第2話 何の役にも立たなかった
昔、一人の少年が居た。
少年は幼い頃から人一倍臆病で、何時も『何か』に怯えていた。
机の下に。電柱の裏に。トイレの天井に。川の底に。
『何か』を見つけては怯え、悲鳴を上げていた。
当然の事ながら、そんな様子の少年を周囲は快く思わなかった。
父親は少年の異常性を認めたくないが故に無関心を決め込み、母親は少年を『普通の子』にする為に厳しい躾を施した。
周囲の子供達も、大人たちの奇異の視線を感じとり、自分達と違う少年を異物として排斥した。
少年はいつも一人だった。
『何か』に怯え、家族に怯え、奇異の視線に怯えていた。
そして当然の事ながら、そんな日常に少年の心は擦り減っていく。純粋な孤独と恐怖は、幼い子供の心を壊すのに十分で────
『────』
だからある時、偶然にそのテレビアニメを見た少年は驚いた。
アニメの内容は、霊能力を持った教師が数々の凶悪な悪霊から生徒を守る為に戦うという、痛快なホラーアクション。
大ヒット漫画を原作と実力派の声優を起用したその作品は、少年の疲弊した心を奮い立たせる程に面白く……そして何より、今まで逃げるものとしか認識していなかった『何か』に対して、立ち向かうという選択肢を少年に示したのである。
狂おしい程に望んでいた、『何か』を打ち倒し『何か』から守ってくれる
つまるところ、画面の向こうに現れたその存在に、壊れかけていた少年の心は焼かれたのである。
そして少年は変わった。
歯を食いしばって『何か』の恐怖に耐え、怯える姿を見せなくなった。
勉学に打ち込み、運動に入れ込んだ。
何時も怯えているばかりだった少年のその劇的な変化に喜んだ両親は、その変化のきっかけとなった作品を少年が望むがままに買い与えた。
アニメを見て、漫画を見て、小説を見た。
そして、類似のジャンルの作品にも手を出した。
退魔の槍を手にした少年
人を守る片目の妖怪
怪談による不条理の連続を終わらせた女教師
妖怪と友好を結ぶ少年
妖怪の血を引き人を守る者
化物を更なる恐怖と暴力で制圧する部長
人でありながら吸血鬼となった青年
ビジネスとして怪異を狩る守銭奴の女と煩悩に塗れた男
作品を読むたびに、少年の心の中にヒーローは増えていき、その分だけ少年の心は強くなっていった。
それはとても素晴らしい事で……だからこそ、少年は勘違いしてしまった。
彼等と同じように『何か』が視える自分は、強いのだと。自分が主人公なのだと。そう思うようになってしまった。
そして、少年が青年となり、教師の道へと進む為に大学で勉学に励んでいた時に……『それ』は起きた。
ある日。何の前触れもなく、青年が住む町の至る所から立ち上り始めた赤い煙。
それと同時に町の裏山から現れた、町の中枢を目指してゆっくりと歩みを進める、【正体不明の赤色のヒトガタ】。
青年は一目見て理解した。自分だけに見えるソレは、子供のころから見て来たどの『何か』よりも恐ろしいモノだと。
あれが町に辿り着けば、おぞましい数の犠牲が出るであろうという事を。
青年の本能が、逃げろと。絶対に関わるなと。強く訴えていた。
「ダメだ……俺が、止めねぇと。俺がっ!!!」
けれど、数々の主人公達の活躍に焦がれてきた青年には、逃げる事は出来なかった。
自分がこの町を救うのだと。
自分が生まれ持った『何か』を視る力は、今この時の為に有ったのだと。
自分が主人公の物語が、始まったのだと。そう思ってしまった……愚かにも。
「ぎ、がはえががsがあああ痛い㎏じゃぽjgp苦じゃぴjれぴjらぽjfmb:w@0えい」
結論を言えば
「g邪が:、あsgm死dkpsけkj助gぱkjんpf殺gかsんぼあ:おpあbヵn」
少年は、町を救う事が出来た。
「がsmだお4嫌gじゃjg:こんなつもjがぴjdしjbじょあkg痛おあjいや痛さmrぱjくぇいw」
町に向かう赤いヒトガタは、道中立ちふさがった青年に憑りついた。憑りついて、肉体も心も、魂も、その全てを侵し尽くした。
齎されたのは、無限のような苦痛と、刹那に連続する激痛。
魔除けの札も
聖書も数珠も
退魔の水晶も破魔の弓も聖水も
斬魔の刀も、魔封じの結界も、呪詛返しの呪符も、霊験あらたかな神木の欠片も
青年がこれまでの人生で集めた『何か』に立ち向かうための道具、その他一切全ては赤いヒトガタの前には何の役にも立たなかった。一瞬で燃え尽き、黒い灰と化した。
発狂すらも許されない地獄の中で、僅か1分で青年の矜持は砕け、たったの3分で信念は腐り、5分もせずに理想は溶け落ちた。
青年は、自身が物語の主人公などではないのだと、それこそ細胞の隅々まで理解させられた。
……当然の帰結である。どれほど心にヒーローが増えようと、青年自身はヒーロー足りえる事など何一つ為していないのだから。
彼等なら耐えられたかもしれない。彼女等なら抗えたかもしれない。絶望的な恐怖を前にしても立ち上がり、撃ち破る事が出来たに違いない。
だから、
地獄は永劫と思える程に続く。
何年経ったのか、或いは何十年経ったのか、青年には判らない。
判るのは続く苦痛の事だけ。赤と黒色に染まった視界は何も映さず────
ある時。一瞬の浮遊感の直後、何の前触れも無く苦痛が止んだ。
「……tい が え………………?」
地獄から解き放たれた事により訪れた、まるで騒音で鼓膜が破れた時のような五感の静寂。
状況に理解が及ばず数刻の間呆けていた青年であったが、狂う事が『出来ない』地獄にその身を置いていた事が不幸中の幸いとなり、徐々に正常へと向けて気力を取り戻していく。
青年が恐る恐る首を動かして周囲の状況を確認すると、幾つかの情報を得る事が出来た。
1つは、自分がコンクリート製の地面の上……どこかの建物の屋上に仰向けに倒れているということ。
そしてもう1つは────空に赤い月が浮かんでおり、その月に、目玉と口の様に見える紋様が有るという事。
「……『腐れ月』?」
思考よりも先に言葉が零れ出た。
腐れ月とは、青年がかつて読んだ漫画に出てきた、夜空に浮かぶ奇妙な月の俗称。
とある月間誌に掲載されていた、青年が嫌悪するジャンルである、救いのないオムニバスホラー漫画『さかさネジ』。
その各話の最期のコマに必ず描かれていた月は、妙に青年の記憶に残っており
「……まて……待て……」
着込んだ覚えのない学生服と、何故か背が小さくなっている自身の身長。
そして、自身の首に掛けられている、三日月型のアクセサリーが付いたネックレス。
それらが呼び水となり、摩耗した青年────いや、少年の記憶は急速に復元されていく。
【ひあおおおおお】
そして、突如として周囲に響き渡った人ではない何かの声に、少年の全身が粟立つ。
【ひあおおおおおおおおおおおおおおお】
「あ、う、うわああああああああああああ!!!!」
未だ、体験した地獄の記憶を引き摺りつつも、少年は震える足に力を籠め、思い切りその場を飛び退いた。
何故ならば、知っていたから。この後に自分の身に何が起こるかを、少年は知識として知っていたからである。
そして、直後。
【ひあおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお】
轟音を立て、先程まで少年が倒れていた場所に、巨大な何かが落下してきた。
尻餅を付きながらも紙一重で回避し、空から落下してきた其れの正体を目にした少年は、恐怖でその身を硬直させ、言葉を発する事すらできなくなる。
落下してきた塊。その正体は────人であった。無数の人の集合体であった。
白い肌と禿げた頭。瞼の切り取られた瞳に、痩せ細った体。老若男女問わず、同じような容貌の人間が、幼児が雑に捏ね合わせた粘土のように一つの塊になっていた。
塊の下の部分の人間は、落下の衝撃で潰れ、肉と臓物を周囲にまき散らしている。
そしてそれ以外の生き残っている無数の人影は、まるで助けを求めるように、言葉にならない声を上げながら少年へと手を伸ばし
【ひあおおおおおおおおおおおおおおおおおおお────……】
けれどその手は少年に届く事は無く、先程の光景を巻き戻すかのように空へと昇っていき……やがて夜空の星と混ざって見えなくなった。
「……『星山羊(ほしやぎ)』」
ぽつりと呟いた青年の脳裏に、漫画『さかさネジ』の第2話の内容が浮かぶ。
それは、身体から塩を出すという奇妙な力を持つ少年、
クラスメイトに奇妙な力が有る事がバレ、いじめを受けて引き籠りとなっていた少年、間宮二郷。彼は暗い部屋の中で、自身が人間ではなく宇宙人なのだと思い込むようになっていった。
ある夜。二郷は通っていた中学校に忍び込むと、その屋上に昇り、『本当の仲間』である宇宙人を呼び出す為に、人間ではない証拠として掌から塩を出しながら、その腕を天に翳した。
すると、空から白い何かが落下してきて、二郷がそれをUFOだと認識し笑顔を浮かべた瞬間。
────白い人間の塊は、二郷を押し潰した。
塊を構成する無数の白い人間達は、二郷が出した塩をまるで山羊のように舐めつくすと、そのまま夜空へと帰っていった。
……救いのない、ただただ不条理な怪奇物語。
そしてその物語の状況は、今の二郷の状況にあまりに合致し過ぎていた。
『腐れ月』『星山羊』そして
「塩……出ちまったよ、オイ……」
意識すると、手から出せてしまった『塩』。
それを見て、彼は────自分が物語の序盤で使い捨てられる
「冗談だろ……冗談って言ってくれよオイ。どうなってんだよ、なんで、よりにもよってあの漫画の世界に居るんだよ」
理解して、全身を恐怖に震わせる。
「もうあんな……ヒィッ! あ、あ、あんな地獄は御免だ! 嫌だ! 化物になんて関わりたくないんだ! ……なのに何で」
理解する事も出来ない程の期間、己が体験した地獄。それを思い出した二郷は、しゃがみ込み頭を抱えてうめき声を上げる。
自身が漫画の世界に居るという不可解な現象ですら、今の二郷にとっては些事であった。
肝要なのは、もうあんな地獄は二度と体験したくないというのに、この世界がそれを許さないという事。
オムニバスホラーの『さかさネジ』には、人を害する化物が数多く出現した。
その中には、それこそ世界を終わらせかねない化物すらも居たのである。
「ダメだ、ダメだダメだダメだ……化物に関わるのはダメだ。でも……関わらないと、人が死ぬっ……ぐうううう!!!」
……赤いヒトガタとの邂逅と、それによって齎された地獄は、二郷の矜持も信念も理想も、長年掛けて克服した筈の、化物に立ち向かう勇気と自信すらも壊していた。
しかしそれでも尚、壊れていないものがあった。
「……そ、そうだ。主人公! 主人公が現れるまでだ! 他のオムニバスホラーで、途中で主人公が出て来る事は良くあった! だからほんのちょっとだけ、それまでの間だけ頑張ればいいんだ!!」
それは、二郷の心に刻まれた数々の作品の主人公達。
彼等、彼女等の物語。
本人は今は気付いていないが、間宮二郷は元の名前や記憶の一部をすらも失っている。
それでも、その心に根付いた主人公達の姿は、その活躍は、僅か程も失われていなかった。
であるからこそ、どれだけ恐怖に震え怯えても、二郷には化物から逃げて被害者を見殺しにするという選択肢を取る事は出来ない。
心の中の主人公達を裏切る事だけは、出来ないのだ。
「主人公じゃなくても、ちっとの間だけなら、化物から逃がすくらいなら……へ、へへ。そうだよ。それくらいなら大丈夫だ。大丈夫、大丈夫……」
胸の三日月型のペンダントを強く握りしめながら、二郷は自分に言い聞かせる為にそう呟く。
『さかさネジ』の中には、少なくとも二郷が読んでいた最新話までの間では、主人公と呼べる存在は出ていないという事実から目を逸らして。
夜空の上に赤く光る『腐れ月』は、そんな哀れな二郷の姿を見下ろすように、相変わらず気味の悪い笑顔を浮かべていた。
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