ま! よ! け! の! 塩! (120年分)
哀しみを背負ったゴリラ
第1話 死蝋のように青白く
例えば、赤い夕陽に飲み込まれた公園の遊具に。
午後の日差しが生んだビル影の中に。
目が覚めて見る自室の天井に。
スマホの画面を眺めているその背中に。
日常の隙間に巣食うモノ達がいる。
彷徨える死者の霊魂の具象である幽霊
此処ではない彼方より湧き出た現象たる妖怪
虚無から泡の如く浮き上がり現実を侵蝕する怪異
生者の願いにより生ずる望まれざる存在たる悪魔
正体不明
原因不明
誰ぞ彼と囁かれし者共
只々乱雑にその存在を示す彼等であるが──その在り方には一つだけ共通する事柄がある。
神秘性
否。
危険性
否。
可能性
断じて否である。
幽霊、妖怪、怪異、悪魔、化生、魑魅魍魎。
それら全てに共通する事項とは
「────死ぬほど怖えぇって事だよおおおおおおおっほおおおあああああ!!!!!」
S市D町。少子高齢化に蝕まれつつも、かろうじで都市の様相を維持している地方都市。その郊外に位置する森の中を、学生服を着た少年────『
既に太陽は地平の彼方へと消え去り、街灯など存在しない森は、空に浮かぶ気味の悪い赤銅色の月が唯一の光源となっている。
慎重に歩を進めなければ地を這う木の根に足を取られてしまうというのに、けれど二郷は駆けるその足を緩めようとしない。
滝の様な汗を流し呼吸を荒げ、オールバックに纏めていた黒髪がみっともなく乱れるのを気にする余裕すらなく、眼の下の濃い隈以外は理知的とも言える容貌を恐怖に染めて、寧ろ更なる加速を試みる。
その様子は正に狂乱。どう見ても無謀な暴走であるが……二郷にはそうせざるを得ない理由が二つあった。
一つは、二郷が背中に背負っているモノの存在。頭が有り、胴が有り、手足が有る────つまり、人間である。
性別は女性。少女と呼んで差支えない年頃だ。
少女は黒髪を背の中程まで伸ばしており、纏う黒いセーラー服と相まって今にも夜闇の中に溶けてしまいそうな印象を受ける。対してその肌は死蝋のように青白く……総じて蛍のように儚げであった。
好悪は分かれるであろうが、平時であれば美しいと評されるであろう少女。だが、少なくとも今の彼女を見て美しいと評する人間は皆無であろう。
何故なら、今の少女からは『右の眼球が失われている』から。
空っぽの眼窩から流れ出る鮮血で、顔の半分が染まっているからである。
幸いな事に、少女は死んではいない。意識こそ失っているものの、荒い呼吸と流れ出る汗が彼女の生存を証明している。けれど、このまま何の治療も施さなければ、その命は長くはないであろう。
「ッ、ゲホッ! ────だあっ! クソクソクソっ! クソったれ! おい! 死ぬなよ!? 絶対死ぬなよ!? 俺がどうにかして『こいつ』から逃がしてやるから!!」
そんな少女を背負って全力で走る二郷の喉はとうの昔に乾き切れ、血が混じった咳が出続けている。しかし、二郷は脚を止める事無く────止める事が出来ず、背中の少女へと激励を飛ばしつつ、視線を少女の更に向こう側へと向ける。
すると、そこには予想通りに……とても残念な事に。
二郷が無謀な疾走を続ける理由の二つ目が居た。
『 る ぼ あ ね ぱ たた ? らう あ を 火ヒ あび ま ぐ 』
【顔】がいた。
夜の闇の中に【顔】が浮かんでいた。
人間のような目と、人間のような鼻と、人間のような口。
けれど、肌が無い。
闇こそが肌であるかという様に、一つ一つが二郷の背丈と同じくらい巨大な顔の部位『だけ』が虚空に浮かび、中空を滑る様にして二郷と少女を追いかけて来ている。
唾液で濡れた巨大な口は、意味の解らない言葉の様な何かを呟き続けており、毛穴から油が浮いた鼻が異様な生々しさを感じさせる。
薄黄色に汚れた白目の中の瞳は、じとりと二郷と少女を見つめ続けている。獲物を補足した肉食獣のように、絶対に逃がさないとばかりに。
「げはっ……ゼヒッ……っぐっ……ふざけやがって。こっちがどんだけ必死扱いて走ってると思ってんだ化物がよぉ!? やっぱウンコだ! この世界はウンコだ畜生!!」
走り通しで体温が上昇し続けているというのに、【顔】と視線が合っただけで二郷の全身に氷柱で刺されたかのような悪寒が奔る。
その悪寒を大声と虚勢で誤魔化しながら、自身の限界を悟りつつも二郷は走り続ける。
理解しているからだ。この【顔】に追いつかれてしまえば、自身も背負う少女も終わりである事を。
椚の木の幹を手で押して僅かに加速する。
小楢の根を蹴って無理矢理に進行方向を修正する。
落ちていた石を蹴り上げ【顔】へと撃ち放つ。
二郷は逃げる為に取れる手段を全て取り……そしてその全てが無駄であった。
どれだけ加速しても、撒こうとしても、【顔】は二郷から一定以上に離れる事は無かった。蹴り上げた石は、まるで霧に向けて放ったように【顔】を擦り抜けてしまった。
二郷にはもはや逃げ続ける以外の選択肢はなく────けれど、その足も直ぐに止まる事となる。森を抜けた先。開けた視界の中に捉えた、切り立った崖の存在によって。
「げえっ────ぐべべえっ!!?」
二郷は立ち止まろうと無理矢理に足を止めるが、当然の事ながら疲労した二郷の足では慣性を受け止めきれない。躓き、転ぶ。背中の少女が傷つかないように前のめりで倒れ込んだ事によって、二郷は体の前面に砂と小石で大量の傷を作る事となった。
それは、大の大人ですら激痛に叫ぶであろう怪我であったが、しかし、二郷にはその叫ぶ程度の猶予すらも与えられる事は無かった。
『 ぐ ぁ え い ヴ わ り 』
「…………マジ、かよ……くそっ」
【顔】は、目の前に居た。
ニタリと笑みを浮かべた顔が、二郷の視界一杯に広がっていた。
『 ら た ジ こか ゆ ヴ 』
ゆっくりと……嬲るように【顔】はその巨大な口を開いていく。
てらてらと光る泥色の唾液が糸を引き、腐りかけの魚の死体の臭いがする吐息が、二郷の頬を撫でる。
「────あ」
ぐぼり、と。
二郷が背中の少女を自分の右横へ突き飛ばしたのと同時に、【顔】はあっさりと二郷を丸呑みにした。ゴギリ、ゴギャリと固い物を噛み砕く様な音が、闇夜に響き渡る。
そして【顔】は口の中のモノを嚥下してから、次の贄である片目を失った少女へと視線を向ける。
「……っ……」
不幸な事に、二郷が突き飛ばした衝撃か、或いは【顔】が齎す悍ましい気配のせいか。死が目前にまで迫ったこのタイミングで、少女の意識は僅かに覚醒していた。
「…………う、あ」
右目からの失血と激痛により意識が朦朧としている少女は、逃げる事も、言葉を発する事すらも出来ない。
助けとなる存在を失った少女に、【顔】から逃れる術はもはや無い。出来る事と言えば、目前に絶望的な死が迫っている事を、ただただ理解させられる事のみ。
命運は尽きた。
少女は無惨に喰われ、恐怖の中で【顔】の贄となる
────筈であった。
『 ……!? ゆい が ぐ ? ぎ、が ! ご っ え !? 』
唐突に【顔】がその様相を変えた。
浮かびあがるその感情を人間に照らし合わせ表現するのであれば……それはきっと、苦悶。
充血した瞳をギョロリギョロリと忙しなく血走らせ、息を荒げ、何かを吐き出そうと何度もえずきだす。
そして、何度目かの咳込みの後。
大量の粘液と共に【顔】の口から其れが。
喰われ死んでしまった筈の少年『
着込んだ学生服はボロボロになり、擦過傷と【顔】に噛み潰された事が原因であると思われる痣こそ残っているが、驚くべきことに致命に至る様な傷は一つも無い。
更に、吐き出された二郷はゆっくりと立ち上がってすら見せる。
「…………あ、あぶねェ……死ぬかと思った。ヤバかった……今のはマジでヤバかった……」
『 は ゆ ひお っ おお ぱ べ っる あ 』
何が起きたか判らない。自身は確かにコレを噛み砕き喰らった筈だ。と、そんな風に混乱をした様子を見せる【顔】であったが、直後、再度込み上げてきた吐き気に耐え切れず激しく嘔吐をした。
先程二郷を吐き出した【顔】の口から、再び粘液と共に吐き出されたのは────人間数体分はあろうかという、大量の白い結晶体。【顔】はそれを何度も何度も吐き出していく。
「へっ……へへへ……おいおいおい! どぉしたんですかぁ!? 好き嫌いしちゃダメだろ『モリガミサマ』よォ! 全部食わねぇと、塩分過多の徴兵逃れが出来ないぜぇ!?」
そう。二郷が言った通り、【顔】が吐き出したのは大量の『塩』であった。
その塩は暗闇の中で僅かに薄く光っており【顔】が悶絶しながらその塩を吐き出す度に、巨大な顔のパーツから黒い煙が立ち上り、その体躯が縮まって行く。
────何か『毒』を喰らわされた。恐らくは、そんな風に思ったのであろう。
【モリガミサマ】と呼ばれた【顔】は二郷を睨み付けるが、その直後、二郷がいつの間にかその掌に、自身が嘔吐した其れと同じ様に薄く光る塩の塊────岩塩を握って居る事を認識し、大きく目を見開く。
『 び お げ ほ じ ゃ お て 』
「【モリガミサマ】ァ!!
先程までとは一転してニタリと笑みを浮かべた二郷は、今や普通の人間と同じ大きさになった【モリガミサマ】に向けてゆっくりと歩を進め、やがてその真正面に立つ。
「テメェの正体がなんであれ、目の前で女傷付けられて、散々走らされて痛ぇ思いして、しかも喰われかけて────ここまで丁寧にもてなされたからには、お返しはしっかりしねぇとなぁ!?」
ここに至り、眼前の少年が己が為の脆弱な贄で無い事にようやく気付いた【モリガミサマ】は、未だ口から塩を嘔吐しつつも二郷から逃げ出そうと後退を始めたが……それはあまりに遅すぎる判断であった。
『 じ ぐじ え じゃ が えか 』
「あ″あ″!!? 言い訳がしてぇなら俺に判る言語で話しやがれ!! 話せねぇなら……おかわりの時間だオラァ!!!!!!!」
『 ぎっ────げ────!!?』
【モリガミサマ】が一歩分後退したその直後、二郷はその口へと岩塩を叩き込んだ。岩と例えられる程に固いその塩塊は、縮小した【モリガミサマ】の歯を砂糖細工の様にポキポキとへし折り、喉の奥へと無理矢理に捻じ込まれていく。
【モリガミサマ】はグルリと白目を剥き……直後、肉が焼けるような音と共に、その口腔からこれまでとは比べ物にならない程の大量の黒煙が立ち上る。
……塩は、古来より魔除けの力を持つとされてきた。
コンビニで売っている塩でも御守り程度の効果はあり、正式に神殿で清めた塩であれば妖魔の類にとっては劇薬と化す。
ましてや、二郷が用いたこの塩は『特別製』だ。いかな正体不明の怪異である【モリガミサマ】でも、これだけの量を体内に詰め込まれれば、耐え切る事は出来ない。
『 げ が げ …… ひ あ ! ぁ 』
耳障りな断末魔が響いたのち、水風船を地面へと叩きつけた時の様な音がした。
そして、瞬く間に【モリガミサマ】を構成していた顔のパーツはドロドロに融解していき……やがては黒い煤と化して、光る塩の上に堆積した。
「………………や、やったか?」
二郷は不穏な言葉を呟いて暫く待つが、それに答える声は無く、何かが起きる様子もない。
「……へ、へへ……やった、やった! やってやったぜ! ザマァ見やがれってんだ不条理め!! ふへっへへ! ……よぉしそんじゃ、後は」
脅威を退けた事を確認した二郷は、息を切らせながらも【モリガミサマ】の残骸である黒い煤へと近づき、それを手で掻き分けていく。
「────っし! やっぱし有りやがったぜ【禍石】!」
そして、二郷が煤の中から見つけたのは、ゴルフボール程の大きさの半透明の球体だった。
其れは一見するとただの薄紫色のガラス玉のようであるが、その内部で赤色の光が乱反射し幾何学模様を描き続けている事から、真っ当なモノではないであろう事が判る。躊躇いも無くその球体を手に取った二郷は、それをポケットに仕舞おうとして
「……っ……」
「──んあ!? 起きたのか!? ……おい、聞こえるか!? 話せるか!?」
「……ぐ……」
「……オイオイオイオイ……これ、町に付くまで持たねぇぞ!?」
少女のうめき声を聞いて走り寄った二郷は、そこでようやく少女が目を覚ましている事に気付き、焦った様子で少女に声を掛ける。
しかし、直ぐに少女が頷く程度の体力も残っていない状態である事を察し、天を仰ぎ頭をガシガシと掻いて──大きく息を吐く。
二郷はそのまま少女の真正面にしゃがみ込むと、右手でその顔を支え、残った左側の眼を見ながら話しかける。
「ああっ、クソッ! 仕方ねぇか……おいアンタ。理解出来てるかわかんねぇけど、先に謝っとくぞ。俺は今からアンタにひでぇ事をする。死んだ方がマシって思うくらい滅茶苦茶痛ぇし苦しい事だ」
自分がこれから行う行為を想像したのか、渋面を作りつつ言葉を続ける二郷。
「だけど、これだけは約束する────俺はアンタを助ける。死なせねぇし、無事に家に帰してやる。だから、超我慢してくれ」
言葉を受けて、少女の瞳が肯定の意を示した──と、二郷は自己の行為の正当化の為にそう思い込む事にした。二郷はそのまま右手で少女を仰向けにさせると、先程拾った紫色の球体を、空洞となり血を流し続けている少女の右の眼窩の真上に持っていく。そして
「っ!?!?」
二郷は左手に力を籠め、球体を砕いた。
突然の奇行。砕かれた球体の欠片が少女の空の眼孔へと注ぎ込まれていき、そのあまりの激痛に少女は体をビクリと痙攣させる。
重傷を負っている人間に対してあまりな仕打ちであるが、しかしこれで終わりではなかった。
「────」
球体の欠片を少女の眼孔に全て注ぎ込んで、空になった筈の二郷の左の掌。しかし、二郷が何事かを唱えると……何もなくなった筈のそこに、白い物体が現れたのである。
その物体の正体は────光る塩。
「……本当に痛ぇからな、堪えてくれ」
そして、先程砕いた球体と同程度の体積の塩を産み出した二郷は、なんと、その塩を少女の眼孔に注ぎ始めた。
傷口に塩を塗り込むどころのレベルではない。
空の眼孔に石の破片と塩を注ぎ込む──生半可な拷問よりも遥かに惨い激痛が少女を襲う事は言うまでもない。
衰弱した身体が何度も痙攣を繰り返し、健在な瞳からはとめどなく涙が流れ出す。
それでも二郷は無理矢理に少女の眼孔に塩を注ぎ続け────やがて、空っぽだった少女の眼窩は塩で埋まってしまった。
瀉血をしていた中世の医者ですらも顔を青くするであろう異常行為。
医療現場でこのような行為をすれば、重傷者はショック死を免れないであろう。
「────」
……だがしかし。不可思議な事に、時間が経つにつれて、少女の血色が良くなっていくではないか。そして、塩を注ぎ終えた二郷が掌を少女の眼孔に添え、再度何事かを呟くと
────先程まで何も無かった筈の少女の眼窩に、確かに眼球が存在していた。
「……っし! すげぇぞ俺! 良く頑張った!」
自身が起こした奇跡とも呼べる所業に対して、思わずガッツポーズを決める二郷は、そのまま少女の方へと視線を向け、激痛から解放され呼吸を荒げる安心させる為にその頭を撫でる。
「よしよし! アンタも良く頑張った! 偉いぞ! もう大丈夫だ! ……だから、とりあえず今はゆっくり寝とけ」
二郷の言葉が聞こえていたのか聞こえていないのかは不明だが、二郷に頭を撫でられた少女は、親に撫でられる赤ん坊のようにゆっくりとその瞳を閉じていく。
やがて、少女が眠りへと落ちた事を確認した二郷は、再び少女をその背に背負うと、今度はゆっくりと足元を確認しながら山を下り始める。
「うへぇ……塩と涎で全身ガピガピになっちまった……それにしても」
見上げた夜空には、相変わらず薄気味悪い赤色の満月。
二郷はそれを暫く睨み付けた後、今日体験した出来事を思い返し、大きな溜息と共に言葉を吐く。
「モブキャラには、そろそろ限界だぜ────だから早く現れてくれよ、本物の主人公ヒーロー」
これは、とある男の物語。
物語の中に落ちてきた、愚かな男の物語である。
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