1.復活 【5】悪夢にうなされる遙花

【5】               

 熱い・・・・・・。

 遙花の頬を、強烈な熱風が吹き付け、焼いていた。

 炎から大気が生まれい出てくるように、その熱風は止むことなく遙花に吹き付けてくる。眼前に広がる炎は、辺りを朱色に染め上げ、遙花の前進を拒んでいた。

 炎の向こうに、人影が見える。遙花はその人物の方向へと近づこうとした。しかし、吹き付ける熱風が、足を前に出すことを拒み続ける。

 炎の向こうの人影は、じっと遙花を見つめていた。遙花も両腕で顔に迫る熱風を遮りながら、その人物を見つめた。炎が僅かに割れて、シルエットとなっていた人物の顔がちらりと見える。

「あなた⁉」

 炎の向こうに立つその人物は、自分の夫であった。遙花は、夫の元へ何とか駆け寄ろうと足掻あがいた。それを再び炎がさえぎる。火勢は弱まることを知らず、遙花と拓也の間にそびえ立っている。

 炎の向こうにいる夫は、熱風に髪をわずかに揺らすのみで、静かに遙花を見つめていた。その表情は、この異常な状況下で、不思議なくらい冷静な眼差しだった。

 遙花は、拓也のその表情に、胸が締め付けられるほどの寂しさを覚えた。私がこれ程貴方あなたそばに行こうともがいているのに、何故貴方は見つめているだけなのか。拓也の眼差しは、自分の妻を見つめる瞳ではなかった。まるで他人を見つめるような眼差しだった。

 遙花は、どうしても拓也の側に行きたかった。そしてこの不安な気持ちを、強く抱きしめて霧散させて欲しかった。だが、どうしてもこの炎を越える事が出来ない。灼熱の炎は、身を投じた瞬間に、我が身を炭化させてしまいそうだった。

 遙花は、何度も足を踏み出しながら、熱風に後退させられていた。

 拓也の横に、別のシルエットが現れた。その女性らしきシルエットは、拓也の側に寄り添う。拓也は寄り添った人物に、視線を送る。

(駄目・・・・・・)

 遙花は、心の中で叫んだ。

 拓也は表情を動かすこともなく、横の人物を見つめている。

(駄目・・・・・・)

 遙花は、何度もそう心の中で繰り返した。拓也が横の人物に促され、炎に背を向けた。顔は横の影に向けたまま、歩み去っていこうとする。

「駄目‼」

 遙花は心の中で叫び続けていた言葉を、口に出して叫んだ。

 その言葉に呼応したのか、拓也がゆっくりと振り返る。急速に世界の時間が鈍くなったように、全てがスローモーションのような動きに変化した。沸き立つ炎も、海底の海草のようにゆらゆらと揺れている。

 振り返った拓也の視線が、遙花を捕らえた。その表情には、やはり何の感情も見られない。

 悲しかった。

 自分の愛した人が、自分のことを忘れたかのような視線を投げかけている。自分に背を向け、去っていこうとしている。遙花の胸の苦しみは激痛に変わり、まぶたから鼻にかけて熱さがこみ上げてきた。頬を涙が伝う。遙花は、拓也に向かって叫んだ。

 しかし、その声は音となって響かなかった。

 拓也の視線が、瞬きしながらゆっくりと遙花から外れ、前方へと戻っていく。

 遙花は叫び続けた。しかしその声が届かないのか、拓也は遠ざかっていく。遙花の知らない場所へと。その場所に行ってしまえば、拓也は帰って来ない。夫と二度と会うことが出来なくなる。遙花は、喉が潰れることも構わずに叫んだ。


「あなた!!!」

 突然響いてきた我が声に、遙花は瞼を開いた。

 その部屋には光が降り注いでいた。開いた窓からは緩やかな風が吹き込み、白いレースのカーテンをなびかせている。白壁が光を反射し、部屋の中を白く染めていた。

 部屋の中央にベッドが置かれ、その横で計器の画面に規則正しい波形が横に流れている。遙花はそのベッドの上で目を覚ましていた。霞む視界には、白い天井が見える。

 遙花は、重い体を起こした。辺りを見渡し、今自分がいる状況を把握しようと、思考を働かせた。周りの風景から、ここが病室だということは解った。

 窓から入り込んできた風が、遙花の身体を撫でていく。風の冷たい感触に、遙花は自分が汗まみれになっていることに気付いた。全身が、汗に濡れている。

 布団から起き出た身体から熱が奪われ、遙花は自分の両肩を抱きしめた。この病室に一人で居ることに、寂しさを覚えた。同時に、今見た夢の孤独感が思い出された。

 今すぐ夫に強く抱きしめて欲しかった。拓也の身体の感触を、痛いほど味わいたかった。さっきの出来事が、夢であったと、感じさせて欲しかった。

 何故自分はあんな夢を見たのだろう。これまで自分は、拓也がいなくなるなどということを、想像もしたことがなかった。自分を置き去りにして、何処どこかへ行ってしまうなど考えたこともなかった。もちろん自分以外の女性に興味を持っているなどと、感じたこともない。遙花はそんな夢を見たこと自体に罪悪感を覚えた。

 夫は自分を愛してくれている。私を置いて何処かへ行くなんて有り得なかった。そんなことを、夢の中の事とはいえ考えてしまった自分が、とてつもない裏切りを犯したような気がした。何故あんな夢を見て、今悲しみを覚えているのか。思い当たるふしがなかった。

 拓也の顔が無性に見たかった。強く抱きしめ、自分を壊して欲しい。夫を裏切るような夢を見てしまった自分をいさめ、身体に残る罪悪感と不安を、全て拭い去って欲しかった。

 自分で自分の身体を抱きしめても、先程までの絶望感と悲しみが薄れていく気配はなかった。遙花は、先程までの夢を拭い去ろうと、両手で顔を覆った。髪を掻き上げようと伸ばした指先に、頭に巻かれた包帯が触れた。

 突然脳裏に、暗くなった部屋に立つ男達の黒い姿が浮かぶ。

 その時の恐怖と、投げ出された身体の感覚が思い出される。

 だがそれ以外は何も思い出せなかった。

 ふと、自分の頭の傷が痛くないことに遙花は気付いた。恐る恐る、後頭部にまで手を回してみる。やはり、あの時打った場所に痛みは感じられなかった。

 頭を回した遙花の視界の隅に、四角い紙が映った。それはベッドの脇にある机の上に置かれていた。遙花は腕を伸ばし、そこに置かれた封筒を指先で掴んだ。

 目の前に持ってきて、封を切り、中の手紙を引き出して広げる。


“遙花へ”

 広げた一枚の紙には、自分への手紙が書かれてあった。

“君が目を覚ましてくれることを願いながら、この手紙を書いている。

 君をこんな目にわせてしまったことを後悔してる。こんな事になったのは、全て僕の責任だ。そして僕は、君をこんな目に遭わせた奴らを許せない。君を二度と、こんな事に巻き込ませないために、僕は奴らの正体を突き止め、あばき出すために行って来る。

 約束するよ。けして二度と君に手を出させるようなことはさせない。

                             ―─拓也”


 読み終えた遙花は、ハッと視線を前方に持ち上げた。

 そして手紙を手に握りしめたまま、身体に付けられているコードを引き剥がし、ベッドから抜け出ていった。

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