#5

 そそくさと母親の手料理を平らげた俺は、ふしだらな彼女から逃げ出すように家を飛び出した。


 こんな刺激が続いては、この小さくて臆病な心臓が何個あっても足りないだろう──。


 夏の暑さとはまた違う嫌な汗をかいた俺にのし掛かる日差しが、後ろめたい気持ちごとアスファルトの上に色濃く影を乗せる。


「あっ、修也だ!おはよー」


 ジメジメとした湿気を吹き流すぐらい爽やかに笑うその声が風に沿って俺の耳を擽り、俺は今一番会いたくて会いたくなかった彼にゆっくりと振り返った。


「……おはよー、翔太」


 不機嫌候な声色で笑った俺に飛びつくみたいに駆け寄る翔太のシャツが揺れ、襟元が翻るたびに俺が付けた赤々しい印が顔を覗かせる。


 その光景を見るだけで火傷みたいにひりつく感情が醜くて、愛おしくて、大っ嫌いで、大好きで……。


 パレットに乗った絵の具を片っ端から混ぜ込んで作ったその色はきっと綺麗なんかじゃない筈なのに、俺の心はその色で隅から隅まで彩られていた。


「おはようございます、翔太さん」


 凛とした哀の声が、まだ夜の余韻を残して朝の街に響く。


 いつから後ろにいたか……立ち竦む俺の隣をすり抜けて翔太の前に進み小首を傾げてみせるその瞳には、一切の穢れをも寄せ付けない不思議な空気を纏っている。


「おはよう、哀ちゃん」


 幸せそうに微笑む彼の視線が哀に注がれ、塗り潰した感情が沸騰するあぶくのように沸き立って息が苦しくなった俺は、堪らず2人から目を逸らす。


 昨日は自分に向いていたあの眼差しが得られないなんて分かっているのに、どうしてこんなにも虚しく感じるんだろう──。


 まるでアンデルセンの人魚姫みたいに焦がれる気持ちを噛み殺した俺は、照り返す熱気に言葉の端を飲み下して目を閉じる。


 瞳に映る全てが嘘ならば。

 いや、夢現として揺らいでは消える陽炎ならば。


「修也?」


 思考の海に沈む僕を引き上げる心配そうなその声は、僕が喉から手が出るほど欲している彼のものなのに、昨日、間近で耳に触れた吐息の熱さは含んでいない。


「おう」

「大丈夫?」

「何が?」


 眉を下げて笑う翔太が困ったような表情でお手本のように笑ったので、俺はそれを真似して表情を作ってみせる。


「ごめん……ちょっと考え事してたわ」


 隠しきれていない心の奥底に棲む魔物を無理やり閉じ込めて彼を見つめ、それから冷ややかな目で哀を一瞥する。


「じゃあ、私はこれで……バイバイっ」


 万華鏡みたいに色々な顔を持ち合わせる彼女は、何にも染まり切ることのない白魚のような手を振って駆け出す。


 一瞬……ほんの一瞬だけ、彼女の口元がだらしなく緩んだ気がした。

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