第8話 夢の声
「夢? あるよー私の夢はね……」
「私ね、猫になりたいの」
「……はい?」
世界が動きを止めた。俺はこの瞬間確かにそう感じた。風になびく琴葉さんの髪は命があるようなそんな気さえしていた。
俺は自分の耳を疑った。勘違いかもしれない。噛んでしまっただけかもしれない。
でもそれは俺の勘違いなどではなかった。俺の反応に対して琴葉さんは穏やかな表情をもってすべてを悟ったように微笑んだ。
「猫、ですか……」
「うん。意外でしょ? 私はね、薫君。人をやめたいの。別に猫でなくてもいい。犬でもいいし、鳥だっていい。でもそうだな……檻の中だけは嫌だなぁ」
琴葉さんはどこか遠くを眺めながら呟く。彼女の膝の上で体を伸ばしていたさくらもこの時だけは彼女の表情を見つめていた。
「なんで、その夢を……」
言葉が詰まる。
味わったことのない唾液の味がとても苦く感じられた。
「そうね……ほら、私一条でしょ? 知っての通り、私の人生に選択肢なんてなかった。ただ引かれた線路の上を親の顔色伺いながら歩き続けるだけ。だから羨ましかった。将来のことなんかまったく考えずに遊び惚けている人、家に帰れば誰かが待っててくれる人。まさか、人以外にもこの感情を抱くなんて想像もしてなかったけどね。私は自由になりたい。自分の好きなことを勉強して、自分の好きな仕事をしたい。一条を継ぐなんて、私にとって与えられたものでしかない。夢なんてきれいな言葉じゃない。現実の、しかも絶望っていう醜い言葉なのよ」
これはきっと、琴葉さんの本当の声だ。
俺はそれを確信した。
言葉遣い、呼吸、表情、素人でも十分に理解できるほどそれらは顕著だった。
なぜだろう。
涙が出そうになっている。
だがここでそれをしてはいけない。本能でそう感じた。だから俺は逃げるという道を選ばない。いや、選んではいけない。
「俺、漫画家になりたいんです」
「え?」
これは自信ではないだろう。ただの漫遊かもしれない。慰めにならないということをわかっていて、俺は今から夢を語るのだ。意地が悪く、なんと不格好な男だろうか。だからこそ、それでもかまわないと思っている自分に恐怖すら感じている。
「中学時代、俺はいじめの被害者でした。来る日も来る日も体を殴られ蹴られ、暴言を浴びせられていました。たった一人の友人がかばってくれましたが、それでも心に受けた傷は癒えることなく、俺はどこまでも沈んでしまいました。そんなときに出会ったのが、ある一冊の漫画なんです。その漫画から俺は勇気と希望、そして夢をもらいました。だから今でもこうやって生きていられます。少しでも俺の漫画で誰かの心を救いたい。だから俺は漫画家を夢見ました」
「薫君、さっきから何を言って……」
「まだ、全然完成してはいないんです。でも、そのときになったら俺は、その……琴葉さんに一番に読んでもらいたいんです。だから、人をやめたいだなんて悲しくなるようなこと言わないでください」
俺の言いたいことは琴葉さんに伝わっただろうか。どうしても回りくどい言い方になってしまった。
「ぷっ、あはははは」
そんな心配をしていた矢先、琴葉さんが大声で笑いだした。お腹を抱えて涙ぐんでいる。
「な、なんすか」
「だって、薫君、いつになく真剣で面白かったんだもん。そうね、そうだよね、私が人じゃなくなっちゃったら、薫君の漫画読めないもんね。あははは」
「そんな笑うことっすかね?」
「いやいやごめんねぇ、別に馬鹿にしてるわけじゃないよ? ただあまりにも薫君がおもしろかったし、それに本当に人を辞めるなんてできないじゃない」
「そ、それはそうですけど。なんというか、言葉の綾と言いますか……」
「うん、わかってるよ。大丈夫。でもありがとう。そんなこと言ってくれる人初めて……悲しんでくれるんだ」
また思い出したような笑い出す琴葉さん。
俺は自分の顔が真っ赤になっていることに気づく。それほどに体は熱かった。
「じゃあ待ってるね。薫君の漫画」
「は、はい」
声が小さくなってしまう。
「そんなに縮こまらないでよ」
「なんか、悔しいっす。負けたような気分です」
「録音したかったー」
「か、からかわないでください」
「えーいいじゃんー」
「よくないっす。それに琴葉さんだって……」
いつの間にか空には赤みが増し、漆黒に似たカラスが鳴き始める時間になっていた。
桜の花びらが落ち切った青葉の木の下で、二人のやりとりをただ静かに眺めるこの猫は大きなあくびをして目を細め、微笑んでいた。
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