花の神守

爼海真下

神様のお守り

第1話

 人生で一度だけ、神様に会ったことがある。

 村の中で浮いてあぶれてまるで存在していないかのように扱われていた自分を、その神様だけが認識してくれた。

 神様は泣きじゃくる自分と視線を合わせ、なんでもひとつだけ願いを叶えて手くれると言ってくれて、そして実際に叶えてくれた。顔は薄絹に覆われ隠れていたけれど、何度も目が合った気がしたし、微笑んでくれたようにも思う。

 とてもやさしい、神様だった。

 その思い出が、生きる縁となった。


 *


 窓から朝陽が差し込むと同時、つぐるは目を覚ました。

 ぱ、と布団を捲って起き上がり、そばに畳んでおいていた薄水の衣装を広げて袖を通し、紺の腰紐を巻く。

 ひらりと裾を翻し黒い髪を撥ねさせながら、階段をと、と、と、と一段ずつ降りていけば、そこは告が所属する配達屋の事務所になっている。十畳余りの室内のあちこちに、箱や書類が山と積み重なっている。

「おはようございます!」

 告が元気いっぱいに挨拶をすると、部屋の中央にある長椅子に横たわる男がもぞりと蠢いた。この郵便屋の店主、愁眠しゅうみんだ。無精髭に囲われた口をむにゃむにゃと動かしなにかを零すが聞き取れない。寝言か、挨拶に返事をしてくれたのか——。

「おはようございます、告」

 凛と明瞭な声で告に返事をしてくれたのは、右手側の壁に面した机に向かって仕事をしていたすらりとした菫色の髪をした男だ。郵便屋の正式な職員は愁眠と彼、せいのふたりきり、告は配達屋の臨時職員である。

「愁眠様はまた遅くまで書類ごとをされていたのですか」

「ええ。夜には寝て朝早くから仕事をするように、といつも言っているのですがね」

「お酒が入らないとお仕事が捗らないんでしたっけ」

 長椅子の足元には空き瓶がいくつか並んでいる。「うっかり倒して書類を汚してはかなわないから、一度開けた酒瓶は寝るまでに飲み干す」というのが愁眠の信条だと以前聞いたことがある。菁はそれに心底呆れた様子だった。

「今日の分の配達物はそこにまとめてあるので全部です。件数が少し多いですが……いつも通り配達は君にお任せてしまっても大丈夫そうですか?」

「はい、もちろんです!」

 弾んだ足取りで「本日の郵便物」と書かれた箱に近づき中を覗けば、手紙や小包が整然と置かれている。告はひとつひとつに目を通していく。宛先を見たり、常連の名前があったら彼らの好む配達時間を鑑みて配達順を決めていくのだ。それから、側に置かれた革の鞄に配達物を丁寧に詰める。

 と、長椅子に転がる愁眠が唸り声を上げた。

「うゔ……さむい」

 菁は大きなため息を吐くと、唯一書類責めを免れている箪笥を開けて毛布を取り出し、「昨日は本当に遅くまで仕事をしていたようですから」と愁眠に掛けた。

「愁眠様は相変わらず、仕事熱心ですね」

「仕事熱心と呼んでいいものかどうか。余所が嫌がる仕事を積極的に拾ってくるわりには、酒が入らないとろくに働かない。彼の決裁が不可欠な書類は溜まって行く一方、それによって事務処理も滞り気味。結果、配達は君に丸投げの状況です」

 菁は愁眠の右腕的立場だ。彼がいなければこの配達屋はおそらく成り立っていないだろう。

「そろそろ仕事量を調整して規律の正しい生活をしてもらわないと困るんですがね。君の輪廻周期ももう少しですし、そろそろ、愁眠様の面接嫌いをどうにか説き伏せて正式な職員を増やすべきなのでしょうが……」

 どんどん渋い顔になっていった菁だったが、やがて、首を横に振った。

「すみません、君の輪廻は祝福すべきことなのに。愚痴っぽくなってしまいましたね」

「いえ、そんな。僕もできることなら、もっとここで働きたいぐらいです」

 天界には上天、中天、下天の三段階がある。上天には神様が住んでおり、中天には神様の眷属が暮らしている。下天は何にも属さない妖精や、地獄行きにならなかった輪廻周期待ちの亡者などが生活をしており、もっとも住民数が多い。

 告も亡者のひとりだ。亡者は次の輪廻の折まで下天で働く義務があり、配属先は役所によって自動で決められる。

「僕はここで働くことができて本当に幸運でした。いろんな方に会える郵便屋の仕事は楽しいですし。愁眠様も、菁様もとってもおやさしいですから」

 下天は広く、郵便物も多く、郵便屋は他にもある。その中でも、告はこの郵便屋で働くことができてよかったと思う。抜けたところはあれど仕事熱心な愁眠と、しっかり者で面倒見のいい菁。それぞれが素敵な人だと思うし、彼らのやりとりは見ていて明るく楽し気持ちになる。告はすっかりふたりに懐いていた。

「輪廻して現界に行ったら、前世のことも、天界で過ごしていた日々も。全部、忘れちゃうんですよね」

 だからこそ、寂しいと思う。

 そして、ちょっぴり、不安にも思う。

 これまでの記憶を失って、訪れる新しい人生で、自分は上手くやっていけるのだろうか。

「本当にこのまま、ここにいられたらいいのに」

 思って、つい口に出してしまって、はっとして。告はぱしっと自分の頬を叩いた。

「駄目ですね。あと九十九回も輪廻の義務があるのに、こんな弱気で甘ったれたこと言ってちゃ」

 きゅっと拳を握る。

「後ろに道はなし。ならば、前を輝かせるための努力をせよって。この間、霜天様に借りた物語の主人公も言ってました」

 そう意気込んだとき。告の頭が、やさしく撫でられた。先まで机に向かっていたはずの菁が、いつのまにかそこにいた。

「髪の毛が跳ねていましたよ」

「あっ、ありがとうございます」

 告の頭を何度か撫でると、白く骨ばった手が下ろされる。

「君ここに来たその日から積極的に配達の仕事を覚えて、私たちの力になってくれようとしました。お客様にもとても真摯に対応してくれました。天界の基準で見れば、君が働いてきた期間はそう長くはありませんが、それでも、君を覚え、君を慕っているお客様も少なくないです」

 ふ、と菁が笑う。

「君の魂はとてもまっすぐ、澄んでいます。それ故に苦労することもあるでしょうが、腐らず邁進し続けていれば、君に力を貸してくれる人は現れますよ。君が忘れても私たちは、君が君の望む人生を歩めることを祈り続けています」

「せ、菁様……!」

 ぶわっと溢れる涙を菁は手拭いでとんとんとやさしく拭ってくれた。

「君の現界式は来週ごろでしたかね。案内にはもう目を通しましたか」

「案内?」

 首を傾げると、菁の微笑みはあっという間に解かれた。額に手を当てた彼の表情はまた呆れたものに戻る。

「先日君に輪廻届を記載してもらい、愁眠様に提出してもらったでしょう」

「はい」

「愁眠様がそれを役所に提出した際の引き換えに、現界式の案内をもらっているはずなのですが……」

「えっと……はじめて伺いました」

 頬をかきつつ言えば、菁はソファにのんきに転がる愁眠を睨んだ。

「渡し忘れているのでしょうね。起きたらせっついておきますよ」

「よろしくお願いします……あ、そろそろ白鼠さんの起床時間になっちゃう」

「ああ、それは大変ですね。白鼠しらねずさんは怒らせるとお話が長いですから。早く行ってらしゃい」

 白鼠は、花の妖精だ。起床直後に中天に住まう文通相手からの手紙を読むことが彼女の日課である。それゆえに配達が彼女の起床時間から少しでも遅れると、告の手のひらほどの小さな体すべてを真っ赤にして。それはもうぷんすこと怒るのだ。

 告は配達物が詰まった鞄を肩にかける。玄関まで進んだところで、半身でぱっと後ろを振り返る。

「それでは、愁眠様、菁様、行って参ります!」

 手をひらりと振ってくれる菁と、ぐうすかといびきを立てている愁眠。

 見馴染んだ光景にたまらず笑みをこぼしながら、からりと引き戸を開け、告は燦々と火が降り注ぐ外へ駆け出した。

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