第5話 桜に落ちる雫
「それにしても、琴葉さんって生徒会もやって部活にも入ってるんですか?」
「そうよ。生徒会のほうが忙しいから嫌になっちゃう」
公園のベンチに二人で腰を掛け、さくらが俺たちの間でくつろいでいる。琴葉さんがさくらの背中をなでると気持ちよさそうに体を伸ばしている。
「なんの部活なんですか?」
「バスケ部よ」
「え、バスケですか…」
「意外?」
「ええ、まあ、少し」
いや、はっきりと言って意外過ぎる。とても目の前のお嬢様のような女性がノースリーブのユニフォームを着て汗だくでボールを追いかけているのは想像できない。少し押されれば倒れてしまいそうなのに……
「これでも一応レギュラーだからね。身長は160ちょっとだから大きくはないけどその分、体力とシュートを磨いているの」
そう言って急にシュートのフォームの形を作る。
左手は添えるだけ、なんて言葉をどこかで聞いたことがあるがまさにその通りだった。ふっと右手に持っていたっであろうボールを投げるしぐさをする。なんとなく、本当になんとなくではあるがコートに仲間と立ち、長い髪をかき上げて集中し、ボールを放つ琴葉さんの姿が目に浮かんだ。
きれいだなぁ……
「薫君?」
琴葉さんが不思議そうにこちらを見つめている。
「は、はひっ!」
思わず変な声が出てしまった。
顔が熱い。おそらく赤くなっているだろう。
「なにその声」
手を口の近くに添えて笑っている。どうやら顔は見られていないようだ。
「ぼ、ぼーっとしてただけです」
「ほんとにー?」
「ほんとっす」
嘘だ。
俺は今、琴葉さんに見とれていた。果てしなく遠くにある彼女の背中に、そして誰よりも自由に自分の世界を飛び回る彼女の姿に。
自分の思い描いた世界以外で初めて俺は違う形の自由を見たかも知れない。
それは間違いなく、美しく華やかであった。
恥ずかしくなり、のどが渇いたといってその場から離れた。近くの自動販売機まで行き、お茶を二本買う。一本を琴葉さんに渡した。
「ありがと」
「いえいえ」
「薫君、一つ聞いていい?」
「なんですか?」
「なんでさくらのお世話、受け入れてくれたの?」
ちょうどペットボトルを開け、お茶を飲んでいた時だった。飲み込むまではしゃべれない。だが、あまりに時間が短すぎる。
それほど琴葉さんのなぜ、という問いに対してはっきりとした答えを俺は持っていなかった。
「そうですね……さくらが可哀そうだと思ったのはもちろんですけど、なにより…」
「なにより?」
「自由だと思ったからですかね」
「……自由」
なんとも抽象的で曖昧な答えだろうか。琴葉さんも呆然としている。
「自分のやりたいことをやりたいようにする。命を育てるんで軽いことは言えないですけど、自分で責任を持って決めたって感じがしたからだと思います。俺は結構、そういう風にやっていきたいんですよ」
さくらを抱き上げ、座っている足の上に乗せる。背中をさすると琴葉さんほどではないが気持ちよさそうな顔をしてくれた。
「琴葉さんはどうして…って、え?」
同じことを聞こうとして顔を横に向けるとそこには今にも涙を流しそうな琴葉さんの顔があった。
「こ、琴葉さん?! ど、どうしたんですか?」
「え、あ、こ、これは違くて、その、目にゴミが入っただけだから…」
とてもそうには見えない。
それで、あんなに悲しそうな顔はしないはずだ。
「大丈夫ですか?」
「うん、ほんとに大丈夫、ごめんね急に」
「い、いえ」
ハンカチを取り出し、目元を拭う。
さくらもどことなく琴葉さんを心配している様子だった。
沈黙が続く。
何を話せばいいのかわからない。
「ごめんね、驚かせちゃって」
先に口を開いたのは琴葉さんだった。
「いえ、俺は大丈夫です」
何か言うべき言葉があるはずだ。
目の前の涙を流した彼女を安心させる言葉が。
「え、えっと、琴葉さん」
「ん?」
「俺でよければ話くらい聞くんで、何かあったら話してください」
「……うん、ありがと」
琴葉さんは目を見開いたあとで優しく微笑んでそう言った。
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「では、俺はこれで」
「うん、ありがと」
「またな、さくら」
「にゃーん」
夕日が鮮やかに空を彩っている。
さくらのことは琴葉さんに任せることにした。さくらのおもちゃや餌を彼女に渡し、俺は家に帰った。
なんとなくペダルを踏む足が重い。
気がかりな点が多いからだろうか。いや、そもそもなんで俺はここまで琴葉さんを心配しているのか。
考えれば考えるほど答えが見えない。
そんなことを繰り返しているとあっという間に家に着いてしまった。
「ただいまー」
明かりのついていない暗い部屋と人気のない不気味さが俺を迎える。
時計に目をやる。5時半だった。
この時間ではまだ両親は仕事から帰ってきていない。
自分の部屋に向かい、着替える。
例の原稿が入った棚を開け、白紙の紙を取り出す。そしてペンを手に取る。
忘れないうちに描いておかないと……
一度スイッチが入ってしまうと中々切れないのが俺の性格だった。黙々と作業を進める。
時計を見る瞬間も空腹であるということさえも忘れて、ただひたすらに描き上げていく。
「よし、いい感じ」
出来上がった絵を見つめ、自分の技術の上達を感じる。
体を伸ばし、時計を見る。
午後7時40分。
「2時間やってたかー」
感じていなかった空腹が襲ってきた。部屋を出て夕食を食べにリビングに向かう。
机に残された絵には一人の美しい女性と猫が桜に囲まれていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この時、俺はまだ何も知らなかった。
彼女の涙の理由に。
彼女が抱える大きな過去と暗い未来に。
そして、彼女とさくらの運命に。
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