1.復活 【4】猪神製薬に来た拓也

【4】

 地上から暗い夜空に向かい、街の明かりが、オレンジ色のドームを形作っていた。シルエットとなる高層ビルの屋上に、紅いランプがルビーのように、あちらこちらで明滅めいめつしている。繁華街から離れたこの場所のアスファルトの道路は、街灯の明かりを受け、濡れたように黒光りしていた。

 道路には車も無く、歩道を歩く人影もない。深夜を遥かに過ぎたこの時間に、街から外れたこの場所を通る者など、居はしないであろう。

 全ての者が眠りにつく時間。今はそんな時間だった。

 しかし、そんな時間のこの場所に、一人立ちすくむ男の影があった。

 遠くから聞こえてくる車の音以外、何も聞こえてこないこの静かな場所に立ちすくみ、拓也は空を見上げていた。見上げる先には、暗い夜空に向かって、黒いビルの影が伸びている。

 猪神製薬所本社ビル。拓也はこの場所にきていた。


 伊吹が消えていった海を暫く見つめていた拓也は、研究室に戻った。それは、伊吹が残した最後の言葉の証拠を掴むためであった。

 拓也が研究していたプログラムに変更が加えられていたことは、拓也も気付いていた。

 その犯人も目的も解らなかったが、今夜それが解明され、プログラムが意味することも解った。その意味を知った上で改めてプログラムを見てみると、どのような意図がこれに込められているのかが理解できた。

 拓也は、過去に実験のため使用した自分のDNA解析の結果と、他人のモノとを見比べてみた。解析した当時は気付かなかった差異が、次々と見つかった。いやプログラムに、DNA配列の差異部分が判るよう残されていた。

 遺伝子の無駄と思われる領域が、意味を成す物へと変化し、より効率的な配列へと変わっている。それはまさに、人と異なる種へと変貌へんぼうしているように見えた。いや、純粋で究極の人の形態だとでも言おうか。伊吹の言ったことは、嘘ではなかったのだ。

 その証拠が、此処に、この机の上に存在していた。何よりも、昨夜の自分の発動させた力が、他人と異なることを物語る何よりの証拠であった。

 二人には子供が出来ない―──。 

 結婚してからずっと、待ち望んでいた二人の愛の結晶。何時かは出来るだろうと信じていた妻との子供が、出来ないと知らされたのである。それも自分が原因で。

 伊吹と入り江で会った数か月後に二人は結婚した。つまり結婚する前に、二人に子供が出来ないことは決まっていたのだ。

 確かに、自分が子供を作れないという事実も衝撃であった。しかしそれよりも、妻に子供を産む喜びを与えてやれないことの方が拓也を苦しめていた。

 病室で眠る原因を作ったのも、自分のせいなのだ。今の自分に出来ること。それは遙花をあのような目にあわせた連中の真意を暴くことだった。遙花との幸せな家庭を作る希望が失われた今、遙花に傷を負わせた連中の正体を掴み、復讐することが遙花のかたきを取ることに思えた。それ以上に、早く奴らの正体を掴まなくては、次はどのような手段を使ってくるか解らなかった。病室に眠る遙花を連れ去ることさえ考えられるのだ。それだけは防がなくてはならない。

 一体何故、自分たちは襲われたのか。そうまでして隠したい事とは一体何なのか。

 この場所に、その原因が隠されているに違いなかった。

 拓也の脳裏に、病室に眠る遙花の姿が思い出された。体中に、悲しさと怒りが込み上げてくる。

 拓也は足をビルに向かって進め始めた。このビルに侵入する手段など、皆無かいむだった。それでも拓也は、何か行動を起こさなくてはならない衝動に駆られていた。

 裏手の社員通用口まで辿り着き、2m近い高さの金網を飛び越える。身体が妙に軽いのを感じた。

 ドアの脇に立ち、そこにあるタッチパネルを見つめる。此処から先へ進めなくては、遙花を守ることが出来なくなってしまうのだ。ここで諦めてしまっては、遥花に対する自分の存在意義が、全く失われてしまう気がした。拓也の額に、汗の玉が浮かぶ。

 突然、目の前のコンソールパネルが、淡い緑の光を縦横に明滅させた。

 カチッ

 明滅が終わると、通用門から、鍵が開く音がした。拓也は何が起こったか解らなかったが、扉のノブを掴み、回してみる。扉は、何の抵抗もなく引かれ、壁との間に隙間を生じさせた。

 ―──私たちは自分が望むことを具現化させる能力を持っているのよ―──。

 伊吹が言った言葉が、頭の中で木霊した。そして、伊吹が言ったことの証拠がまた一つ増えたことに、拓也は寂しさを覚えていた。

 扉を静かに開いていく。闇に包まれた外よりも暗い世界が、そこに在った。

 拓也は、廊下に伸びる自分の影を見ながら、中へと足を踏み入れる。

 扉を閉めると、真の暗闇が自分を包んだ。

 拓也は壁に手を添え、手探りに前方へと進んでいった。暗い廊下は長く続く。思うように進めないせいか、その廊下は果てしなく続いているように感じられた。

 暫くすると、手から壁の感触が失せた。一瞬、宙に浮いたような感覚におちいる。

 拓也はその場で四方を探りながら、方向を決めあぐねていた。

 その時、突然前方に光が点灯し、開ききった拓也の瞳孔どうこうを刺激した。


「いらっしゃいませ」

 光の現れた方向から、女性の澄んだ声が響いてきた。

 拓也は声に驚き、光に目を細めながらも、その方向を見た。スポットライトのような灯りが天井から降り注ぎ、その中央に女性が立っている。それはマネキンに見えた。

 会社の制服を着た、受付嬢のような女性が立っていた。薄明かりに包まれた辺りを見渡すと、ビルのロビーらしき広い場所に辿り着いていることが解った。

 広い床の中央に立つその女性を、暫く拓也は見つめていた。光の中の女性は、笑顔を浮かべたまま微動だにせず立っている。来客用に精巧に作られたロボットであろうか。それがこのロビーに入ったことで反応した? そう思い、拓也はその女性の方へと近づいた。

「何かご用ですか?」

 そう言って、女は軽く首を傾げた。

 その滑らかな動作は、機械仕掛けによるものではなかった。

 拓也は歩を止めた。一瞬にして血の気が引いていくのが解る。こんな深夜に、受付嬢を残している会社などあるはずがない。しかもずっと立ったまま、来るはずもない来訪者を待つ受付嬢がいる訳がなかった。

 その女は、ずっと笑顔を浮かべたまま、拓也の返事を待っている。

 拓也は、この女がこの世の者で無い感覚に襲われた。身体が強張こわばり、視線が外せない。女の正体を見極めようと見つめた女の瞳から、視線が外せないのだ。それに気づき、必死に視線をらそうとしても、何かの磁力に吸い付けられたように瞳が動かない。

 女の瞳が迫ってくるように感じる。拓也を浮遊感が襲った。

(しまった―──)

 自分が此処ここに忍び込むことを、敵に把握されていたことを直感した。この女は自分を待ち受けていたのだ。女の瞳に、自分の意識が吸い取られていくのを感じた。

 どのような技を用いているのか想像が付かなかった。催眠術師が相手の意志を自由に操るように、女は拓也の意識を遠ざからせていく。最後の意識が女の瞳に吸い込まれた感覚を感じた瞬間、拓也の思考はブラックアウトした。身体が崩れ、前方へと倒れていく。

 床の冷たさを頬に感じることもなく、拓也は意識を失い、床に横たわった。

 光の中の女は、倒れて動かなくなった拓也を見つめていた。

 ずっと絶えることの無かった笑みが、女の顔から消えていく。

 女は、光の中から歩み出てきた。ヒールが床を叩く音が、広いロビーに木霊した。

 拓也の側に立つと、しゃがみ込み床に両手と膝をつき、上から拓也を覗き込む。

 拓也は、完全に意識を失っていた。

 女の顔に、さっきまでと違った、怪しげな笑みが現れる。視線は、拓也の喉元に注がれていた。笑みを浮かべた女の口元から、長く伸びた白い犬歯がこぼれて見えた。女は瞳を大きく見開き、肘を立てて口を開きながら、拓也の身体に覆い被さっていった。

「待て」

 その声に、女の身体がビクッと止まり、起きあがる。立ち上がり、声のした方向に正対する。足音が響いてくるのを聞くと、ロビーの影になった場所に向かって両手を身体の前方で重ね、深々と頭を下げた。

 その影から、一人の男が現れた。

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