第5話

 イデア社は、全人類の様々なデータを手に入れてしまった結果、絶大な権力を得てしまった。

 それは最早、国家のそれと均しいぐらいには。


「……ともかく、先ずは本人から話を聞き出した方が良いだろうね」

「そうは言いますが、慎重にお願いしますよ? 一応、自ら命を絶とうとしたぐらいに精神が不安定になっているので」

「それぐらい分かっているよ」


 それとも、わたしがそんなことを考えずに、パーソナルスペースに土足で踏み入るとでも思っていたのか?

 それはそれでちょっと厭だな。

 そう独りごちり、わたしは教室へと入っていった。



◇◇◇



 廃ビルだったはずなのに、どうして教室があるのだろうか——ふとそんな疑問が浮かんできたが、直ぐにここにかつて塾があったことを思い出して考えるのを辞めた。

 ヒューマニティの流行に伴って廃れていった文化の一つである、塾。

 そもそもインターネットが世に出回ってから、対面での教育にあまり重要視しなくなったような気がする。とはいえ、なかなか前に踏み出せなかった自治体もあった訳だけれど、二〇〇〇年代も後半に差し掛かったあたりから本格的にインターネットを用いた教育プログラムが商業で出回り始めてから、塾の立ち位置が大きく変容していったのだと、勝手に考えている。

 二〇二〇年代に流行した感染症の影響で、大きく世界はリモートに舵を切ったとはいえ、それでも風前の灯火と揶揄される程度には塾という文化は残っている。やはり対面で学んだ方が良いと考える親は少なくないからだ。

 そんな教室は、古びている割には綺麗であった。机や椅子も整然と並べられていて、多少ゴミが散らかっているとはいえ、それを掃除してしまえば直ぐにでも使えそうなぐらいだった。

 そんな、教室の真ん中にある椅子に、一人の少女が腰掛けていた。

 少女はわたしに気付くと、笑みを浮かべて頷いていた。

 いや、どちらかというと会釈かな?


「どうも、こんにちは。ええと、きみが」

「マツガヤです」

「下の名前は?」

「アズサです」

「成る程、良い名前だね」


 名前を聞いたからには、何かしら反応をしておかないとね。

 わたしの名前に比べれば、何百倍も良いよ。


「……辛いことを何度も聞いてしまって、悪いとは思っている。けれど、話してくれないかな」


 前の椅子に腰掛けて、マツガヤに問いかけた。

 彼女は怯えていた。小刻みに震えているのが見えるからだ。さりとて、それを解決する術など、今は持ち合わせていない。当然と言えば当然だし、致し方ない。時間が解決するかというと、それを断言出来る保証もない。

 自ら命を絶とうとしたのだ。

 恐ろしいぐらい、想像もつかないぐらいの、何か得体の知れない気持ちがあったのだろう。

 うわべだけを見て語るのは良くないってことは、とっくのとうに理解している。

 しかしながら、警察官としてある以上、事件の判断はしなければならない。

 極めて冷静に。

 極めて公平に。

 極めて——正確に。


「……怖くなったの」


 マツガヤはぽつりとわたしに言った。


「怖くなった?」

「そう。何故だか知らないけれど……」

「急に、ってこと? ヒューマニティが予兆通知エクスプレスアラートを出したのでは?」


 首を横に振る。


「おい」


 マキモトに問いかける。


「ええ、確かにその通りです。彼女の端末デバイスを見せてもらいました。結果は、彼女が言っている通りです。端末は——ヒューマニティは、予兆通知を出していません」

「……どういうことだ? 精神的な兆候が見られなかった、にも関わらず……」

「——分かりません」


 マキモトは項垂れる。


「分からないからこそ、彼女から話を聞くべきと思ったんです。この自殺未遂には、何かがあるって」

「分かるが、」


 わたしは一瞥する。


「……当事者を目の前にして言う台詞ではないと思うけれどね」

「それは……」


 マキモトは口を噤む。

 彼女は、何処か突っ走ってしまうきらいがある。それは別に悪いことではないだろう。長所の一つとして捉えたって、悪くはないかもしれない。しかしながら、それが百パーセント長所だとは言い切れない。長所でもあり短所でもある——そして、今はそれが短所であることを、遺憾なく発揮しているのだ。


「とにかく、一先ずここを出よう」


 当事者に延々と話を聞いたって良いかもしれないけれど、今はそんなフェーズではない。

 心を落ち着かせて、また日常を送れるようになってもらわなければなるまい。

 そう思って、わたしは半ば強引にマキモトを連れて教室の外に出るのであった。



◇◇◇



「……しかし、不可解ではありませんか?」


 廃ビルの外で、マキモトは問いかけた。


「何がだ?」

「だから、おかしいですって。ヒューマニティが予兆通知を出さなかったのに、彼女は自殺しようとした。これっておかしいですよね? 精神的な不調が出ていれば通知を発して、適切な医療機関へ受診を提案する。それと同時に近所の自動医院オートマティックホスピタルにも通知されるシステムだったはずです。だのに?」

「……まあ、言いたいことは分かる。これじゃあ、まるで——」


 ——ヒューマニティが、彼女を自殺するように誘導したような。

 そこまで考えたが、同時にそれは有り得ないとも思った。

 全人類の様々なデータを蓄積し、人類をより良い方向へと歩ませるための人工知能が、人間の命を自ら終わらせるように仕向けた?

 仮にそれが実証されるとして——我々は何を裁けば良いのか。

 人工知能を裁いたところで、それはどう罪を償うのか。

 全く、分からない。


「……わたしは一度帰る。一度レポートを纏めてもらえるかな?」


 マキモトに面倒ごとを押しつけて、わたしは一路帰ることとした。

 行き詰まる時は、いつも決まってこうだ。

 だからマキモトも分かったような諦めたようなそんな感じで溜息を吐いて、


「承知しました。また連絡します」


 そう言って、敬礼をするのだ。

 だから、わたしも敬礼を返して——廃ビルを後にするのであった。

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