第3話 さくら

「猫…?」


 俺に用がある、というよりはむしろ地面に落ちている桜の花に夢中な様子だった。


「野良猫?」


 あたりを見渡すが、飼い主らしき人影は見当たらない。親猫が近くにいるというわけでもなさそうだ。


「お前、どっから来たんだ? よいしょっと」


 子猫を軽く抱き上げ、顔を見る。

 野良猫とは思えないほどきれいな青みのあるエメラルド色の瞳をしていた。見とれてしまうほどだ。


「お前も一人なのか? 親は、家族はどこ行った?」


「にゃー」


 高い声で鳴く子猫。まるで「いない」と返事をしたように俺には聞こえた。


「そっか、お前も一人か。お前、名前は…って、んなこと知らないか……」


「さくらよ」


 猫相手に何を寂しく話しかけているんだか……ん?


 どこからか声が聞こえた。

 後ろを振り返る。

 そこには俺の高校とは違う制服を着た、長い黒髪の女が立っていた。顔立ちは雑誌で見かけるモデルのように美しく、目の形は鋭いが瞳の奥に青い優しさを孕んで見える、まるでどこかのお嬢様のようだった。


「え、えっと……」


 急に話しかけられたこともあり、動揺してしまう。


「その子の名前、さくらって言うの。あなた、よくさくらを抱っこできるわね」


「え、あ、この子の飼い主さんですか。すいません、勝手に」


「いや、私はその子の飼い主じゃないわよ。その子はあくまで野良猫。この公園に住んでるのよ」


「じゃあ、さくらっていうのは…」


「私がつけた名前。この子、初めて会ったとき桜の花びらを追いかけて公園から飛び出してきたのよ。危うく自転車で轢いちゃいそうになってね。ここ1週間は私がここでこっそりミルクあげたりしてるの」


「そうなんですか」


 彼女は優しい笑みを浮かべながらさくらに近づき、俺の手からさくらを受け取った。母が帰ってきたかのように嬉しそうな顔を見せる。なんともかわいらしい様子だ。


「さっきも言ったけど、あなたよくさくらを抱っこできたわね。この子、人見知りで人間はともかく他の猫にも警戒心が強いのよ。ほかの人が来るとすぐに隠れちゃうし」


「俺がここで桜を見てたら、この子から寄ってきたんですよ。足元のさくらに夢中で気づかなかっただけかもしれないですね」


 軽く笑いながら話す。


「この子はそんなにドジじゃないわよ。きっとあなたからは優しさを感じたんでしょうね」


「優しさ、ですか…」


 何の変哲もない単語がすっと自分に入らない。


「ほら、聞かない? 動物には人間にはない感覚があるって話」


「俺はあまりそういうオカルト系は信じないので」


「オカルトじゃないわよ。案外リアリストなのね」


「そうですかね。でもそれで言うなら、さくらはきっとあなたからも優しさを感じているんじゃないですか?」


「……そんなことを私にいう人は初めてね」


 小さくつぶやく彼女。そんな彼女の瞳からはどこか悲しみの色が映ったように俺には見えた。


「え、そうですか。俺は優しい人だと思いますよ、えっと……」


 そういえば名前を知らない。

 ここまで互いの名前を一切明かさずに話していたのを忘れていた。


「私……」


 何かを恥ずかしそうにぼそぼそとつぶやいている。聞き取ることは難しかった。


「はい?」


「私の名前。一条琴葉いちじょうことは


「あ、すいません。俺は蒼乃薫です」


「薫…素敵な名前ね」


「え、あ、ありがとうございます。一条さんは優しい人だと思いますよ。それに名前だって」


「……そう、ありがとう。でも、名字で呼ばれるのは好きじゃないのよ」


「そうなんですか、すいません…じゃあ、琴葉さん」


 なんだか照れくさいような気分になる。

 さっきの自己紹介とは意味も形も何もかもが違う別物のように感じた。


「薫君、一つお願いがあるんだけど」


「何ですか?」


「この子…さくらのお世話を手伝ってくれないかしら」


 まっすぐにこちらを見つめて話す琴葉さんの表情を心配そうに見つめるさくら。中途半端な返事はできそうになかった。


「お世話ですか…」


「私、ここからちょっと先のたかみや高校に通ってるの」


「鷹ノ宮ですか?!」


 名門、たかみや高校は偏差値が70の県屈指のエリート校でその倍率は例年3倍以上にもなる高校だ。高校の受検で3倍というのは異常そのもの。俺とは住む世界が違うようだ。


「それでね。勉強とか部活とか色々と忙しくて、本格的に学校が始まっちゃうとさくらのお世話が難しくなるの。その制服、近くの雀野すずめの高校でしょ?薫君さえよければ、私ができないときにここにきて、さくらの相手をしてほしいのよ」


「なるほど…って、琴葉さん、もしかして3年生ですか?」


 そういえば、俺は琴葉さんに会ってから敬語しか使っていなかった。普段知らない人と話すときは敬語だが、琴葉さんには敬語を使っていて違和感が全くなく自然と脳が年上と判断していた。そのことにすら気づかないほどに俺は琴葉さんと話していたのだ。


「いや、3年ではなく2年よ。薫君、もしかして1年生?」


「はい。昨日が入学式で」


「そう…じゃあ私より忙しいかもしれないわね」


 視線を下げ、抱えたさくらを見る。普段ならすいません、と言って終わるのだが、なぜかそうしてはいけないような気がしていた。


「大丈夫ですよ。部活も特に入るつもりないですし。強制だったら活動日の少ないところ入るんで」


「それは申し訳ないわよ。お願いした私が言える立場じゃないけど、せっかくの高校の部活を無駄にするのは薫君にとって…」


「それは考えなくていいです」


 琴葉さんの話をさえぎって俺はそう伝えた。

 きっと俺の顔はひどく強がっていただろう。俺の言葉を聞いた琴葉さんの表情からなんとなく察した。俺にとって、思い出したくない記憶が出てきてしまいそうだったからだ。もしかするとさくらにも何か伝わってしまったかもしれない。申し訳なさが俺の中に残った。


「琴葉さんが来れない日は言ってください。俺のことは心配しなくて大丈夫ですから」


「そう…じゃあ連絡先を交換しましょう。スマホ持ってる?」


 そう言うと、琴葉さんはさくらを抱えたまま、片手でスマホのアプリを開き、俺にQRコードを見せてきた。


「はい」


 俺もスマホを出し、QRコードを読み取る。

 アプリに高校生となり初めて追加されたのは、クラスの男子でも女子でもなく、琴葉さんの名前だった。


「これからよろしく、薫君」


「はい。よろしくお願いします」


 風が吹きつけ、髪が激しく靡いた。

 桜の花びらが舞い、それに反応してさくらが琴葉さんの腕から抜ける。

 必死に花びらを追いかけて捕まえようと前足を延ばすさくらを俺と琴葉さんは笑いながら見ていた。

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