落ちる、堕とされる

 目の前に、人間が落ちている。


 道端で寝こけている酔っ払いではない。こんな、街灯もまばら、近くに何もない田舎道で、そんなことをする奴は居ない。少なくとも俺は、今までに見たことがない。


 そもそもこれは、元々あったものではない――落ちてきた、のだろう。水風船が潰れるような音と共に。


 高い建物などあるはずがない。何度も通った道だ。そんなものができたら気づく。工事中から、それ以前に計画中から、地域中で話題に上がる。そんなことは見ないし、聞かなかった。だから、落ちるでも落とすでも、人間業でできるようなものが、何もない。


 あまりにも驚いて、それから目を離すことができなかった。人間と思しきものは、ぴくりとも動かない。それもそうだろう。てらてらと僅かな光を反射する暗赤色の液体を流し、あらぬ方向に曲がった四肢を放り投げて、泥のような目を見開いている。死体だ。生きていない。だから動かない。当然のことをそこまで理解するのに、動かない頭ではやけに時間がかかった。


 どこから落ちたのか、なんでこんなことになっているのか。それ以前に、俺はこれをどうしたら良いのか。わけのわからない事象を目の前にして、人間は合理的な行動が選べないものなのだなと考える、やけに冷静な俺が居た。まずは、誰かに伝えるべきだろう。警察か、しばらく行けば着く家か。ぐらぐらする頭をどうにか働かせて――正常に働いていたのかは些か疑問が残るけども――俺は結局、家を選んだ。取り落としそうになった通学鞄を担ぎ直し、よろける足を立たせる。既に死んでいるなら、ひとつ過程が遅れても問題はないだろうと考えたかも知れない。


 呼吸の仕方を忘れたのではないかと錯覚するほど息苦しい。止まりそうになる足を動かして、なんとか家にたどり着いた。多分、母は寝支度を整える頃だろう。俺が部活で遅くなるときは、大体そうしている。


 だが、予想に反して、母は居間に居た。テレビもつけず、俺が転がり込んで来たのを、悲しげな……というより、哀れみを含んだ目で見ていた。


「見ちゃったか」


 母はそれだけ言って、水を差し出した。


「何を」

「死体」

「なんで……」


 そこまで言った俺を遮り、母は俺を立たせて居間のソファまで引き摺る。手から離れ、転がったコップから流れた水が、制服の裾を濡らした。俺を投げ出すように座らせると、隣に腰掛ける。


「うちはね、たまにそういうのを見る人が出るんだよ」


 慰めるように肩に手を置いて、背を撫でる。次第に息が整い、安心したからか、自然と目頭が熱くなった。


「何でか分からないけどね、お前も見えるんだね。音がしたから、まさかとは思ったけど」


 康秋兄さんは見なかったのになあと言った母は、声色に反して難しい顔をしている。


「見るだけでね、何もしないから。安心しなさいって言うのも酷だけどね……」


   *


 翌日は憂鬱だった。学校は休みたくない。かと言って、あの道を通りたくもない。だが、駅までの送迎を頼むにも、仕事のある母に無理を言う訳にはいかなかった。

 仕方なしにいつも通りの時間に、いつも通りの道を、足を引き摺るようにして進む。いつもの風景のはずだった。あれはなにかの見間違いか、もしくは、疲労による幻覚である方が、現実であるよりよほど良かった。


「おはよ」


 背後から背中を叩かれ、慌てて振り返れば同級生が居た。悪戯っぽく笑ってぶんぶん手を振っている。ああ、だか、うん、だか何かしら音を発したとは思うが、言語として聞き取れるものではなかっただろう。そんな俺を、首を傾げて訝し気に見るそいつに取り繕おうとするも上手く言葉が紡げず、体調が悪いのかという問いに、違う、とだけ答えるのが精いっぱいだった。


 いつもの能天気はどこへ潜めたのやら、やけに静かに俺の隣を歩く同級生に悪い気はしつつも、俺はそれどころではなかった。もうしばらく行けば、昨日死体の落ちていた場所になる。平坦な道では、そのずっと前からアレが見えるだろう。見えなければ、それでおしまいにできる。


 それを期待するも――昨日の母の言葉が、脳裏に過った。見てしまう人が出る……母はそれを知っていて、音を聞いたのなら、母は見える方の人なのだろう。言い方からして、他にも居たとみるのが妥当である。そうであるならば、俺が見えるものが現実である、という方が可能性としては高いんじゃないか。母が冗談を言った可能性はあるが――それにしては、母の表情も、声色も、真剣そのものだった。


 地面と同級生の旋毛つむじを交互に見て、俺は前を見ないようにして歩いた。たまにこちらを見上げる同級生と視線が合うと、気まずくて逸らす。なんの追及もしてこない彼に、案外空気が読めるんだなと失礼に値することを考えながら、今は感謝した。


 もし、あれが本物の死体であれば――怪現象などではなく、実際に死人が居るのであれば――などと、物騒なことも考える。それなら俺は、二度もそんなものを見る機会はそうそうないだろう。突拍子もないトリックを使うサスペンスドラマのように、人為的に、死体ができたのなら――。俺は、死体を見てしまったという不愉快な記憶だけで済ませられる。


 しかし、その期待も空しく、ふと顔を上げた俺の視界に、どす黒い地面が入り込んだ。


 死体だ。死体が落ちている。


 足を止め、それをじっと見る。乾いた血が地面に広がっていた。昨日は暗くてよく見えなかったのもあるが――。虫が集ったりはしていない。ただ、半袖のシャツと七分丈のパンツから延びる手足には、暗赤色だか青藍色だかが蔓のように纏わりつき、鉄臭さとともに、酸っぱいような、ざらついた臭いがした。葬式で焚く線香は、なるほどこの臭いを誤魔化すのに丁度いいなと思った。


 突然立ち止まった俺に、同級生は腕を控えめにつついて顔色を窺うように覗き込んだ。


「どうした?」

「いや……」

「なんかあんの?」


 不思議そうにあたりを見渡し、死体の落ちている場所を見てからまた俺の顔を見た。


「なんも見えない?」

「あえて言うんなら……でかめなバッタ?」


 あれ?と同級生が指さすあたりには死体がある。草むらに半分入るようにして落ちているから、多分不思議でもなんでもない光景が見えているのだろう。


「バッタだね、なんか動いてるから気になっただけ」

「ならいいけど、そんな気になるもんか?」

「そういうときもあるじゃん」

「まあそうか」


 納得したのかどうかは分からないが、同級生は歩き出した。俺もそれに続く。

 俺には見えて、こいつには見えなかった。とすれば、俺は、母の言っていた、になるのだろう。


「顔色悪いけど大丈夫か?休んだら」

「嫌だよ、小テストあるから」


 そうだっけと初めて聞いたというふうに慌て始める同級生を見て、自然と笑みが出た。何でもない日常の一場面だ。見えるものなら仕方ないと、諦めがついたような気もする。他人に見えないならば俺が我慢すれば済む話だ。気にしないだけで、あとはなにもないのと同じならば。母も別段危害を加えてくるわけではないと言っていたし、そういう現象だと済ませてしまえばいい。


 それが本心なのかは、自分でも分からなかった。自身の中で折り合いをつけるための出任せだったかも知れないし、分からないものに名前を付けるような手段だったのかも知れない。


 夏の日差しは、駅に着くころにはギラギラと辺りを鮮明に映し出し、この気温で果たしてあの死体は何日持つんだろうかと考えた。


   *


 その後も、あの死体は道に落ちていた。夏だからだろうか。数日で皮膚が剥がれ、全身が暗褐色に蝕まれ、膨張して目や舌が押し出され、見るに堪えないものになっていく。それに伴って、腐敗臭が酷くなっていった。


 我慢すればあとはないのと同じだと、一時諦めはしたけれども、この道を通るのは気が引けた。あれの匂いが鼻の奥にこびりついて離れない気がする。俺からも、あの匂いがするのではないかと錯覚するほどに。


 それでも耐えて、冬服に切り替わるころには骨が見え始め、やっと全身が骨になるあたりに、それは跡形もなくなくなっていた。約一か月ほど――やはり普通の死体ではないのだなと思った。


 それで終われば良かったのだが、冬の夜、庭から雪の中へなにか落ちる音がした。窓から覗くと、人間の形をしている。新雪の中へ落ちたからか、夏の死体のように骨は折れていないように見えた。


 その後も、大学のために東京へ出て、一人暮らしをしていたアパートの裏手に、落ちてきた。大学構内の雑木林にも落ちていた。臭いを誤魔化すために、煙草を吸うようになった。それでも、臭いは消えることがない。部屋では仏壇もないのに線香を焚き、いい香りがすると褒められて、どう反応するのが妥当か迷った。そのまま会社に勤めて、長引いた会議中に窓の外から落ちた音がした。ほかにも、場所を選ばず落ちてくる。幾度も落ちてくるせいで気づいたのは、それが死体になってから落ちてきているらしいことと、日が落ちた後に落ちてくることだけだった。


 いよいよ精神にも、体調にも異常を来たしはじめ、ついに仕事を辞める羽目になった。仕事が忙しい――というよりブラック企業と言って差し支えない労働環境だった――せいもあっただろう。一度倒れて入院した病室の窓から見たときには、俺もここから落ちれば楽になれるんだろうかと考えた。二階の部屋だったので、入院期間が延びただけになったが。


 そんなこんなで実家まで送り返されることになり、高校生の頃のまま残されていた自室の布団の上で、起きようにも気力が湧かず、何かを口にしては吐きだし、一日中、天井か窓の外を見るだけの生活を送っていたとき。


 また、死体が落ちてきた。


 庭に植わっている、沈丁花の枝をへし折るようにして転がっている。縁側まで這うようにして、それを見た。大切に育てていたのにな、と気を落とす。実際は折れていないのだろうか、俺には分からない。


 それよりも、目前に死体のある日が続くのかと思うと気が滅入った。せっかく実家まで帰ってきたのに、綺麗な庭木があるのに、このせいでと、死体なら焼くか埋めるかが道理だろうと――


 ならば、埋めてしまおうと思った。死体が出たら埋葬するのが常だ。隠してしまえば俺にも見えなくなる。思うが早いか、俺は置いてあったつっかけを履いて、庭にある物置へ行き、スコップを手に取った。家の裏は山になっている。うちの所有地であるから、誰にも見られる心配がない。両親は仕事へ出ているし、今は俺一人だ。


 しばらく寝たきりの生活をしていた身体では、それを引き摺るのに苦労した。少し登ったところで諦めそうになって、どうせ見つかるものでもないならここでいいかと穴を掘る。どれだけかかったかわからないが、人ひとりを埋めるぶんには足りるものになった。火事場の馬鹿力とでも言おうか、今の俺がここまで果たせることに驚いた。死体を埋めて、土をかける。今は火葬が大半だけれども、土葬していたころはこんなだったのだろうか。勝手に落ちてくるのに、葬ってやるだけ良いだろう。


 そのあとどうしたかは覚えていない。土にまみれたまま布団へ入ったらしく、目が覚めるとあたりが悲惨なことになっていた。帰ってきた母は、それを見て顔を顰めたけれど、俺が何をしたのか知ってか知らずか、父さんが帰ってくる前に風呂入りなさいと言って、てきぱきと掃除を始める。部屋を出るときに、昔は枯れ井戸があったからねと聞こえた気がした。


   *


 それなりの穴を掘るのは骨が折れる。昔、庭から山へ入ってすぐのところに、浅く埋めたときはどうにも匂いが漏れ出てきて、我慢ならなかった。だから、さらに奥に入ったところで、深く埋めるようにした。一晩でやりきるのは無理だから、数日かける。


 本当は、山中に放置するだけで良いのかも知れない。誰にも見つからない死体だ、俺が見えなければ問題がない。ただ、置いただけでは、なんとなく気が休まらない気がした。だから埋めた。結局実家に居ることにしたし、家でできる仕事も見つけたからそれなりにかかっても問題がない。埋めれば解決するのだ、やらない道理がない。


 それがいつ落ちるのか分からないのは、相変わらずだった。兄が甥を連れて帰ってくる日の前日、また庭先に落ちてきた。このまま放置するわけにもいかず、夜中にひとまず山へ運び、穴を掘る。まだ足りないけれども、その日は浅く掘るだけで終わらせた。


 翌日には兄家族が来たが、全員酔いつぶれて早々に寝てしまったので助かった。相変わらず楽しそうに飲む彼らを見ながら、アルコールに頼れない自身を恨めしく思う。舌を刺す味も苦手で、無駄に肝臓が働くわりに、潰れるほど飲んで翌朝に頭ががんがん痛むのも嫌だった。全員をなんとか部屋へ運んでそれなりの体裁を整えた後、庭で一服したのちに、スコップを手に取る。


 山へ入ったところで、背後から音がすることに気が付いた。ちらりと見やると、どうやら甥に見つかったらしい。やめようか迷った。だけれども、ここで降りたとして甥に怪しまれるのは避けられない。だったら、見られても同じことだ。


 気づかないふりをして、死体まで歩いた。甥は見えなくなったが、道はなんとなく見える程度にはあるはずだ。遭難したら大事になるが、そこまで馬鹿ではないだろうから、放っておいた。昨日の穴を掘り下げて、目標までたどり着いたところで、息を切らした甥が追いついたのが見える。


「やっと追いついた」


 声をかけると、甥は驚いた顔をして動きを止める。やっぱり人間は驚くと止まるんだなと、いつかを思い出して口角が上がった。


 少しは暴れるかと思ったが、甥は案外冷淡な反応を示した。死体こいつがなんなのかを知りたがり、俺が喋らないことを悟るとすぐに諦める。こいつも見えるんだな、と気づいた。なら帰ってから落ちるのを見るのか、と思い至ったが言わなかった。離れて暮らしている奴の面倒まで見切れない。助けを求められるなら別だが、今のところはいいだろう。甥は静かに俺が死体を埋めるのを見ていた。黙るのは俺としてはありがたいことだったが、これから生きていくのに支障が出るのではないかと考える。山を下りるときに、足元がおぼつかず、息が上がるような体力も同様に。


 怯えた子犬のような目で俺を見ている甥に、さすがに可哀そうなことをした自覚はあったので、アイスを買ってやろうと思いつく。夏だし、子どもなら喜ぶだろう。死体を埋める口止め料にアイスは安いだろうが、好奇心でついてきたなら甥にも非がある。それに、俺は本来疚しいことをしているわけでもない。


「口止め料やったんだから黙ってなよ」


 コンビニの駐車場、隣でアイスを齧る甥に言うと、逡巡したのち、不服そうな顔をした。ひとつでは足りなかったのだろうか。足りないんだったらもう一個くらいなら買ってあげる、と言うと、甥はアイスの棒をごみ箱に放り込んでから俺をコンビニの中へと引っ張った。そこで手渡されたのはそれなりに値の張るものだったが、仕方なしに買ってやる。甥は満足げな顔で車に乗り込んだ。


 これから身に降る不幸への手向けとしては、安いものだろう。

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