第17話

 ドクターが部屋に戻ってきたのは、それから十五分後のことだった。


「いやあ、済まないね。こちらも色々と忙しくて。ぼくしか出来ないことだらけで困ったものだ。属人化と言うのは、とっくのとうに消えてしまった文化のような気がしたのだけれどね?」

「いやいや、別に構わないよ。……寧ろ忙しい中急に押しかけたこちらが悪いのだから」

「そう言ってくれると助かるねえ……。いやはや全く、そのように他人を慮る人が増えてくれれば良いものを。今では、自分のことだけ考えていればそれで良いと考える、利己的な人間ばかりがウヨウヨしているよ」

「人間に悲観したか? ……正直、ドクターの考えそうなことではあるけれど」

「いやいや、まさかそんな。絶望はしても悲観はしないよ。幾ら人間が愚かな存在であろうとも、自らの種を滅ぼそうとすることは決してしない。そう言う意味では、まだまだ人類はやれることがあると思うがね。——さて、これがお望みの品だ」


 持ってきたのは紙のファイルだった。インターネットや電子ファイルが蔓延るこの時代に、わざわざ紙で印刷したファイルを持ってくるのは何ともドクターらしい。

 ファイルを何枚か捲ると、そこにはある新聞記事が載っていた。


「これは?」

「……東アジア非政府自治区。聞いたことがあるかね?」

「——名前だけなら」


 東アジア非政府自治区——文字通り、第三国の政府による統治が行われない自治区のことを指す。二〇二〇年代に起きた東欧地区を中心とした紛争のおかげで、東アジアの情勢も緊迫の一途を辿っていたが、大統領の交代により強い権力を誇示したいアメリカが中心となって、東アジアに空白地帯を設けることとなった。

 空白地帯というよりは、ある種の緩衝地帯とでも言えば良いか。

 沖縄本島の北西に位置する、円形型の巨大な人工島。

 正式名称は『イーストアジア・メガフロート』。

 アメリカが主導となって設立したのちに、中国と日本が参入し、現在では三カ国による共同大統領を派遣することで、一応は独立した体となってはいる。しかしながら、設置の経緯から今でもなお完全な独立国とは言い難く、国連にもオブザーバーとしか加盟していないし、その三か国と一部の国しか独立を支持していないのが現状だ。


「……東アジア非政府自治区は、何度か訪問したことがある。中国、アメリカ、そして日本——三つの国がそれぞれの文化を融合させたような、独特な空間だった。しかし、それが何だと?」

「これを見ると良い。ネオワールドがこの自治区成立に携わった可能性がある、という記事だ」

「何だと?」


 盲点だった。

 新聞記事というのは、あまり気にしてはいなかった。そもそも表舞台には一切出てこないと言われている組織だ。それがよもや新聞記事に掲載されているなどと思いやしない——いや、これは言い訳だな、間違いなく。


「ネオワールドは今もなお、東アジア非政府自治区をテリトリーとしている……これは間違いないだろう。信頼出来る筋からの情報だ」

「ネオワールドが、だと……」

「特定の政府によって管理されていない——即ち、完全に安定しているかと言われるとそうではない訳だ。当たり前だが、人間は自分の理想や意見を押し通したい生き物であって、敢えて一歩下がるという考えを持つ人間ばかりではない。そういう人間しか居なかったら、人類史に残されている多くの戦争はきっと実現することはなかっただろう」

「ネオワールドは、何を目的にここを……」

「さあ? それを調べるのはぼくの仕事じゃない。それは少なくとも、分かりきっている話だろう?」


 ドクターはそう言って、首を傾げる。

 ……ここから先は、自分で調べろ——そう言いたい訳か。

 わたしはそう解釈し、一回だけ頷いた。


「……その通りだな、ドクター。世話になったな」


 立ち上がり、わたしは帰ろうとする。

 ドクターは何かを思い出したかのように、あっ、と大きく声を出す。


「忘れるところだった。一個だけ追加で言っておかないといけないことがあったのだけれど。良いかな?」

「別に構わないが……。何だ?」

「ヒューマニティはどうして生み出されたと思う?」


 ドクターの問いに、わたしは目を丸くした。


「何故——生まれたか?」

「そうだ。如何してヒューマニティという人工知能が生み出され、如何して人間を統治するに至ったのか? 疑問に思ったことはないか? 正確には多くの人間が同じことを思ったに違いないのだろうけれど、しかしながらその疑問が解決したことはない——それがずっとずっと気になっていてねえ」

「答えは出なさそうだな、その疑問については」


 わたしの言葉に、ドクターは笑みを浮かべた。


「違いないね」


 そして、わたしとイブはドクターの居る部屋を立ち去るのであった。

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