第143話 龍伐(3)

 最後の最後まで使うのを躊躇っていた〈刻龍〉の血。それは俺が〈刻の霊峰〉を去る間際に〈刻龍〉が渡してきたものだった。


 刻を司る彼の龍は残酷にも「今のままじゃあ〈影龍〉を倒すことはできない」とキッパリと、ハッキリと言い切った。最初はその確とした言葉に苛立ちを覚え、ふざけるなと、決めつけるなと思ったが、あの龍の言葉は結局のところ正しかった。


 しかし、まだ現実を、自分の現在地すらも正確に把握できていない愚者はすぐに思考を切り替えることで沸き立った怒りを抑え込んだ。


 ────「」と言うことは何かしらの方法を用いれば俺でもクソトカゲを殺すことができる。


 発想の転換……と言うには過大すぎる解釈。言ってしまえばそれは言葉遊びの範疇を超えてすらいない。けれども、彼の龍はそんな俺の言葉遊びに乗ってきた。


『君が継承している吸血種の能力と、私の血があれば、運が良ければあのバカを倒せるかもね────』


 目を細め、躊躇うように〈刻龍〉が提示した方法は、俺の────ブラッドレイが先祖代々受け継いできた体質であり、一種のノロイ、〈吸血衝動〉を利用して多様な強さを手に入れて〈影龍〉を超えると言う方法であった。


 理論上、あらゆる生命種の血を取り込めば取り込むほど数多の魔法や特殊能力を自身の力として昇華できるこの体質は反則的な力ではある。けれども、それは言ってしまえば悪魔との契約……普通を捨て去り、〈魔〉へとその身が飲み込まれることを意味する。


 対価には代償が付き物であり、それが世界の普遍的な規則であった。〈吸血衝動〉に一度でも身を落とした者はその瞬間から自我を蝕まれ、人格の崩壊が始まっていく。


〈刻龍〉の提案はクレイム・ブラッドレイの心身の負担、〈魔〉に呑まれる可能性、その他諸々の危険を度外視した策であった。あまりにも非人道的な提案に、流石は龍だと感心さえ覚えるほどだ。


 けれどもその時も、そうして今考えてもこれ以上の妙案はなかった。


『私としても君が自分の力で死ぬなんてのは本望じゃない。だからできるだけの対策は提示させてもらうよ?』


 そんな龍の言葉から分かる通り、結果として俺はヴァイス達から血を分け与えてもらい、〈影龍〉との戦いに臨んだ。〈刻龍〉曰く、〈継承者〉の血液は龍の力に僅かではあるけれど抗える力があるのだとか。


 既にここまでの道中、戦いの最中で全ての〈継承者〉の血を体内に取り込んで今できる最大の準備は整っていた。


 後は全てに腹を括り、その身を〈魔〉へと投じるだけだ。


 ・

 ・

 ・


「ぅが、ぁ……ああ、あぁぁああああああああああああああああああッ!!?」


 それは終わりのない無間地獄だった。


 内側に流れる龍の血が暴れまわり、反るように体がのたうち回る。栓が抜かれたように際限なく魔力が流出して、全て空っぽにされていく。


『正気の沙汰ではないなぁ!!』


 眼前に立っていたはずの龍はいつの間にか後退して、愉しげに頬を引き攣らせている。この期に及んでまだ余裕綽々の奴にソレは思うところが無いわけではないが、今はそれどころではない。


「イッ……あ、がぁ────!!!!」


 全身の肉体構造、臓器から血管、神経、細胞までもが瞬く間に、現在進行形で造り変えられていくような感覚。毎秒ごとに衝撃と激痛が襲い掛かり、意識を失いそうになる。けれどもまた新しく襲う衝撃によって意識が強制的に引き戻される。


「ッ────!!」


 気が付けばソレの視界は赤一色になり、少ししてそれが自分の血で作られた膜であることに思い至る。


 所謂、「繭」だ。幼体が繭の中で新しい成体へと変貌を遂げる過程と同じように、ソレもその身を血の繭で覆いつくし、新しい生物へと成り変る為の過程を高速で消化する。中は血液で埋め尽くされて、まともに呼吸なんてできはしない。苦しみ藻掻くが、いつの間にか藻掻いていた手足の感覚が消え失せて、意識だけがその中に取り残されたような感覚に陥る。


 ────くる、しぃ……。


 ソレの意思を無視して強制的に、無条件に襲い掛かる苦痛の連続は龍の血をその身に流し込んだ代償であり、その果てにソレは今、人間から龍に成ろうとしてた。


 貧弱で脆弱、世界規模で見れば凡百の、たかが人類種が世界を見下す超越種の血を飲めば普通は血の力に耐え切れず、数秒も要さずにその身を絶命されるのが普通である。伝説や伝承、残された数々の学術書によれば、龍の血を飲めば不老不死、永遠の命が手に入るなんて言う謳い文句があり、それを鵜呑みにした数々の愚者共が龍の血を血眼で求めたなんて話もある。だが、そんなのは全部嘘っぱちだ。


 一滴呑めば普通は脆弱な生命種では絶命するし、こうして悶え苦しむことすら許されない。それくらいに龍の血と言うのはこの世あらゆる生命種にとっては劇薬であり、猛毒であった。


 それなのに今、ソレは────クレイム・ブラッドレイは何故か苦痛に藻掻き蝕まれながらも生きていた。それどころか下等な生命種から世界を見下す超越種へと成ろうとしている。


 何故か?


 それは偏に彼の身体に流れる濃いブラッドレイの血が────古ぶるしき時代にいたとされる異常種イレギュラーである吸血種の血が、龍の血に適応しようとしていたからだ。


 本来ではあり得ない現象。例え、現代に根本種たる吸血種が存在して、龍の血をその身に流し込めばこんなことは起き得ない。この状況を実現可能とさせている理由は多岐にわたるが、最大の要因は〈継承者〉の力が大きかった。彼の身体に流れる四つの仲間の血が不可能を可能にして見せていた。


「ぅ、ぁあ……」


 どれほどの時間、苦しみ苛まれ、蝕まれ続けただろうか。羽化の瞬間はなんの音沙汰もなく訪れた。クレイムは外敵から身を守るために張った血の繭を乱雑に引き裂いていく。気が付けば霧散していたはずの腕や足が生えていた。


「URUUGAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!!」


 獣の如く────否、龍の如くソレは雄叫びを上げる。全てを代償にしてクレイム・ブラッドレイは龍の血に適応して見せた。


 自我を感情を記憶を精神を平凡で幸福な人生を────言葉通り全てだ。全てを切り捨て、投げ捨て、この一瞬に捧げて今の彼は存在していた。


「ハァ……ハァ……ハァ────!!」


 荒く、呼吸が苦しい。まだ身体の機能が意識と乖離しすぎて自分の身体だと言うのに上手く扱えている感覚が無い。無限に湧き出る泉のように見覚えのない魔力が新生され、体中から溢れ出て、内側では今までにない力が滾っている。不意に、ソレは自分の姿を確認すれば映り込んだのは全く見覚えのない姿であった。


 深い紅色の外殻────龍鱗に全身は覆われ、腕は鍵爪の様に鋭利で研ぎ澄まされていて、手に持っていたはずの龍殺剣は変化する過程で右腕と一体化している。極めつけは背中には一対の翼が生えそろい、腰兪あたりには唸るように龍尾が伸びていた。身体の大きさに変化は無く、しかしその身体は自分の知る者とは全くの別物────龍、彼は深紅の龍人へと成り変わっていた。先ほどまで無数に、血の力を使っても即時回復が難しいそうな傷の数々は問題なく完治している始末だ。


 その事実を眼前で見ていた〈影龍〉は重々承知していた。だからこそ感極まり、心底から溢れ出る喜びに打ち震えていた。


『最高だ、完璧だ、脱帽だ、予想外だ! まさかこんな奥の手を隠し持っていたとは! しかもそれを実行するとは! 成功させるとはッ!』


 声高らかに〈影龍〉は賛辞を贈るように、新しくこの世に生まれ落ちたの存在を認めた。


『こんな驚愕サプライズを仕込んだ〈時詠み〉には流石に感謝しなくてはな!この闘いが終わったらお礼参りに行かねばなるまい!!』


 隙間に今後の予定を立て始める始末で、それだけでこの龍がどれほど上機嫌で、浮かれているかは一目瞭然であった。


 ────だから何だ。


「殺ス────」


 しかし、そんなのソレには全く関係ない。龍と化した愚者の返答は荒く、稚拙で、知性を感じられない。しかし、反対に意識は鮮明で、思いのほか正常に働いていた。


 龍に成ろうとも依然として愚者は抗いがたい吸血衝動に駆り立てられている。少しでも気を抜けば完全にソレの自意識は消滅しても可笑しくはない。既に愚者の許容量は限界を超えていた。じわじわと〈魔〉に呑まれている。


 身体に刻み込まれた時空を飛び越える魔法で愚者は〈影龍〉へと肉薄する。そうして眼が冴えるような速さで剣と一体化した右腕を突き穿つ。


『おぉっと……!!』


 喉元目掛けて放ったそれは難なく躱される。しかし、愚者は気にせずにただ我武者羅に眼前の龍へと殴り掛かる。今まで大事に揮っていたはずの龍殺剣はもうただの付属品だ。本能のままに、それが一番確率が高いと反射的に理解して身体を動かす。その姿は龍へと成り果て、荒れ狂っている。


『いい!いいぞ!速度も膂力もさっきとは比べ物にならない!最高だ……最高だぞ、クレイム・ブラッドレイ!!』


 それを〈影龍〉は興奮気味に、嬉々として迎え撃つ。


 本気を出せる相手が、滅茶苦茶に暴れても簡単に壊れない玩具が漸く現れてくれた。これを喜ばずして、何を喜べばいいのか? 〈影龍〉には到底、これ以上に幸福なことが思いつかなかった。


「『ッッッ────!!!』」


 超高速の連撃の応酬。互いに殴り、殴られ、抉り、抉られ、死に物狂いでその闘争に身を投げ捨てる。


 傍から見れば何をしているのかも目で追うのは至難の業。しかも戦闘の余波によって帝城は、市街地は、城壁は次々と崩れ、崩壊し瓦礫と化していく。当然だ、今この場には世界を見下し、世界を統べることだって簡単な超越種が二体も存在しているのだ。けれども二体の超越種はそんなことを歯牙にもかけない。ただ己の本能を貫き通すために拳を揮うのみ、無数の魔法を行使して敵を殺しに掛かるのみだ。


 空間断裂、過重衝撃、氷結凍土、輝明閃光……到底在り得ない〈血統魔法〉の────それもその極地へと至った数々の秘奥が〈影龍〉へと襲い迫る。


「ア、ガァアアアアアアアアアアアアアッッッ!!」


『クハハハハハハハハハッ!楽しぃ!楽しいなぁ!やはり、死が近ければ近いほど闘争とは過激で、過剰で、過敏で、気が狂いそうなほど心躍らせてくれるッ!!』


 それらを龍はやはり圧倒的な影の暴力によって相殺する。


 龍はただ楽しかった、ずっとこの瞬間が続けばいいとさえ思っていた。ずっとこの強者との闘争に身を投じていたかった。何せ、こんなことは初めてだったのだ。龍のこれまでの永遠にも等しい生涯の中でこれほど充足し、満たされ、愉快なことは起こり得なかったのだ。どれだけ頑張っても、今まで龍は生を実感できなかったのだ。それがここに来て、龍は生まれて初めて体感しているのだ。


『「生きる」とは、こんなにも楽しいのかッ!!?』


「ウル、セェッ!!!!」


 深紅の拳と影を纏った拳が正面からぶつかり合う。同時に、その中心から激しい魔力の暴発と衝撃が巻き起こりまた周囲を無作為に破壊していく。


 ────休憩なんて必要ない。まだまだ何時間でもこうして拳を交えられる!!


 気分が異常に高揚した〈影龍〉はすぐさま次の攻撃の予備動作を取ろうとするが────


『…………む???』


 瞬間に龍の全身に違和感が生じた。


 明らかに身体の動きが鈍り、軋むように全身が悲鳴を上げて、節々が瓦解し始めているのだ。それはこの乱打の応酬に、眼前の深紅の龍人との尋常ではない膂力の交換に耐え切れなかった証拠である。


『クハハッ!これは本格的に死にそうだなぁ!!』


 その事実を認め、尚も影の龍は戦闘を続ける。元より、この龍は自分と眼前の龍人のどちらかが死ぬまでやるつもりであった。きっと対峙するあの龍人も自分と同じように戦闘の激化に耐え切れず、その身を滅ぼしているであろうと、


「動キガ鈍ッテキヤガッタナァ!?」


 そう思っていた。


『ぁが────!!?』


 しかし、それは龍の勝手な思い込み、全くの見当違いであった。


 深紅の龍人────クレイム・ブラッドレイのその身は未だ健在、負傷はあれど龍ほどの限界は迎えておらず、その勢いは衰えるどころか増している。


『な────!?どういうことだ!どうしてこんなにもオレと貴様で差がある!!?』


 この事実に〈影龍〉は驚き。そうして初めて、恐怖と言う感情を体感した。


 全く以て納得できない。何百、何千の永劫にも等しい時を生きてきた自分と、今しがた龍に成り上がったばかりの新参者の奴がどうして自分を凌駕しようとしているのか?

 その理屈を龍は微塵も理解できなかったが、


『────そうか、これがと言う感覚か……』


 しかし、龍は逡巡し、何処か合点がいったように独り言ちる。その理不尽さこそが龍に「生」を実感させ、推し促した。


「沈メ!クソトカゲッ!!!!」


 そうして、深紅の龍人はこの理不尽で、度し難い、不毛な勝負にケリを付ける。


全テヲ無ニ帰ス龍滅ノ紅キ閃光ブラッドレイッ!!」


 それは例外なく、全てを消し去る鮮血の閃光。体内に巡る全魔力・血液を代償として超高密度の光線を至近距離の影なる龍へと向けて放つ。


 決殺の一撃を前にして、龍は何か策を弄し抵抗することは無く。素直に、呆気なく、ただ死を受け入れた。


「また遊ぼヤロう!!」


 紅き閃光によってその身を亡ぼす最中、龍は満面の笑顔で言った。それに対して龍人は搾りかす程度に残っていた自我でこう答えた。


「二度目ハ……無イサ」


 何せ、お前はこれから死ぬんだから。


 最後まで言葉は紡ず、しかしその言葉の意味はしっかりと彼の龍には通じたらしい。儚く龍は表情を緩めると、完全に世界を見下す龍の一体が死に、勝負は決する。


『────GURUAAAAAAAAAAAAAA!!』


 新たに、すげ変るように世界に誕生した深紅の龍は勝鬨の雄たけびを上げた。それがこの身勝手で、下らない龍を伐つ大戦の終焉を告げる絶叫であった。


 そうして、クレイム・ブラッドレイと言う生命種の自我はそこで完全に〈魔〉に呑まれた。

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