第2話

 配達の仕事は順調に進んだ。白鼠には無事怒られることなく、昼頃には最後の配達先、常連である老父の家に辿り着いた。扉をこんこんと叩くが、反応はない。となると、と告は家の裏手にまわり、瑞々しい緑が生い茂る森の中に足を踏み入れた。少し歩けば、広々とした湖に出る。そのふちに腰をかけ、釣り竿を握っている小柄な老父がいた。

霜天そうてん様、こんにちは、第六配達屋の告です。お荷物を届けにきました」

 霜天がゆったりとした仕草で、こちらを振り向く。目は糸のように細く、髪も、眉も、髭も雲のように真っ白でふんわりとしている。

「おや、告くん。今日も元気だね」

「はい、とっても元気です!」

「はは、それはとてもいいことだ。よかった少し話していかないかい?」

 皮肉が痩けて皺が刻まれた手で、霜天は手招きをする。この後は配達屋に戻るだけだから、多少の寄り道をしても問題ないだろう。告は彼のそばに近いて、腰を下ろした。

 天界特有の金箔を散りばめたような空を反射した水面は、きらきらと煌めいている。

「鯛が釣れる予感がしている」

「あ、この間お借りしたお魚図鑑に載っていました。目が、なんというか、ぎょろってしている感じの、赤い魚ですよね」

 霜天とは親しくしてもらっていて、家にも何度か挙げてもらったことがある。彼の家には本や巻物がわんさと積まれていて、配達屋の事務所と少し雰囲気が似ている。

 書物の中身は、物語だったり、図鑑だったり、様々だが、彼曰くすべて「知らなくても生きていけるけれど、知っていたらもっと豊かになるもの」らしい。そういうのが愛しいと、語っていた。

 告は前世では学舎に通ってもいなければ読み書きもほとんど教わっておらず、書物の類に触れることはほとんどなかった。天界にきてからは不思議な力でも働いているのか、目に映るすべての文字が理解できてとてもびっくりしたし楽しかった。霜天からたまに借りる本も、それはもう熱心に読んで、夜更かししかけて菁に注意されるほどだった。

「ああそうだ。よく覚えているね」

 くしゃりとした手が告の頭を柔らかく撫でる。

「そうだ。もし釣れたら、また配達屋にお裾分けをしにいこう。煮付けにすると美味しいんだ」

 天界では現界と違い、飲食の必要はない。けれど、嗜好品として楽しむ妖精や神様は少なくないらしいが——。

「……愁眠様と菁様がお喜びになると思います」

「はは、君は本当に素直だなぁ」

 告はきゅっと顔を萎めていた——亡者には、天界のものをあまり食してはならないというきまりがあるのだ。

 天界の気に染まってしまい、現界したとき、その肉体や魂に異変が発生してしまうらしい。霜天はこれまでにも美味しそうな手料理を配達屋にお裾分けしにきてくれたことがあるが、告は馥郁としたにおいしか味わうことが叶わなかった。

「全力でにおいを楽しむから大丈夫です!」

「君にもなにか、君が楽しめるお土産を持って行くとしよう」

「本ですか?」

 いっきに瞳を煌めかせた告に、霜天はただにっこりと笑った。

 それからしばらく霜天の釣りを眺めていたが、その間に釣り竿が動くことはなかった。


 *


 配達物がなくなり、軽くなった鞄を揺らしながら事務所に帰り、からりと引き戸を開ける。

「ただいま戻りまし——」

「本当に覚えていないんですか!」

「いや、でも、出した気がするんだけど」

「気がする気がするって、あんた、確信を持てる行動をとってくださいよ!」

 怒号をあげる菁と、間延びしながらもいつもより覇気がある声を吐く愁眠。

 そしてなぜか、事務所は今朝出て行ったときよりも散らかっている。というか、愁眠とどういうわけか菁まで一緒になって、現在進行形で書類の山をめちゃくちゃに漁っている。

「ど、どうなさったんですか」

 言い合っていたふたりの目が一気に告の方に向く。と、愁眠はぎゅっと瞳を細め、よろよろと告の方に近づいてきた。

「愁眠様?」

「告……本当にごめん!」

 あろうことか、愁眠は告の前に跪いた。告もぎょっとして、膝を折る。

「えっ、あの、いったいなにが」

「お前に向ける顔がない……」

「それはそうですが、謝って済む問題でもありません」

 菁が愁眠を叱る場面はこれまでに何度も見ているが、なんというか、いつも以上に迫力があって怖かった。

「……君が出かける前に、現界式の案内の話をしましたね」

「は、はい」

「つい先に愁眠様が起床なさったので、告が帰ってきたら渡すように言ったんです」

 言いづらそうに口端をわずかにかもぞつかせながら、それでも、菁は告げた。

「なかったんです」

「なかった?」

「現界式の案内が」

「ええっと、紛失したということでしょうか」

「私も最初はそう思いました。だから、すぐに役所に向かったんです。そうしたら……君の輪廻届は受理されていないと言われたんです」

 告はぽかんとした。

「このポンコツ店主が提出を忘れたんですよ」

「いや、でも、俺の記憶だと提出した、気がするんだけどなぁ……」

「だから! 気がするじゃだめなんですよ! 告から受け取ってすぐに署名を書きましたか? すぐに提出しましたか?」

「う……た、たしかに、あとで書こうと思って、そこらへんにいったん置いたりはしたけどぉ……」

「あとでやろうは馬鹿野郎って言葉を聞いたことがないんですか!」

 怒りをどんどん燃やしていく菁に愁眠はどんどん小さくなっていく。今この店にやってきた人間は、どちらが上司か分からないことだろう。

「あの。輪廻届が受理されてなかったら、どうなるんでしょうか」

「現界式に参加できず、予定通りに輪廻ができなくなるんですよ」

 輪廻ができない。ということは、もしかしてここにいられる期間が伸びたりするのだろうか——。

「魂は誕生したその瞬間から、輪廻の天課——あらかじめ定められた回数の人生を熟すことが下されるのは、分かっていますね。君の場合は、残り九十九回」

「は、はい」

「それをこなす前に輪廻を拒むことは義務の放棄と見做され、天の裁きにより君の魂は消滅します」

 甘い期待はあっさりと砕かれた。

「君すら気づかぬ間に、君がいた事実すらも含めて、君はこの世界からも失われるのです」

 告の脳裏に郷里の景色が蘇ったのは、必然のことだった。

 当然、魂を失った経験はないけれど、しかし、存在しないように扱われてきたことはあった。前世でのことだ。

 告の両親は村の財を盗んで夜逃げした。残された告は裏切り者の子どもとして、そして身寄りのない捨て子として、そこにいるのにいないように扱われてきた。

 そのうちに告自身ももしかしたら、自分は透明人間か何かなのではないかと思うようになった。それまでは泥水を啜りながらもどうにか必死に生きようとしてきたけれど、生きている意味がだんだんわからなくなった。自分はこのまま、消えてなくなってしまうのだと思っていた。

 だが、告が命を落としたのはそれからしばらく先のことだった。あのとき告が命を落とさなかったのは、奇跡に遭遇したから。

 人生で一度だけ、神様に会ったことがある。

 周囲にそもそも親しい人がいなかったけれど、いたとしてもきっと誰にも言わなかっただろう、特別でかけがえのない、大切な秘密。

 顔には薄絹が垂れていて、それに隠され顔は分からなかった。名前も知らない神様だったけれど、告を認識して、告の願いを叶えてくれた。だから、告は生き延びた。

 そしてその結果、告は村人たちにも認知される機会が訪れた——告が命を落とす前日のこと。干魃に苛まれた村の、雨乞いの供物に選ばれてのこと。

 あのまま自分を見失って生きていくよりは、誰かの願いの糧になって命を落とせてよかったと思う。

 死んでから、配達屋で職員や客に認識されたことがすこぶる嬉しかった。

 だからずっとここにいたいという願いと、しかし輪廻の義務があるのなら来世でこそは、もっとちゃんと人の役に立って笑顔にできる存在になりたいと思っていた。

 魂が消滅して存在できなくなるだけでなく、告がいた事実すらも消えるなんて、いやだ。誰にも認知されず、誰とも関われない存在には、もう、なりたくない。消えたくない。

 地面がぐらりと傾く感覚を覚えて、机に手につく。「告、気をたしかにもってください」と菁が声を掛けてくれるが、沈みきった心が持ち上がらない。

 と、そのとき、開けっぱなしになっていた扉に影が差した。一刻も早く探し物に取り掛かりたい気持ちはあったが、配達屋は店であり、客は何よりも丁重に扱うべきである。告はぱっと振り返った。そこには霜天がいた。

「霜天様。どうなさいましたか。配達物に何か不備でもありましたか」

 菁の尋ねに、霜天は首を横に振った。

「いやいや、配達物にはなんら問題はないが……ずいぶんと無様な姿になっているな、愁眠。今度は何をやらかした?」

 糸のような瞳をわずかに開いて、いまだ床に項垂れる愁眠を見た。その眼差しも、声も、どこか意地悪い。

 愁眠は顔をあげ、睨むように霜天を見た。

「別に何も……やらかしてないことはない、けど!」

「やらかしてない程度で済む話じゃないです」

「菁!」

「ほほう。大事な仕事で失敗でもしたかな」

 霜天は告が配達屋で働き出す以前からの常連で、愁眠、菁と親しい間柄らしい。特に愁眠とはまるで歳の離れた友人のような気やすさがある。軽口を交わす彼らは、見ていて面白いし、憧れも抱く。

「告の輪廻届を提出し損ねたんです」

 上目で見る菁に、霜天が「ふむ」と顎髭を撫でた。

 ふいに思案顔になった愁眠が事務所をとこりと歩き、階段そばに積まれた書類の山からを見る。そこから一枚を抜き取って、こちらに見せてきた。

「これかね?」

 達筆な文字で「輪廻届」と記された覚えのある書類がそこにはあった。愁眠は飛び上がると、霜天の元に駆け寄る。

「あれだけ探しても見つからなかったのに!」

「こんなにも可愛くて優秀な職員の輪廻届の提出を忘れるだなんて、お前もずいぶんと薄情なものだのう」

「いや、出した気がしてたんだけど、なんか、出せてなかったんだよ」

「どうせ酒浸って忘れていたんだろう」

「それは菁にもさんざん言われたよ……」

「なら言い訳していないで自分の罪悪を受け入れることだなぁ。このままでは、彼の魂は消滅してしまう」

「うう……」

 愁眠が申し訳なさそうに唸る。大丈夫だと慰めたかったが、しかし、なかなか大丈夫ではない状況だった。

「告くん」

 霜天に呼ばれ顔を向ければ、彼は「すまないね」と謝った。

「釣果のお裾分けと本を渡す約束をしていただろう。実は忘れてきてしまってね」

「あ、いえ、そんな」

「そのお詫びと言ってはなんだが……君に機会を与えるようか」

 きょとんと瞬いた告に、霜天は皺の入った指をゆっくりと一本立てた。

「一時的に神守の資格を君に授けるんだ」

 きょとんとした告の傍で、愁眠は目を丸くし、菁は苦い表情を浮かべた。

「神守って……たしかに、告を天課に戻すにはその手しかありませんが……」

 告は、おず、と手を挙げて尋ねた。

「神守ってなんでしょうか?」

 一瞬バツが悪そうな顔をした菁は、こほんと咳払いをして、いつも落ち着いた表情を取り戻した。

「簡単に言えば神様の世話係です。大抵の場合はその神と縁のある者や、その神に生み出された者がなりますね」

「神様のお世話」

「この天界の全ての神様には、自身の神守が罪を犯した際に執行猶予を訴える権利が与えられています。つまり……君がもし神守になれたら、その権利を利用して、一時的に魂の消滅を先延ばしにすることができます。そしてその間に、天帝から下される試練を熟せば、罪は免除。君の場合は、輪廻の輪に戻ることができるようになるわけです」

 告はただただ茫然としていた。神様に仕えるだの。そのうえ、あらゆる神様の頂に立つ天帝から試練が下されるだの。なんだか途方のない話に感じてちっともぴんとこない。

「神守は主人から力を分け与えられている存在です。強い神様ほど、雇える神守の数は多い。そして強い神様は多忙ですから、大概はその席のすべてを埋め、自身を手伝わせています。ですから、神守の席が空いている神というのは大抵、個人主義か問題のある神がほとんどです」

「ひとりだけ知り合いにいるんだ。それなりの力を持っていて、神守を雇っていない神が。それでいて、その神自身が天帝からの試練を背をっている神様が」

「それって」

「菁」

 霜天に呼ばれた菁は、苦い表情を浮かべながら、口を閉ざした。

「どうだい。その神様の手伝いをしてみる気はないかい」

 霜天は告の方を向くと、にっこりと瞳を細める。

(霜天様は、いったいなにものなんだろう……)

 下天の隅で毎日釣りや日光浴、読書などに耽っている、隠居の余生を楽しんでいる老人のような存在。それが、告が認識している霜天という存在だった。下天に住んでいるから、きっとなにかしらの妖精なのだろうと推測していたけれど。凄まじい経歴の持ち主っだったりするのだろうか。

(そういえば、愁眠様は神様が多く住まう上天で働いていたことがあるんだっけ)

 常連のはじめて見る一面に連なって、以前他愛ない雑談の中で聞いたことがふっと蘇る。どういった仕事をしていたかまでは聞いていなかったが、彼ももしかしたら、神守だったのだろうか。霜天とは馴染み深いようだし、上天にいた頃の知り合いだとすれば、なるほどたしかにすごい存在の可能性はある。なんて、つい思考に沈みそうになるけれど——。

「お願いします、どうか、やらせてください!」

 今は何を考えるよりも、消えないために、与えたもらった糸に縋る他ない。

 神様には恩義があった。告に希望を与えてくれた神様については、はっきりと姿は拝むことができず、名前も聞きそびれてしまったけれど。それでも、その代わりに、神様という存在に恩返しができるのならば。それで、告の消滅も免られるのなら。

 霜天はにっこりと笑うと、手のひらを掲げた。

 すると——景色が一転した。

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