#4

 結局一睡もできずに朝を迎えた俺はいつもより30分も早くベッドを抜け出すと、脳味噌に足りない酸素を求めて、何度も欠伸を繰り返しながらリビングへと向かう。


「おはよう、今日は早いのね」


 キッチンから味噌汁のいい香りを漂わせながら声を掛けた母は、いつもと変わらぬ様子で顔を綻ばせた。


「ん……ちょっと、ね」


 曖昧な返事で誤魔化しつつ大きく伸びた俺は、まるで水から引き揚げられた魚みたいに口をパクパクさせて風呂の脱衣場に設けられた洗面台へと向かう。


 ──オールなんて、高校生の時に新作ゲームをやり込んだ時以来だ。


 自嘲しつつぼやけた頭を冷やす水の感触が心地よく俺の顔を滑り、薄らとできた目の下のクマを呆れながら眺めていると、昨日の哀の電話が耳の奥を掠める。


『……じゃあまた明日……お兄ちゃんの事、頼むね』


 まずまずもってアイツは俺の保護者ではないのに、何を誰に頼んでいるのやら。それに『また明日』だなんて、哀は俺の知らないところで何をやってるんだ……?


 グルグルと回る思考の渦に呑まれ、俺の知らないところで乱行三昧に耽っているかもしれない彼女の妄想を張り巡らせた俺は、大きく咳き込む。


 翔太一筋を貫いたせいで大学生にもなって彼女いない歴と年齢がイコールな上、恋愛経験も乏しい自分が途端に恥ずかしく、昨日の一件で哀や翔太の知らない一面に背筋がゾクゾクッと反応した。


 それでも子供の頃から表情筋が固い俺は気持ちを上手く顔に出せないお陰で、脳内がお花畑でも今に至るまで誰1人気付くことは無かったし、これから先もきっとそうだろう──。


「お兄ちゃん、まだ?」


 無表情で眉根を寄せる俺の後ろからひょっこりと顔を出して鏡越しに視線を投げた哀は、いつもより少し弾んだ声で催促する。


「うわ……ッ!」


 いきなり現れた彼女に驚いて漏れた声が大きく脱衣場に響くと、哀は「酷いなぁ」と笑って俺を押し退けた。


 その瞬間にわざと当てたであろう胸の柔らかさが背中と腰の間に広がり、俺は情けない奇声を上げて仰け反る。


「あれー?昨日はもっとくっついたのになぁ……」

「そ、それはッ」


 ニマニマと口元を緩ませる哀は俺にもたれかかったまま「んー?」と上目遣いを決めると、何食わぬ顔で歯を磨き出す。


 ぐうの音も出ないまま自分の耳が熱くなるのを感じた俺は、泣きそうなほど惨めな気分で歯ブラシを取って洗面台の端っこに移動して、空になった洗濯カゴを見つめる。


 なんとかバレなくてよかった──。


 シュコシュコシュコ……と奇妙な音が響く洗面台で、深夜に粗相した下着が何事もなく洗濯されていることに少しだけ胸を撫で下ろしつつ、母親にそれを洗わせた罪悪感に目が泳ぐ。


「お先でーす」


 俺が悶々とした心情をない混ぜにするなか、我関せずと先に口を濯いだ哀は艶やかな林檎色の唇を拭うと、キスマークが残る首筋に長い髪を揺らして振り返る。


 目に映る彼女は聖女のように美しく、悪魔のように妖しい。


「朝からそんなに赤面するなんて、本当に煩悩だね……お兄ちゃん?」


 上品に作られた笑顔で背伸びした哀は、俺の耳に吐息が触れる手前でそう囁いた。

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