誑し込むには十二分
古柳幽
死人に口なし
いつまでも渋っていた俺を乗せた車は昼頃には相変わらずなにもない田舎道を軽快に進んでいて、鼻歌混じりの母の独り言をBGMに、俺は揺られながら文字を追っていたせいで催した吐き気に緩やかな対抗をしていた。
「吐きそうだったら言えよ、シート汚したら掃除が面倒だから」
「吐きそう」
「もう少しだから頑張れ」
自分が言ったくせに一向にスピードを緩めようとしないどころか加速している父に苛立ったものの、全開の窓から入る生ぬるい風だけが頼りな俺はサービスエリアで買ったペットボトルの入っていたビニール袋を片手になにもすることはできず、ひたすらに胃から込み上げるものを押さえつける。胸元をぐるぐると捏ね回す嫌な気配は、去ったかと思えば再び戻ってくるのをなんども繰り返していた。つい先月、先輩に乗せられて強制的にドライブという名の愚痴吐きに付き合わされたときは平気だったのに、と考えても仕方がない。
そろそろ限界を感じるものの、やはり車は止まる気配がないので、見せしめに父の実家での最初の仕事を愛車の掃除にしてやろうとも思ったが、強い吐き気の割に実際、出てこないのは俺の理性か身体の気まぐれか。とはいえそろそろ到着するのは確かなようで、去年も見た大きな看板が目に入る。
「帰ったら飯だ、また大量に作ったらしい」
「相変わらずねえ。美味しいから嬉しいけど」
今の俺には嬉しいどころかとどめになりうる話を息子そっちのけでするのもどうなんだと苦言を呈したくなったが、義実家との関係がいいのは喜ばしいことだろうと自分に言い聞かせる。
どうせ、シートが汚れてもそこまで気にしないのだ。一昨年あたりに耐えきれなかったときにも叔父に掃除させていたし、愛車とは言うが俺が小さい頃から乗っているオンボロである。おおよそ吐瀉物を見たくないとかそういう理由だった。
*
予定通り昼前についた父の実家は俺の家の周辺ではなかなか見ない規模の日本家屋といった風体で、周りには毎年死にかけながら帰省する俺でも公共交通機関を使おうなどとは言う気になれない風景が広がっている。
慣れた運転捌きで庭の隅に駐車した父は早々に家の奥に引っ込んでいって、母もそれを追って祖母に挨拶がてら台所に入って行った。
父の聞いていた通り、食卓には大量の食事が並べられていたが俺はそれを見ていることもできず、縁側で外の空気にあたりながら電波の怪しいスマホを片手に横になる。読み込みの終わらない画面を見ていても面白くもないが、今動いても良いことはないのは十分に自覚している。
居間の方からは三人が談笑する声が聞こえる。心配して欲しいわけではない。毎年のことだから、俺も彼らも慣れている。一時間もすれば動けるようになるのは分かっているからだ。ついでに言えば、ここの電波が悪いのも分かりきったことだった。一年で基地局が増えていれば、などという淡い期待は案の定叶わないままで、ド田舎で何もないここは、どう足掻いても俺にとって楽しいところではなかった。
「またダメになってるのか。相変わらず車に弱いね」
鞄に入れた本を取りに行こうと体を起こそうとしたところで、不意に頭上から声が降ってくる。父と似た声色のそれだが、あれの通るものよりも多少間延びして抑揚が少ない。
「あのオンボロ、いつになったら買い替えてくれると思います?」
隣に座った叔父にボヤけば、兄さんは物持ちが良いからねとおおよそ見当はずれな回答を出した。
*
あれから叔父が持ってきた酔い止めでなんとか回復した俺は、調子に乗って食べすぎたせいで再び吐き気に襲われて、というふうに例年よりも酷い醜態を晒してひとり先に用意されていた部屋で休まされることになり、いつにも増して哀れみの目を向けてくる両親と、相変わらずの子ども扱いの祖母に居た堪れなくなった俺は大人しく布団に潜るしかなかった。
いつの間にか眠っていたようで、気づけば夏の長い陽も落ちて、周囲は静まりかえっている。外から聞こえる虫やら蛙の鳴き声が、妙に響いていた。
枕元に置いていたスマホは深夜一時過ぎを表示している。二度寝しようにも随分と長いこと寝ていたようだから、なかなか眠気が来る様子がない。明日早く起きる用事もないので無理に眠ることもないが、やることと言ってもすぐには思いつかないもので、仕方がないので水分を求めて部屋を出た。
台所には酒の空き缶がそれなりに積まれていて、いつも通り酒盛りをしていたことが見てとれる。両親の酒好きはいつものことだが、祖母の酒豪ぶりも年を考えろと言いたくなるほどだ。うちの家系は肝臓が強いからというのがいつもの言い訳である。
それに比べて、叔父はあまり飲んでいるところを見たことがない。本人曰く、家で一番弱いのだと言う。祖父も飲まなかったのでそれに似たのだろうと言われているが、まれに飲んでも酔っている雰囲気はなかったから、どちらかと言えば酒が好きではないのではと思う。
適当なカップで麦茶を流し込んだあと、俺はさっさと部屋に戻ることに決めた。することがない。さらに言えば古い家の独特な暗さが俺は苦手で——
庭の方で砂利を踏む音に飛び上がるほど驚いた。
恐る恐る縁側から覗くと、月の明るさだけの闇の中に青いものが動く。昼間も見た、叔父の派手なシャツだった。青い中に、大柄な花が仄白く映えている。叔父は庭木か、はたまたその奥かを眺めながら青い煙を吐き出していた。
仏間の線香の香りに混じるのは煙草の匂いだったかと、初めて気がついた。
両親も祖父母も吸う人ではない。皆で集まっているときにも、たまに何処かへ行くことは知っていたが、身内に喫煙者が居ることは知らなかった。
叔父は吸い殻を小さな入れ物に突っ込むと、徐に振り向いた。俺は反射的に陰に隠れる。叔父はこちらに気づいていないようで、家の裏にある山の方へ歩いて行った。
こんな夜更けに何をしているんだとか、今だに着替えずにいるのかと疑問はあったが、それよりも行き先が気になった。正直に言えば、夜の山に行くのだとしたら恐ろしいことこの上ない。
先輩に大学近くの心霊スポットに行くと言われたときは、年柄もなく駄々をこねて拒んだ程にそういうところは苦手だった。その時は無理矢理連れて行かれて、翌日まで文句を垂れたら昼食を奢ってもらったが。奢りといっても学食の安い定食だったから、妥当な対価かと言われれば納得できるものではなかった。
それでも行き先が気になった。多少、街灯の少なくても走れば人家のある街中の心霊スポットどころか、知らない山の中である。心霊的な恐怖もあれば、野生動物の危険もあった。
だが、それでも俺は、ついていくために玄関へ靴を取りに行っていた。何も知らない叔父の——秘密を暴きたいといったら下世話な話だが、年相応の好奇心と言えば聞こえはいい。
庭へ出た時には、叔父はもう山へ入ろうというところだった。いつの間にか、片手にシャベルを持っている。慣れているのか軽快に獣道を登っていく叔父に当然俺はついていくことができず、二十分も経ったころには後ろ姿は見えなくなっていた。このとき初めて山に入ったことを後悔した。ただ、まだ道は分かる。続いていく道も判別が付くものだったし、ところどころに叔父の足跡らしきものも残っている。何もなかったことにして引き返すか、このまま進むか……。逡巡したのち、好奇心が勝った。
緩やかな登り道。叔父が見えなくなったのを良いことに、真っ暗な中をスマホのライトで照らして歩いていく。そういえば、叔父は灯りを持っていただろうか。月明かりで周囲は薄ぼんやりと見えるとはいえ、危険すぎる。
普段通学か遊び歩くくらいしか動かない俺に山登りは思った以上にキツいもので、恐怖よりも疲労が募ってくる。立ち止まってはみるものの斜面で一息つけるものでもなく、降りようとも思ったが、疲労に隙が生まれると、今度は恐怖が押し寄せる。
ならば叔父を見つけて謝ったら一緒に帰ってくれないだろうかとまで考えた。勝手についてきたところで頼むのも身勝手極まりないが、背に腹は変えられない。
そこから幾分か進んだところで、眼前に開けた場所が見えた。なにやら物音がする。叔父が居るのだろうと、見つかることも構わずに出ていく。案の定叔父が居て、掘り返された地面の隣で紫煙を燻らせていた。
「やっと追いついた」
やにわにかけられた言葉に俺が動けずにいると、叔父はこちらを振り返る。薄暗さと目にかかる前髪のせいで表情は読み取れない。それよりも、俺の視線は彼の足元にあるものに引き付けられたままで、叔父がどういう顔をしていようが関係なかったかも知れない。
「気づいてたんですか」
「そりゃお前、あれで隠れられてると思ったの」
「なんで言わないんですか」
「勝手についてきたんだろ。面倒」
そう言って、彼は足元のブルーシートを足蹴にして穴の中へ落とした。軽く包まれていただけのそれは深い穴に落とされた瞬間、蒼白い四肢を投げ出して転げ落ちていく。
「マネキンじゃないですよね、それ」
「なんで夜中に山でマネキン埋めなきゃならないんだ」
たしかにマネキンを埋めるのは意味がわからないが、ならば死体を埋めるのだって俺にとっては意味がわからない。証拠隠滅なら筋は通る。倫理観を除いて。
「それ誰です」
「お前の知らない奴だよ。言っても分からないだろ」
「じゃあなんで埋めてるんですか」
「知らなくていいよ」
「気になります」
「教えないよ」
そんな簡単に自白しないよと言って、今度ははっきりと笑ったのが見えた。一服終わった叔父は火を揉み消した煙草をそのまま穴に落として、今度は盛られた土を穴に戻し始めた。俺はそれを見ていることしかできなくて、徐々に消えていくそれは果たして誰のものか、性別も、歳も、人相も、何もわからないまま均される。
「ほら帰るよ。帰らないんだったら置いていくよ」
置いて行かれるのは御免なのであとをついていくしかない。細い体のどこにその体力があるのかと疑問に思うほど軽々と降りていく叔父を必死で追いかけた。
庭まで出ると相変わらず家は静まり返ったままで、誰かが起きている気配はない。叔父は家に戻ったかと思えばまたすぐに出てきて俺を車に乗せ、行き先も告げないまま走り出す。
山で人間を埋めるなどという非現実的な事象を目の当たりにすると思考が鈍るらしい。俺は大人しく乗せられて暫く経ったあと、自分があまり良いとは言えない状況に置かれていることに気づく。山に居た時に、あのブルーシートと共に埋められなかったのが奇跡とも言える。
どこに行くんですかと聞いてもはぐらかす叔父に、それなりの覚悟を決めた方が良いのではないかと先輩の車に乗せられたときよりも遥に強い緊張感を抱きながら、それでもかなり速度の出ている車から飛び降りることもできずに座っていた。
叔父の趣味なのか、やけに騒がしいボーカルが何かを喚いている。灯りの少ない田舎道で行き先もわからず、山でも畑でも隠す場所はいくらでもあるだろうなと最早諦めのようなものもあった。
そんな覚悟とは裏腹に、ついたのは家から一番近い——と言っても車がないと少々辛い距離だが——のコンビニで、暗い場所を想像していた俺はその目を刺す灯りに安堵した。俺を降ろした叔父はそそくさと中へ入ったかと思うとアイスケースの前で手招きをしている。
「好きなの選びな」
並んだアイスを指さして、自分は手近にあったものを取った。意図が分からず叔父の顔とアイスケースを交互に見ていると、彼は怪訝な顔をして俺を見返す。これは早急に決めたほうが良いのだと感じてケースの中を見るも、目が滑って何を選べば良いのか分からなくなった。
「仕方ないから高いのでもいいよ」
見かねた叔父が言ったのは時間切れの合図でもなく、思わず振り返ると彼はケースの端の、値段の割に量の少ないカップアイスを指している。都会っ子は贅沢だねとあからさまに嫌な顔をしているので、俺が彼の選んだものと同じものをようやく手に取ると、満足そうな顔をしてそれを受け取り、レジへ向かっていった。
「なんのつもりですか、殺すんですか」
コンビニを出たろころで緊張が限界を越して怒りになりつつあった俺は自分でもわかるほど悪手をとったのだが、反面叔父はきょとんとした顔をして、「口止め料だよ」と言った。
「お前殺したら兄さんたちにバレるだろ、俺はそんな馬鹿じゃない」
それに理由もないしねと至極真っ当なことを言った。見られたのは理由にならないのかと思ったあと、じゃあなんであれは殺したんだという疑問が残る。どうやっても叔父は口を割らないだろうから、俺が知る由もない。
「口止め料やったんだから黙ってなよ」
おおよそ黙っていてもらう立場で出る発言ではないだろう。アイスひとつで黙っているのなら安いものもないが、果たして俺がそれだけ信頼されているのか、はたまた俺にそれだけ信用がないと思われているのか。どれかと言えば、俺が単簡であると思われている気がする。
「足りないんだったらもう一個くらいなら買ってあげる」
安く見られているのは見当がついたので無性に腹が立って、ならば貰えるものは貰っておこうと叔父の嫌な顔を眺めながらカップアイスを選んだ。
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