどうしたってできようもない、青空を切るような跳躍。騒然とした追手を尻目に、寧琅は空中を渡って、森の中へと降り立った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。