第16話 この先は違う



 折角鍵を借りられたのだからと、図々しくも東雲家本邸の浴槽を借りて汗を流し、持参した学生服に着替えた二郷。

 そんな彼は今、本邸の裏に建てられた離れ────東雲四乃が暮らす建物の玄関前に立っていた。


「……さぁて、とうとう此処まで来ちまったか。準備は万端首尾はそこそこ、あとは仕上げでどうにかなれ、ってな」


 ある意味最大の難関であった四乃の家族への説得は、何とか果たす事が出来た。

 であれば、あとは自身の計画通りに『物語』を捻じ曲げるだけ。最後まで主人公ヒーローが来ない場合をも想定して立ち回るだけだ。

 そう考えて、二郷は玄関のチャイムへと右手の指を伸ばし


「……あ?」


 ……しかし、ボタンを押す直前で不意にその指が止まった。

 自身の体が意に添わぬ行動を取った事に対して、首を傾げる二郷。

 疲れているのかと思い、一度目を指で揉みほぐしてから、再度手を伸ばそうとして……けれど今度は、腕を動かす事すら出来ない。


「は? ……オイ、何だよ……これ」


 そして二郷は、ここに至ってようやく、自身の体に変調が起きている事に気が付いた。

 すっかり血の気が引いて、青白くなっている皮膚。唾液が分泌されずに乾いている口腔。そして……まるで極寒の地にでも居るかのような全身の震え。


 それは────それは、紛れも無い『恐怖』の感情の現れだった。


 幽霊でも、妖怪でも、怪物でも、怪異でもない。

 二郷自身の感情が。強い意志と酷い狂気の力を以って騙し、押し潰してきたモリガミサマへの……化物達への恐怖が。それが、まるで冷たい鎖が絡み付いているかの様に、東雲四乃と関わろうとする二郷の行動を阻害しているのだ。


「おい……オイオイオイ、ふ、ざけんじゃねぇぞ……なんで今更……ついさっき、あの子の家族に絶対に助けるって、そう約束しただろうが。なのに、どうしてこんな……ああっ! クソっ!! 頼むから震えるんじゃねぇよ! なあ、こんなんじゃ主人公ヒーロー達に顔向けできねぇぞ、俺!」


 必死に自身に言い聞かせても、その身体の震えが収まる事は無い。それどころか、震えは一層強くなっていく。

 変調に混乱しつつも、しかしそれを解決すべく、二郷は震える自身の右腕を左手で抑えながら無理矢理に思考を続ける。


(ふざけんな、ふざけんなふざけんなふざけるんじゃねェぞオイ!! なに今更芋引いてんだよ俺は!? トラウマになってるって事くらい自覚してんだよ! それでも、今まで騙し騙しやってこれただろうが!? なのに、なんで今更! なんで今になってこんな風に! 今からが! これからが!)


「これからが本番だっての……に……?」


 そして……思考を言葉に出した事によって、ようやく二郷は、自身が恐怖に襲われ身動きが取れなくなっている、その原因に思い至った。


 そう。『これから』だ。これからが始まりなのだ。

 間宮二郷の今までの行動は、これまでの出来事は、それらはあくまでモリガミサマとの対峙するための序章に過ぎなかったのである。

 確かに何度も命の危機は有った。恐るべき化物達とも対峙した。だが、それは貰い事故のようなもの。決して、自分の意志で命を懸けた訳ではない。

 ……しかし、この先は違う。


(あ…………そうか。このチャイムを押せば、俺、もう引き返せねぇのか)


 震える二郷の視線の先に映る、無機質なボタン。チャイムのボタン。

 押せば音が鳴るだけの機械こそが、間宮二郷にとっての分水嶺だった。

 このチャイムを押せば、東雲四乃という少女に関わらないという選択肢は消滅する。それはつまり、この先に恐るべき化物と……モリガミサマと、命を懸けて対峙する未来が確定するという事だ。


 間宮二郷はモリガミサマの恐ろしさを、見て、聞いて、読んで知っている。


 アレに挑んで、間宮二郷が生き永らえる可能性は極めて低い。

 二郷が思い描く戦略が全て上手くいって、ようやく生存の目が僅かに見えてくる……そんな領域の化物を相手にする為の覚悟が、今の間宮二郷には求められているのだ。

 だから、怖い。

 だから、震える。

 化物に敗れた後に訪れる顛末を、『青年』はその身を以って味わっている。

 死ぬことが出来れば、まだ幸いだ。生きている事をすら呪う結末は……とても恐ろしい。


 ここに至っても尚、心に焼き付けられた記憶の中の主人公ヒーロー達への憧憬は、間宮二郷をこの場に踏み留まらせてくれているが……ここから先はそれだけでは足りない。

 突然主人公ヒーローが現れて、モリガミサマを打ち倒し、何もかもを完璧に解決してくれる。そんな『甘え』を抱いたままでは、前へと進む事が出来ないのだ。


 嘘でも、偽物でも、虚飾でも、虚栄でも、詐称でも。演技でも。自分を騙してでも。

 自分で決めて、そして進まなければならない。

『青年』が一度失敗してしまった、地獄へ向かう道。それをもう一度なぞる覚悟こそが、今の間宮二郷に求められている。


 そしてそれは……極めて困難な要求である。


 間宮二郷の理性は承認した。感情は容認している。

 けれど、心が、魂がどうしようもなく折れてしまっているからだ。

 学友の視線。両親の目。『スイガラ』の監視。

 或いはそれらの他人の視線が有れば、見栄を張り勇気を振り絞れたのかもしれない。

 だが、今此処には二郷以外に誰も居ない。誰も二郷を見ていないからこそ……恐怖は際限無く噴出し、制御出来くなる。

 どうしようもない。動きたくとも動けない。

 呼吸は浅くなり、恐怖に固まった腕は動かない。


 故に……間宮二郷は一歩、後ろに下がった。下がってしまった。

 そして────


「あああああああ!!!! どりゃっしゃああああああああああ!!!!!」


 次の瞬間。間宮二郷はチャイムに向かって体を倒し────その頭を叩きつけたのである。


 腕が動かないのであれば、重力に任せるしかないと言わんばかりの雑で乱暴な行為。

 ぶつかった衝撃で傷口が開き、先程治療された額のガーゼに再び血が滲み始める。

 味わっている痛みも、生半可なものではないだろう。二郷の瞳には涙が滲んでいる。

 本当に、愚か極まりないみっともない行為だ。だが


「へっ……ははは……やっちまったぜ、こん畜生がよ……」


 涙を浮かべながらも、鳴り響いたチャイムの音を聞いた二郷の口元は笑っていた。

 後戻りが出来なくなった事への後悔はある。恐怖もしている。けれど、心の中の主人公ヒーロー達の目を見られなくなるよりはずっと良い。

 それに、自分だけでは化物に立ち向かう勇気は持てないが。



「…………あなた、誰?」



 ゆっくりと音を立てて開かれたドア。その先に居た、一人の少女。

 背の中程まで黒髪を伸ばし、黒いセーラー服を着込んだ、人形の様に無表情な少女。

【モリガミサマ】に憑かれた彼女────東雲四乃。


(ああ、そうだよ。俺は化物がおっかねぇし、弱っちぃから、物語の主人公ヒーローになんてなれやしねぇ。けどよ……オムニバスホラーの主人公は、大体が使い捨ての一般人なんだ。だから、その中の単話の主役くらいは張って見せて……女の子の一人くらいは、救わせて貰うぜ)


 そうだ。助けたい相手。救われるべき存在が目の前に居れば、間宮二郷は見栄を張れる。

 主人公ヒーローにはなれないが、その代役を果たす程度の勇気であれば、振り絞る事が出来る。


「よう────おはよう。助けに来たぜ、東雲四乃ちゃん。今まで諦めずによく頑張ったな」


 だから、間宮二郷は見栄を張る。

 不格好な笑顔を浮かべながら、読者を安心させる物語の主人公ヒーロー。その登場場面のように振る舞って見せる。

 東雲四乃が、自分はもう大丈夫なのだと、そう思えるように。


「……あ」


 そして、そんな二郷の声を聞いた東雲四乃は大きく目を見開き────不審者対策として後ろ手で隠し持っていたスタンガンを、床へと落とした。





 ────────────────―





 背の低い机とクローゼット。そして、画面が割れて壊れたテレビにベッドと本棚。

 生活に必要な物だけが最低限用意された室内は、不必要な程に綺麗に掃除されており、不要な物が無い事が却って違和感を際立たせている。

 仮にこの部屋の持ち主がいなくなったとしても、荷物の撤去には1時間も掛からないであろう、そんな無機質な部屋……東雲四乃の自室で、机の前で胡坐を掻いた姿勢のまま、間宮二郷は居心地が悪そうに視線を動かした。


「しかし、一体どうなってんだ? 俺としては、もうちっとばかし警戒されると思ってたんだがよ……」


 呟く二郷。その声色には困惑の色が強く出ているが、それも仕方が無いと言えるだろう。

 あの後……玄関での二郷と四乃の邂逅の後。驚きの表情をすぐに無表情に戻した四乃は、頭から爪先まで二郷の全身を眺め見て、額の血が滲んだガーゼに視線を留めると


『……おはよう。入って』


 そう短く言って、拾い直したスタンガンを玄関の棚の上に置き、二郷を自室まで案内した。そして、そのまま何も言わずに席を外してしまったのである。

 実質的に初対面の男。それも、朝早くに突然家にやってきた血濡れのガーゼを額に付けた不審者に対して、あまりに警戒心が薄過ぎる。

 むしろ、不審者側である二郷の方が、罠でもあるのかと警戒してしまったくらいだ。


「いや、実はこの隙に警察に電話してる可能性も────」

「……してない」

「うおおおおおおおおおっ!!?」


 考え込んでいたとはいえ、自身の警戒網を擦り抜けて背後から声を掛けられたことで、二郷は頓狂な声をあげ、大きくその場から跳躍し窓際へと飛び跳ねた。


「ず、随分とびっくりさせるじゃねぇか! 野生の猫より気配が薄かったぞオイ!?」

「そう……これ、使って」


 だが、二郷の奇行に反応する事も無く、四乃は淡々とその手に持った箱状の物を机の上に置くと、机を挟んだ二郷と反対の位置に正座をする。

 そのあまりの反応の薄さに、大仰に驚いてしまった自身の態度が却って恥ずかしくなった二郷は、誤魔化すように咳払いをしてから机へと戻る。そして置かれたその箱へと視線を向け──その正体を理解した。


「こいつは……救急箱か? けどなんで」

「……あなた、怪我してるから」

「怪我? ──あ」


 言われて、先程チャイムに頭突きをかました事で、額の傷口が開いて出血してしまっている事を思い出した二郷。

 あまりに無表情に接してくるものだから察する事が出来なかったが、つまるところ、四乃は二郷が怪我をしている事を案じて、治療の為に家に上げてくれたらしい。


「あー……心配してくれてたのか。変に疑っちまって悪かった」

「……構わない。けど、治療は自分でして。私、あなたに触れないから」

「そりゃあ、勿論自分でやるけどよ……触れない?」


 そこで、二郷は初めて違和感を抱いた。

 『原作』では、今の……一時的にモリガミサマから解放された時期の東雲四乃は、他人との接触を忌避せず、誰に対してであっても率先して接触していた筈だ。

 だというのに、眼前の四乃は二郷に触れようとも、積極的に会話をしようともしてこない。いくら二郷との遭遇が不審極まりないものであったとはいえ、その行動方針の極端な差異に、額のガーゼを張り替えながら首を傾げる二郷。

 そして、そんな二郷の行動を見て、自身の言葉が足りなかったと誤認したのだろう。四乃は口を開く。


「……別に、貴方を警戒している訳じゃない。でも、私に触るのは……関わるのは、とても危ないから」

「その、危ねぇってのは……」

「……【モリガミサマ】に、憑り殺されるかもしれない」


 四乃は、真っ直ぐに二郷の目を見ながら言葉を続ける。


「……【モリガミサマ】は私が他人と触れ合うと、その相手を祟り殺そうとする。私は、あなたを【モリガミサマ】の犠牲者にしたくない」


 モリガミサマの危険性について、淡々と言葉を重ねていく四乃。

 しかし、その言葉を聞いていくにつれて、二郷が先程から抱いていた違和感は更に大きく膨れ上がって行き……とうとう二郷は、右手を前に突き出して四乃の言葉を遮った。


「いやいや、ちょっと待て。待ってくれ。言わんとする事は分かる。理解出来てる……けど、一つ聞かせろ。なんであんたはさっきから、俺が化物────【モリガミサマ】についての知識があるって前提で話してんだ?」


 確かに、二郷は先ほど玄関で四乃に対して『助けに来た』と、そう言った。

 だが、モリガミサマから……この世ならざる化物から救いに来たなどとは、一言も言っていない。

 なのに何故、四乃は【モリガミサマ】という化物について、二郷が知識を共有しているという前提で会話をしているのだろうか。

 二郷は、自身が何か大きな思い違いをしている予感がして、それを確認する為に四乃に問い掛ける。


「……?」


 そんな二郷の言葉を受けた四乃は、しかし僅かに首を傾げてから、まるで当たり前の事を話しているかのように、平坦な声で返事を返す。


「……だって、あなたは私の主人公ヒーローだから。以前に、あの教室で私を助けようと【モリガミサマ】に立ち向かってくれた……その人の声を私が忘れる事は、ありえない」


「んな────」



 返ってきた予想外の返事に、驚愕する二郷。

 何の事は無い……つまり東雲四乃という少女は、間宮二郷が数日前の夕方に自身と邂逅した少年であるという事を、言葉を交わしたその瞬間から理解していたのだ。

 だから【モリガミサマ】について二郷が知識を有しているという事も知っていた。

 警戒心についても、薄かったのではない。無論、怪我を治療してあげたいという思い遣りも本当なのだろう。だがそもそもとして……現れた相手が間宮二郷だったからこそ、何の警戒もせずに家へと招き入れたのである。

 それ程までに。声一つすらも覚えている程に、全くの無警戒になる程に、東雲四乃にとってあの日の邂逅は大きなものであったという事であり────


「……あの日、あなたが来てくれたから。あの日の言葉があったから、私はまだ私でいられてる。私はその事を絶対に忘れない」

「いやいやいや。幾らなんでもそいつはちっとばかし大げさ……」

「大げさじゃない」


 はっきりと、二郷の言葉を遮り否定する四乃。


「……今朝から、【モリガミサマ】の姿が見えなくなった。あなたが今日来てくれたのは、きっとその事が関係しているんでしょう?」

「いや……まあ、そうと言えば、そうなんだがよ……」


 これまで、モリガミサマのせいで人間関係が希薄であったが故だろう、四乃は感情表現も言葉づかいも決して上手いとは言えない。

 けれど、その頭の回転は二郷よりもずっと早い。恐ろしい速さで核心を突いてきた四乃の言葉に、二郷は用意してきた説得の言葉が無為になった事を思いつつ、気圧されながらも肯定の意を示す。

 それを受けた四乃は、目を瞑って暫く考え込んだ後。


「……そう。やっぱり、『思っていた通り』解放されてなんていなかった。それなら……もしあなたが、その事を知っていて、私を【モリガミサマ】から助ける為に来てくれたのなら」


 二郷に向けて深く頭を下げ


「……その気持ちだけで、私には十分です────どうか、私を助けようとしないでください」


 そう言った。



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