迷子
第4話
青く瑞々しいにおいがする。
瞼をゆっくりと持ち上げると、広々とした青空が見える。太陽が少し眩しくて、瞳を細めながら告は体を起こす。
辺りには、草原が広がっていた。西方を見れば、遠くは街のような景色が見える。東方を見れば、近くに、つやつやとした広葉を身につけた幹の太い木が立ち並んでいた。手前の方はまばらだが、奥に行くに連れ密度を増していく様を見るに、森の入り口のようだった。
ほんのりあたたかな気温に、少しの湿り気を帯びながらも爽やかな風がやわらかく吹いては、梢が囁く。初夏らしい気配がする。
手前の方にある木のひとつ、その根元に男が片膝を立てて座っていた。
それを見た告の脳裏には、先に起きた出来事が蘇った。
魂の消滅を免れるために、彼——落神となった神様、寧琅の神守を務めることになったこと。彼の神器を取り戻さなくてはいけないこと。そして、突然青々としたまるで空のような景色の中に放り出されたこと。
あれが本当に空だったとしたら、とんでもない高さから地上に落下したことになると思うのだが、しかし、体はどこも痛くない。というか、間の記憶もない。衝撃のあまり気絶でもしたのか、寧琅が受け止めてくれたのか、そもそもここはどこか——落下前のやり取りの流れからして、おそらく現界なのだろうが。
立ち上がって、寧琅の元に近づく。ゆったりと木に凭れた状態で目を閉じている。
やっぱりこの神様は、とても美しい見目をしている。
長い睫毛、通った鼻筋。艶を取り戻した銀髪が爽やかな風に柔らかく靡いた。棘棘とした言葉を吐く存在には、ぱっと見では思えない。
先の寧琅との応酬を思い出すとどうしてもちょっと躊躇を覚えるが、それでも声をかけないわけにはいかない。
「……寧琅様」
おずと呼びかけてみるが、寧琅はぴくりとも動かない。眠っているのだろうか。
そういえば、と首にかけられた羅針盤を告は手に取り、蓋を開けた。赤い針はちょうど正面を指していた。
「寧琅様、寧琅様。起きてください。神器の回収をしに行きましょう」
「嫌だね」
瞼をぴっちりと閉ざしたまま、寧琅は言った。起きていたらしい。
「どうしてですか」
「俺は別に、神器がなくても困らない」
「困らないことはないでしょう。ほら、行きましょう?」
「そんなに一緒に行ってほしけりゃ、俺のやる気を出させてみろよ。神守ならそれぐらいできなくちゃあなぁ」
「やる気って……どうやったら出るんすか」
寧琅が片方の瞼を持ち上げる。
「接吻のひとつでもしてくれたら、でるかもな」
「せ、接吻って」
ふ、っと寧琅が笑う。それにどうやらからかわれたらしいと気づき、告は頬を膨らませた。
「こ冗談を言っている場合じゃないです……! こうしているあいだにも処刑日が迫ってきているんですよ。寧琅様もなにか辛い思いをされて今に至っているのかもしれませんが、それでも——」
「違うだろう」
寧琅は片方の瞳を持ち上げた。
「お前、人畜無害そうなちんちくりん面しといて、ずいぶんと厚かましいやつだな」
いったいなんのことだと首を傾げると、寧琅は言った。
「現界に降ろされる間際、言っていただろう。俺たちの執行猶予が同時に尽きると。つまり、この試練にはお前の魂もかかっているということだろう? 一体どんな罪を犯したんだ」
「俺は別に……」
告自身が罪を犯したわけではない。だが、その事実をはっきりと話すと、愁眠を責めるようでちょっと申し訳ない。
「まぁ、なんでも構わねぇが」
寧琅はすくっと立ち上がると、頭ひとつ以上高いところから告を見下ろした。
「お前はお前のために俺の試練を達成したいんだろう? なのに、まるで、俺のことを心配しているような口ぶりで俺を動かそうとしてくるところが、気に食わない。人間のそういうところが俺は、死ぬほど嫌いだ」
「いっ」
突然脛に激痛が走り、告は膝から崩れ落ちた。寧琅に蹴られたのだ。
「なにするんですか!」
「僕が消えたくないので力を貸してください〜って素直に言えよ。跪いて、協力を仰げ。そうしたら、神器回収も考えてやらないこともない」
(な……)
なんだ、この神様。
告は絶句した。こんな行動をとって、こんなことを言う神様がこの世にいるのか。
じんじんと痛む脛を必死に抱えながら、告は涙が滲む目で寧琅を睨んだ。
「なんでそんな意地悪なこと言うんですか! たしかに寧琅様の仰るとおり、あなたの神器を取り戻せないと僕の魂は消えてしまいます。それも、神守を引き受けたひとつの理由です。でも、だからって、あなたのことを心配していないわけじゃない」
「お前が俺を心配する義理なんてないだろう」
「僕は、生きていたころ、神様に救われたから。神様に感謝してるんです」
「あ? 俺はお前を救った覚えなんかねぇ」
「ええ、僕もあなたに救われた覚えはありません。僕を救ってくれた神様は、あなたよりもずーっと寛容で優雅でやさしいお方でしたから!」
売り言葉に買い言葉。告がつい、今まで大事に秘めていた神様との思い出を口走りながらぴしゃりと言い放てば、寧琅は片眉をひくつかせた。
「ならそいつの神守になって、そいつの試練をこなせばよかっただろう。ああ、それとも、神の方はお前を覚えてなくて悲しくなっちまったか。それとも、神守の席がもう埋まっていたから断念せざるを得なかったのか。はっ、かわいそうに」
「僕はその神様がどんな神様か知らないんです」
「不義理な信者もいたもんだな」
「現界で一度会ったきりで、お顔は薄絹で顔が隠されていて、名前も聞けなかったんです。でも、だからこそ、僕は神様という存在すべてに感謝しようって思ったんです。神様という存在が困っているなら、力になりたいんです。だから」
霜天から神守をやってみないかと提案されたとき、告は迷いなく頷いた。
「あなたが、傷ついているかもしれないと思ったとき、あなたが前を向くための力になりたいと思いました。それは、嘘じゃないです」
痛む脛を畳んで、手をつき、額を草に擦り付け、告は跪いた。
「でも、不誠実ではありました。あなたの立場だけ聞いて、僕の立場を説明していませんでした。僕は亡者で、その……輪廻届を出しそびれてしまったんです。このままでは現界式に参加できず、魂が消滅してしまいます。それを容赦してもらうために霜天様に神守の仕事を、あなたのお手伝いを案内いただきました」
ひとつ、深く、呼吸をする。
「僕は消えたくありません。誰ともかかわれなくなるのは、とても寂しいから。そして、そこに向かうことを躊躇わないほどに傷ついたあなたを放っておきたくない。力を貸してください。心配させてください。一緒に、試練をこなしてください」
しばらくの間、沈黙が落ちた。ともすれば、この目を合わせていない間に寧琅がどこかに行ってしまうのではないかとも疑った。
やわらかな風が何度か吹き抜けて、鼻腔にすっかり緑のにおいがこびりついたとき。ふいに、舌打ちの音が聞こえた。
「……たったひとつを覚えていないから神様すべてに感謝って、極端すぎるだろ。馬鹿の発想だ」
あまりにもまっすぐな暴言に、うう、と唸りをこぼしてしまう。告としては、どの神様と邂逅してもあのときの感謝を思い起こして喜びとやわらかさを胸に抱ける、むしろ天才的な発想だと思っていたのに。
と、突然肩口を引っ張られた。顔を上げれば、そこにはむっすりとした顔の寧琅がいた。すぐに告から手を離した寧琅は背を向けて歩き出す。
「どこに」
「お前が言ったんだろうが。神器の回収をしに行くって」
「行ってくれるんですか」
「お前の自己満感謝の意の慈善活動なんかクソどうでもいいし、処刑は望むところだ。だが、ただのうっかり馬鹿と心中するのは気分が悪い」
うっかり馬鹿の部分はさておくとしても、自己満感謝の意の慈善活動って。たしかに、そう言われればそうなのだけれど。
告がただ一方的に神様に感謝をしていて、神様の力になりたいと思っている。寧琅は見るからにそれを望んでいない。告が勝手に、彼に前を向いて欲しいと思っているだけなのだ。
「……寧琅様は本当に意地と口が悪いですね」
「ここに結界を張って執行猶予が尽きるまでどこにも行けなくしてやってもいいんだぞ」
告も立ち上がり、裾についた草汚れを払って、寧琅の後を追って木々に囲まれた道を進む。
寧琅は冷たいことを言いながらも立ち止まらない。告の事情を知って、重たい腰を上げてくれた。その根にやさしさを見た。
寧琅はどうして傷つき、今みたいにやさぐれてしまったのだろう。聞いたところで、寧琅は教えてくれるだろうか。それに、傷ついたときの出来事を話すのは、なかなかに辛いことだ。ともすれば、塞ぎかけていた傷口がまた開いてしまう可能性だってある。
告がかつて神様に会ったとき、神様は告に言った。どうして泣いているのか、と。
告はそれに応えられなかった。
人々に存在しないかのように扱われている。自分がまるでこの世界にいないみたいで、怖くて、辛くてたまらない。それを思うだけで胸が痛くて、口にすると何かが溢れ出してしまいそうだったから。
神様はそんな告の心を察したように、しゃがみこんで自らの袖で告の目元を拭いながら、話題を変えてくれた——ひとつだけ願いが叶うとしたら何を望む、なんでも叶えてやる、と尋ねてきた。
絞り出した告の答えを聞いた神様は少し驚いた顔をして、そして、願いを叶えてくれた——。
告はずっと誰かに見て欲しかったし、話に答えて欲しかった。神様なんて特別な存在がそれを叶えてくれたうえに願いを叶えてくれるなんてとんでもないやさしさを注いでくれたから、告の悲しみは満たされ、生きていくよすがを得られた。
けれど、寧琅はどうだろう。
寧琅の悲しみはどうやって生まれて、どうすれば満たされるものなのか。告にそれを為すだけの力があるか——少なくとも、告にはあの神様みたいに願い事をなんでも叶えてやるなんてことをは言えないしできない。
ただ傷口を突くだけならば、最初から触れないほうがいいのではないか。それでも、触れずに放っておいたら、彼の傷はいつまでも塞がらないのではないか。
進路がちっとも見えない真っ暗な洞窟に立たされた心地だった。
神様の力になりたいとただ漠然と思っていたけれど、自己満感謝の意の慈善活動と寧琅は言ったけれど、いざ考えるとその方法は思いつかず、無力感に少し項垂れる。下を向いてなにになる。今は寧琅のためにできることが思いつかない。ならば、これから寧琅をしっかりと観察して、少しでも彼の力になれることを探せばいい。
ぐっと拳を握り締め、寧琅の背を見つめる。じっと、じっと、じーーーっと……。
「視線がうるさい」
寧琅は一切振り向くことなく吐き捨てた。
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